第7話:言いかけの息跡
朝の色がまだ決めきれないまま窓に貼りついているころ、ひかりは目を覚ました。眠れたかどうかは曖昧だった。けれど、眠れない夜の刺々しさも残っていない。代わりに、昨夜の帰り道の感触が体の内側に沈んでいる。言い切った言葉だけが、布の繊維みたいに引っかかってほどけない。
湯を沸かす音が、部屋の沈黙をゆっくり割った。湯気は白く立ってすぐ消える。消えるものに比べて、消えないものは面倒だと思う。面倒なのに、捨てたくない。ひかりはカップを両手で包み、窓の外のビルの輪郭を眺めながら、昨夜の自分の声を思い出す。迷惑じゃない日、あると思う。あれは約束ではないはずなのに、約束みたいに生活へ貼りつく。
駅へ向かう道は、夜の雨を薄く引きずっていた。舗装の隙間から上がる湿りに、車の匂いが混じる。冷えるほどではない風が、耳の後ろだけをかすめた。ひかりはコートの襟を直し、ポケットに手を入れそうになってやめる。手を隠すと、昨夜の続きを隠してしまう気がした。
編集部は乾いて明るい。紙が擦れる音が硬い。誰かの笑い声が、遠くの壁にぶつかって戻る。ひかりは端末を机に置き、画面を開いた。原稿の文字列は整えるためにある。整える作業をしていると、心も整ったふりができる。
午前は淡々と過ぎた。確認、修正、電話。短い謝罪と、短い笑い。笑う前に息を整える癖が、昼では役に立つ。役に立つぶん、夜にもついてくるのが厄介だった。
昼過ぎ、端末が震えた。ひかりは画面を見る前に息を吸ってしまう。癖が期待をばらす。蓮からだった。
「帰り、同じ方向なら歩ける」
短い文なのに、喉の奥が乾く。歩ける、は確認に見えるのに、ひかりには希望の形に見えてしまう。希望を受け取ると、返さなければならない気がする。返すことが怖い。ひかりは指を止めて、仕事の画面に目を戻した。
結局、返したのは保険つきの文だった。
「今日は少し遅いかも。出られたら連絡する」
送信してすぐ、胸の奥がざわつく。遅いかも、は逃げ道だ。逃げ道を作る自分が情けない。情けないのに、逃げ道がないと立てない感じもする。立てない感じを認めると、夜の習慣がただの避難だったと分かってしまいそうで、ひかりは認めないふりをした。
窓の外の色が薄く沈み、ガラスが鈍い光を返すころ、仕事がまた増えた。ひかりは紙の束を引き寄せ、指に当たる角の痛みで集中を戻す。小さな痛みは便利だ。便利だから、頼りすぎないようにしたい。したいのに、今日は頼ってしまう。
外へ出たとき、街灯の輪が歩道に濃くなり始めていた。空気は湿りを含み、雨の匂いがまだ遠くに溜まっている。駅へ向かう人の背中が点々と続く。ひかりは端末を開き、迷わないふりをして打った。
「今出た。少しだけ歩ける」
少しだけ。打った瞬間に後悔が来る。まだ逃げ道を残している。残しているのに、会いたいのは本当だ。自分の中の二つがぶつかって、息が浅くなる。
「駅の外で待つ」
蓮の返事は早かった。待つ、の二文字が今日も刺さる。刺さるのに、嫌ではない。その事実がいちばん危ない。
改札を抜けると、駅前の空気は乾きと湿りが混ざって揺れていた。看板の光が路面を浅く照らし、濡れていないのに濡れて見える。東京の夜は見え方だけで心を動かす。ひかりはその揺れに乗りたくなくて、視線を少し下げた。
蓮は流れから外れた影の位置にいた。肩の力を抜いたまま、周囲を拾う目。ひかりを見つけた瞬間、表情が少しだけほどける。ほどけたのが分かるくらいに、距離が近い。
「おつかれ」
「おつかれさま。遅くなった」
「うん。大丈夫」
大丈夫と言う声は軽い。軽いのに、救いになる。救いが増えると、こちらも返さなければならない気がする。ひかりはその気を紛らわせるように歩き出した。今日は運河へ行かない。帰り道を一緒に歩く。夜の習慣とは少し違う形だ。
駅前を離れると、音の密度が変わった。車のうなりが遠くなる。靴音がくっきり立つ。植え込みの葉が擦れ、どこかの換気扇が低く唸る。明るい場所では顔が見えて、暗い場所では気配が先に届く。ひかりは気配のほうが楽だと思ってしまう。
「疲れてる?」
蓮が横を見ずに聞いた。
「疲れてない」
