第6話:同じ道が違う音

雨のあとの東京は、音が少し遅れて届く。水を吸った舗装が足音を丸め、車の走り去る気配が壁にぶつかってからようやく耳へ来る。ひかりはその遅れに助けられたり、焦らされたりする。今日は焦らされる側だった。昨日の昼の偶然が、まだ体のどこかに残っている。会場の温度。名刺の紙の硬さ。呼び捨てにした自分の声。その一つひとつが、夜の習慣に混ざって、手触りを変えてしまう。


朝、出社の支度をしながら、ひかりは手袋のことを思い出した。第4章の夜にもらった薄い手袋。今は引き出しの中にある。持っててと言われた言葉が、引き出しの中で静かに固まっている。持っているだけで、夜の続きが生活の中に入り込む。入り込んでいるのに、昼の顔は変わらないふりをする。ふりが上手い自分が、少しだけ腹立たしい。


昼の連絡は増えた。増えたと言っても、長い会話にはならない。空の色。道で見た猫。駅のホームの風。広告の打ち合わせで出された変な菓子。どうでもいいこと。それがどれも、ひかりの心の端を軽く叩く。叩かれると、軽くなる。軽くなるほど、仕事の背中が少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。夜にしか救われないと思っていた自分が、昼に救われ始めているからだ。


夕方、編集部の窓の外が鈍い色に沈むころ、ひかりは机に手を置いて深く息を吐いた。今日は早く切り上げられる。切り上げられる日は珍しい。珍しい日は、余計なことを考える余地が増える。余地が増えたぶんだけ、夜の予定が濃くなる。濃くなるのが怖いのに、濃くなってほしい自分もいる。


携帯端末が震えた。


「今日、どこ歩く」


蓮からだった。どこ、という言葉が、ひかりの胸の奥をゆっくり押す。昨日、運河じゃないところも歩いてみたいと言った。その言葉を彼が覚えている。覚えていて、選択をこちらに渡してくる。渡されると責任が生まれる。責任は名前の手前にある。名前が怖い。怖いのに、逃げたくない。


ひかりは少しだけ迷い、短く返した。


「辰巳の方から、橋を渡ってみる」


橋。運河沿いの直線ではない。渡るという動作が入る。渡ると、風が変わる。風が変わると、夜が変わる。夜が変わるのが、今の自分に必要な気がした。


「わかった。いつもの辺りで」


いつもの辺り。いつもの言葉で始めて、そこから変える。そういう段取りが、彼らしい。いきなり壊さない。壊れそうなものに、緩衝材を入れてくる。緩衝材の優しさが、今日は少しだけ痛い。


電車の窓に映る自分の顔は、昼のままだった。疲れがある。目は冴えている。唇の内側が乾いて、噛みたくなる。噛むと落ち着く。落ち着きが、今夜は必要なのか、邪魔なのか分からない。ひかりは噛むのをやめて、水をひと口飲んだ。冷たい水が喉を通る。通ったあと、胸の奥が少しだけ空く。空いたところへ、蓮の言葉が入りそうで怖い。


辰巳に着くと、駅前の空気が薄く冷えていた。雨は止みきっている。けれど地面はまだ柔らかい匂いを持っている。水が土の匂いを引き出し、排気の苦さと混ざって、夜の入口を作る。ひかりは歩きながら、昨日の自分の手の上げ方を思い出してしまい、肩が少しだけすくんだ。昼の合図は、夜の合図と違って戻せない感じがする。


工事の柵は、まだそこにあった。金属が白く光る角。通れない穴。穴の向こうに、いつもの街灯が見える。見えるのに届かない。届かないことが、少しだけ象徴的すぎて嫌だ。物語みたいなことを現実に重ねるのは好きではない。編集者として、都合のいい象徴は信用しない。けれど、夜の自分は時々、そういうものに引っかかる。引っかかる弱さを、今日は見たくない。


少し外れたところに、蓮がいた。影の中で待つ立ち方は変わらない。けれど、今日は彼の姿が昼の会場の記憶と重なって見える。スーツではない。でも仕事の顔が、どこかに残っている。ひかりの胸がわずかにざわつく。ざわつきは不安に近い。近いのに、不安とは言い切れない温度がある。


「おつかれ」


「おつかれさま」


挨拶は短い。短いまま、目が合う。合った瞬間、昼の彼が夜の彼に溶け込む。溶け込むのが怖い。怖いのに、ほっとする。ほっとするのがいちばん危ない。


「橋、行くんだっけ?」


蓮が言う。


「うん。行ける?」


「行ける。……行きたい」


行きたい、という言葉が出た。断定に近い。ひかりはその一語に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。熱くなったことを悟られたくなくて、ひかりは視線を足元へ落とす。濡れた舗装が、街灯の光を浅く映している。浅い光は、感情の浅さみたいに見えて嫌だ。浅くない。自分の中のものは、もう浅くない。


二人は歩き出す。運河沿いの道から少し外れ、橋へ向かう。道幅が変わる。音が変わる。車道の近さが増え、人の気配が少し減る。住宅の窓の明かりが点になり、点の間に暗い層が挟まる。暗い層は、夜の余白だ。余白があると、言葉を足したくなる。足したいのに、足せない。


「昼、会ったの」


ひかりが言った。言い出した瞬間に、喉が少し痛い。言葉は紙の上なら整えられるのに、口の中では整えきれない。


「うん」


蓮はそれだけ返す。言い訳もしない。弁解もしない。ひかりの胸の奥が、少しだけ軽くなる。軽くなってしまうのが腹立たしい。


「驚いた」


「驚くよな」


「……驚いたのに、変に納得した」


ひかりがそう言うと、蓮は短く息を吸った。言いかける前の癖。彼はそれを隠さない。隠さないことが、今日の夜の温度を上げる。


「納得って」


「昼のあなたが、そこにいるってこと。ずっと知らないふりしてたから」


ひかりは言ったあとで、自分の言葉が少し冷たいことに気づいた。知らないふり。彼が悪いわけではない。悪いのは自分だ。自分が夜に都合のいい彼を置いていた。置いていたことを認めるのが怖い。


蓮は歩きながら、視線を前に置いたまま言った。


「知らないふりさせてたのは、俺だと思う」


「違う」


ひかりはすぐ否定した。否定の速さが、胸の内側を裏切る。速い否定は本音の形だ。ひかりは息を吐いて、少し柔らかく言い直す。


「違うよ。私が、夜だけを選んでた」


夜だけを選んでた。言ってしまった。言葉にすると、夜の習慣が急に偏って見える。偏りは不自然だ。不自然なのに続いていた。続いていたことが、恋の証拠みたいで怖い。


橋の手前で風が変わった。水の上の風は、冷えるのではなく、皮膚を削るみたいに細い。細い風が頬を撫で、髪の隙間に入り込む。ひかりは無意識に首をすくめる。蓮がそれを見て、歩幅をほんの少し落とした。合わせる動作。夜の癖。けれど今夜は、橋の上の空間が広いせいで、合わせられることが目立つ。目立つと、距離が意識される。


欄干に沿って歩くと、足元の鉄が微かに震える。遠くの大型車が橋を渡る振動が、遅れて届く。街の力が、体の底へ伝わる。ひかりはその震えに、妙に安心した。自分の心臓だけが鳴っているわけじゃない。夜は自分だけのものではない。そう思えると、少し楽だ。


橋の上から運河を見下ろすと、水面はいつもより暗い。街灯の反射が遠く、光が届く場所と届かない場所がはっきり分かれる。分かれる境界が、今の二人の境界に似ている。似ていると思ったことに、ひかりはまた腹が立つ。象徴に頼るな。分かっているのに、夜は勝手に比べる。比べてしまうほど、今の自分は追い詰められているのかもしれない。


「ひかり」


蓮が呼ぶ。名前が橋の上の風に乗って、少しだけ遠くに抜けそうになる。ひかりは返事を飲み込み、視線だけで促した。


「昼のこと、嫌だった?」


嫌だった。問いの形なのに、責める響きがない。彼は責めない。責めないことで、こちらが勝手に罪悪感を育ててしまう。罪悪感は簡単に恋の形を借りる。借りた恋は偽物だ。偽物の恋をしてしまうのが怖い。怖いから、ひかりは正直に寄せた答えを探す。


「嫌じゃない」


短く言って、続ける。


「ただ、怖かった」


「何が」


「昼に会ったら、夜が薄くなる気がした」


薄くなる。夜が薄くなる。言った瞬間、自分が子どもみたいだと思ってしまう。夜にしか居場所がないみたいな言い方。そんなはずはないのに。仕事もある。生活もある。友人もいる。なのに、夜が薄くなることが怖い。怖いほどに、夜が大事になっている。


蓮は黙った。黙ったまま、橋の向こうの光を見た。光は少し赤く、信号の色だ。赤い光は止まれの合図なのに、夜の中では呼び水みたいに見える。


「薄くなるんじゃなくて」


蓮がゆっくり言う。


「混ざるんだと思う」


混ざる。言葉が柔らかい。柔らかいのに、意味が重い。混ざったら、元に戻せない。混ざるのが怖い。怖いのに、混ざってほしい気もする。ひかりはその矛盾をどう扱えばいいのか分からなくて、手を握りしめた。手袋は今日はない。素手の爪が掌に当たり、少し痛い。痛みがあると、落ち着く。落ち着く自分が嫌だ。