ひかりは反射で言って、すぐに苦くなる。疲れていないわけがない。嘘をつくほど守りに入っている。蓮は笑わず、歩幅を少し落とした。合わせる動きが、いつもの夜の癖と同じで、今日は妙に目立つ。
小さな橋を渡ると、下から湿った匂いが上がってきた。水面は見えない。けれど、冷えた空気が隙間から抜けるのが分かる。足元の鉄が微かに鳴り、遠い車の振動が遅れて届く。その遅れが、言葉の遅れに似ている。
蓮が息を短く吸った。言いかける前の癖だ。吸って、止まる。止まった沈黙がひかりの胸を細く痺れさせる。
「何?」
ひかりは促すように言った。声が思ったより柔らかくて、自分で驚く。
「いや」
蓮はそれだけ言った。終わらせるための言葉。ひかりの内側が冷える。責めたいわけじゃない。けれど、最近の彼は言いかけてやめることが増えた。増えたことが、関係の変化の証拠みたいで怖い。
「……最近、言いかけてやめるよね」
言ってしまった。言った瞬間、胸の奥が跳ねる。蓮は歩幅を落とし、ひかりに合わせた。合わせ方が丁寧で、余計に言葉が刺さる。
「ごめん」
「謝らないで」
ひかりは反射で言った。謝られると、沈黙が悪いものになる。悪いものではない。彼は彼のやり方で、こちらの自由を残そうとしている。残された自由が、今日は重い。
少し歩くと、出汁の匂いが流れてきた。扉の開いた小さな店から、湯気と温かさが外へ漏れる。生活の匂いは、夜の逃げ道を狭める。狭めるのに、惹かれてしまう。
「飯、行く?」
蓮が言った。言い切ったのに、すぐ逃げ道を足す。
「無理ならいい」
優しい。だからこそ、ひかりは迷う。迷っている間に匂いが背中を押した。ひかりは頷いた。頷いたら現実が一つ増えた。
店の中は湯気が漂い、皿の当たる音が小さく響く。人の話し声は低く、言葉の輪郭がはっきりしない。照明が温かく、外の夜とは別の夜がある。ひかりは箸を持ち、食べることに集中しようとした。集中すると、余計な考えが少しだけ薄まるからだ。
「こういうの、久しぶり」
蓮がぽつりと言った。久しぶり、という言葉が胸に引っかかる。夜の散歩は久しぶりではない。けれど、こういう普通の時間は久しぶりだ。普通が増えると、夜の特別さが薄くなる気がする。薄くなるのが怖いのに、薄くなるのは悪いことではない気もして、ひかりは答えに困った。
「普通って、難しいね」
ひかりが言うと、蓮は笑いそうになって笑わなかった。代わりに、親指で関節をなぞる。癖が出るとき、彼の内側の衝動が表に触れている。ひかりはその衝動が見えるのが怖い。怖いのに、見えなくなるほうがもっと怖い。
「難しい」
蓮は短く言った。短く言って、続ける。
「でも、こういうのを、ひかりとやりたいって思う」
やりたい。欲張るの近くにある言葉。ひかりの胸が熱くなる。熱はすぐ不安を連れてくる。言葉が生活に触れてしまう。触れてしまったら、戻れない。
ひかりは返事を探した。探している間に箸が止まる。蓮は何か言いかけて、やめた。やめた瞬間がよく見える距離だ。見えると、痺れがまた来る。
「言って」
ひかりは小さく言った。言った自分に驚く。驚いたのに、引っ込めたくない。
蓮はひかりを見た。視線が合う。合って、外れない。外れない視線は、店の灯りより眩しい。
「言うとさ」
蓮の声が少しだけかすれた。
「言うと、ひかりが今のままじゃいられなくなる気がする」
今のまま。ひかりの胸が縮む。今のままが壊れるのが怖い。壊れるのに、今のままでは息ができなくなり始めている。矛盾が喉の奥に詰まり、言葉にならない。
「今のままって、何」
ひかりは聞いた。鋭くしたくないのに、鋭さが滲む。
蓮は息を短く吸って止まった。止まる沈黙が、二人の間に落ちる。店の音が少し遠のく気がした。耳が内側へ向き、心臓の音が大きくなる。
「ごめん」
蓮が言った。小さい声だった。
「謝らないで」
ひかりはまた言った。繰り返した自分が嫌になる。嫌になるのに、他の言葉が出ない。ひかりはカップを持ち上げ、温かい液体で喉を整えた。整える癖が、ここでも出る。
店を出ると、外気が頬を引いた。雨は降らない。けれど空は湿りを溜めている。路面の端に水たまりが残り、街灯の光が薄く揺れている。揺れは水面のものなのに、ひかりの胸の揺れに見えてしまう。そういう自分が、少しだけ嫌だ。
帰り道は同じなのに違って感じた。店の温度が体に残り、言いかけて止まった言葉が喉に引っかかっている。蓮は隣で歩幅を何度も調整した。合わせる癖は、運河だけのものではない。そう思うと、夜が少しだけ広がる。広がるほど、失うのが怖くなる。
「ひかり」
蓮が呼んだ。呼び方が少し低い。
「なに」
「今日、来てくれて」
言いかけて止まる。止まる。ひかりはその止まり方に慣れたくないと思った。慣れたら、待つのが当たり前になる。待つのが当たり前になったら、いつか待つのをやめたくなる。
「来てくれて、何」
ひかりは促した。促す声が震えそうで、息を整える。整える癖が、また出る。
蓮は視線を合わせて、一度外して、戻した。
「来てくれて、嬉しかった」
嬉しかった。言い切った。それだけで空気が少し変わる。変わった空気が肺に入り、少しだけ苦しい。苦しいのに、温かい。
「……そう」
ひかりはそれしか言えなかった。言えない自分が悔しい。悔しさは、もっと言ってほしいという欲に変わる。欲に変わった瞬間、自分が怖い。
歩きながら、蓮の手が動いた。ひかりの手の近くへ来て、そこで止まる。触れない。触れないまま止まった指先に、ためらいが見える。ひかりはそのためらいが、優しさだと知っている。知っているのに、今夜は少しだけ残酷に感じる。
「触れたいなら」
ひかりは言いかけて止めた。止めた瞬間、自分が彼と同じことをしているのに気づく。言いかけてやめる。やめる癖がうつるほど、距離が近いのだろうか。そう思ってしまう自分が、また少し怖い。
駅の明かりが近づく。人の気配が増え、現実の音が濃くなる。別れが近いと、今夜の言葉の足りなさが目立つ。足りないまま帰るのが嫌で、ひかりは足を止めた。止めた場所は街灯の輪の外だった。暗いほうが表情を隠せる。隠れるほうを選ぶ自分が情けない。
「ねえ」
「うん」
「言いかけてやめるの」
ひかりは一度息を吐いた。吐いた息がすぐ消える。
「やめないで。やめたままにしないで」
要求だと分かる。分かるのに、言ってしまう。言わないと、自分がどこかへ行ってしまいそうだった。
蓮は一拍、黙った。選ぶ沈黙だった。第1章の遅れの沈黙とは違う。
「やめない」
蓮が言った。短く言って、続ける。
「でも、今日みたいに言えない日がある」
ひかりは頷いた。分かる、と言うのが怖くて、頷くしかなかった。頷いた自分が待つ側に戻る感じがして、胸が少し痛む。
「分かってる」
ひかりは言った。声が乾く。
「でも、ずっと言えない日が続いたら、私、どこにいたらいいか分からなくなる」
言ってしまった。言った瞬間、喉の奥が熱くなる。涙に近い熱だ。泣きたいわけではない。ただ、身体が追いつかない。
蓮の目が揺れた。揺れたのに、彼は急がない。
「ひかりは、ここにいる」
事実を言われると、少し落ち着く。落ち着くと、次が欲しくなる。欲しくなる自分がまた怖い。
改札の前まで来て、二人は立ち止まった。人の流れが横を通り、会話の端をさらっていく。紛れたくない。けれど紛れないと、次の言葉が出てしまいそうだった。
「また」
蓮が言った。いつも通りの言い方なのに、今夜は重い。
「うん」
ひかりが答える。答えながら、喉の奥に未完成の言葉が残っているのを感じる。触れたい。言ってほしい。言いたい。全部が絡まって、まだ形にならない。
部屋に戻り、照明をつける。白い光が床を平らにする。平らな部屋の中で、ひかりはコートを掛け、手を見た。冷えている。冷えはただの温度のはずなのに、今夜は感情と結びつく。
湯を沸かし直す。沸騰の音が部屋を満たし、湯気が立って消える。消えるものに頼りたくなる。けれど、消えないものが増えてしまった。増えたものは放っておけば重くなる。重くなる前に、どこかで一度途切れさせるしかないのかもしれない。守るために切る。壊すためではなく、守るために。
そういう予感が、湯気より先に胸へ入り込む。予感は嫌だ。嫌なのに、胸の奥で小さく頷いてしまう自分がいる。
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