橋を渡り切ると、風が急に弱まる。建物が風を受け止め、歩道に温度の層ができる。層の中を歩くと、体の緊張がほどける。ほどけた瞬間に、言葉が出そうになる。出そうになる言葉が怖い。


「混ざったらさ」


ひかりは言いかけて止めた。混ざったら、何。夜が終わる。夜が始まる。恋になる。恋になると壊れる。壊れると自分が自分を嫌いになる。頭の中の古い道筋が、勝手に走り出す。


蓮が促す。


「混ざったら、何が怖い」


ひかりは少し笑いそうになった。怖いことを自分で言わせる質問。優しいのに、逃げ道を狭める。狭められると苦しい。苦しいのに、進める。


「私が、うまくできなくなる」


「何を」


「全部。仕事とか、生活とか」


ひかりは自分の言葉が広すぎることに気づき、言い直した。


「恋って、私にはそういう感じがする」


恋。言ってしまった。恋という単語を口にした瞬間、空気が少し変わる。橋の外れの狭い路地なのに、東京の夜が急に近づく。ひかりは喉が熱くなり、目を逸らした。


蓮はすぐ答えない。沈黙が一拍ある。その一拍が、第1章の沈黙とは違う質を持つ。遅れではなく、選択の沈黙。言葉を選ぶ沈黙。


「恋が生活を乱すって、分かる」


蓮が言った。分かる、という言い方が救いになる。救いが、怖い。共感は時に、甘い毒だ。甘い毒を飲むと、自分の言い訳が強くなる。強い言い訳は、前に進まない。


「でも」


蓮が続ける。


「乱れるのが怖いなら、乱れないように一緒に考えればいい」


一緒に。言葉が胸に刺さる。一緒に考える。つまり、夜だけではない。昼も含めた生活の話になる。生活の話は、関係に名前が近づく。名前が怖い。怖いのに、一緒にという言葉が温かい。温かいから、ひかりは少しだけ涙が出そうになる。泣きたいわけではない。身体が勝手に反応する。勝手な反応は、恋の前兆みたいで嫌だ。


「そんな簡単に言う」


ひかりは笑いに寄せて言った。寄せたのに、声は笑っていない。


蓮は首を振る。


「簡単じゃない。だから、言う」


その言葉が真っ直ぐで、ひかりは視線を落とした。視線を落とすと、自分の弱さが見える気がする。見える弱さを、彼に見せたくない。見せたくないのに、見せたくなる。矛盾が、歩く速度を乱す。


路地を抜けると、小さな公園があった。遊具の金属は雨の名残を抱き、触れたら冷たいだろう。砂場には昼の足跡が残り、そこに新しい雨粒が点を打っている。点は増えて、足跡の輪郭を少しずつ崩す。崩すのは時間だ。時間は、夜だけでは止まってくれない。


公園の縁にあるベンチに、二人は立ち止まった。座るか迷う。座れば距離が固定される。固定されれば逃げにくい。逃げにくいのが、今夜は必要なのかもしれない。ひかりは自分から言った。


「少しだけ、休む?」


蓮は頷く。二人はベンチに座った。間隔は、広くも狭くもない。意図が見えない程度の距離。意図が見えない距離は、便利だ。便利さに頼る自分が嫌だ。


「昼の俺、どうだった?」


蓮が聞く。軽い問いの形。ひかりは答えに困る。昼の彼は、夜より遠かった。けれど、遠いのに優しかった。誰かと笑っていた。その笑いが刺さった。刺さった理由を、今言うのは怖い。


「仕事してた」


ひかりは無難に言う。無難な答えは、逃げだ。


蓮は笑わない。


「それだけ」


ひかりは小さく息を吸って、吐いた。吐くと、雨上がりの湿りが肺に残る。残る湿りが、少しだけ勇気をくれる。


「ちゃんと、他の人といるあなたを見た」


ひかりは言った。言った途端、自分の声が少し硬いのが分かる。硬さは嫉妬に近い。嫉妬を恋だと認めたくない。認めたくないのに、体が先に認めている。


蓮は短く頷いた。


「嫌だった」


質問ではなく確認。ひかりは否定したかった。否定すれば綺麗だ。綺麗な自分でいられる。けれど綺麗な自分は、彼の前ではもう嘘になり始めている。


「嫌っていうか」


ひかりは言って止まる。言葉が見つからない。見つからないまま、正直を選ぶ。


「焦った」


焦ったと言った瞬間、胸が熱くなる。焦りは恋の気配を持つ。持ってしまう。ひかりは自分の手を膝の上で握り、爪が肌に当たる痛みでバランスを取った。


蓮はそれを見て、何も言わずに視線を外した。外してから、また戻す。戻した目が、ひかりの横顔に触れる。触れるだけで、手は伸びない。伸びない手が、今夜はいちばん痛い。


「焦らせたなら、ごめん」


蓮が言う。


「謝らないで」


ひかりは反射的に言った。謝られると、自分の感情が子どもじみて見える。子どもじみているのは自分だ。分かっているのに、認めたくない。


雨粒が葉に当たり、かすかな音を立てる。公園の外では車が通り、タイヤが水を切る音がする。遠い音と近い音が交互に来て、時間の層を作る。層の中で、ひかりは一つだけ確かなことを感じる。夜の習慣は、もう以前の形では保てない。昼が混ざったからではない。自分が、混ざることを望んでしまったからだ。


「ねえ」


ひかりが言った。声が小さい。蓮はすぐに耳を向ける。


「昼に会ったとき、私、変だったよね」


変だった。自分で言うと、少し笑える。笑えない。あのときは心臓が変な音を立てて、名刺の角が指に刺さって、呼び捨てが口から出た。変だった。


蓮は少しだけ笑って、すぐ真面目になった。


「変じゃない。……嬉しかった」


嬉しかった。彼も言ってしまった。嬉しかったのは、自分だけではない。そう知ると、胸が少し楽になる。楽になるほど、怖さが増える。相手も嬉しいなら、関係が進む可能性が高い。進むのが怖い。怖いのに、止めたくない。


「嬉しかったんだ」


ひかりは言い返す。確認の形にして、自分の胸の熱を隠す。隠し方が下手だ。下手な自分を、彼は見逃さない。


「うん。昼のひかりに、会えたから」


会えた。言葉が柔らかい。柔らかいのに、重い。会えたというのは、今まで会えていなかったということだ。会えていなかったのに歩いていた。歩いていた夜は、何だったのか。嘘ではない。でも、仮の距離だった。仮の距離が、今、ほどけていく。


ひかりは唇を開きかけて、閉じた。言いたいことがある。言うべきことがある。言うと壊れる気がする。壊れるのが怖いのに、壊さないままでは息が続かない気もする。呼吸が浅くなり、胸が少し苦しい。苦しさをごまかすために、ひかりは立ち上がった。


「歩こう」


言ってしまってから、逃げだと分かる。逃げでもいい。今夜はまだ、座って言う勇気がない。


蓮も立ち上がる。立ち上がりながら、傘の柄を持ち直す。傘が開く音が小さく響く。二人は傘の内側に入らない。雨は強くない。濡れるほどではない。けれど、濡れてもいいと言い切れない雨。中途半端な雨が、今の二人に似ている気がして、ひかりはまた腹が立つ。比べるな。分かっているのに、夜が勝手に比べる。


歩き出すと、街の明かりが少しだけ増えた。コンビニの白い光。マンションの廊下灯。自転車のライト。人の生活が夜に滲む場所へ来た。運河沿いの均一な暗さとは違う。ここは濃淡がある。濃淡があると、心も揺れやすい。ひかりは自分の揺れを感じて、少しだけ深く息を吸った。


「欲張るって言ってたの」


ひかりは唐突に言った。第4章の言葉。ずっと胸に残っていたのに、今まで口に出せなかった。


蓮は歩幅を落とす。ひかりに合わせる。合わせられると、胸が痛い。痛いのに、今は逃げない。


「うん」


「何を、欲張るつもりだったの」


ひかりは聞いた。聞いてしまった。聞いたら戻れない気がしたのに、口が先に動いた。動いた口は止まらない。


蓮はすぐに答えない。沈黙が一つある。その沈黙が、夜の空気を厚くする。厚い空気の中で、ひかりは自分の心臓の音を数えたくなる。数えたら落ち着く。落ち着いたら逃げる。逃げたくない。


「例えば」


蓮がやっと言う。


「昼に、どうでもいいことを送り続けるとか」


「それは、もうしてる」


「もう一つ」


蓮が言って、息を短く吸った。


「ひかりの帰り道を、たまに一緒に歩くとか」


帰り道。夜の散歩ではない。昼の帰り道。生活の線に触れる提案。ひかりの喉がきゅっと縮む。縮むのは拒否ではない。受け止めきれない衝動のせいだ。


「それ、迷惑かもって思うでしょ」


ひかりは強がって言った。強がりは癖だ。癖が出ると、本心が遠くなる。


蓮は首を振る。


「迷惑ならやらない。……でも、迷惑じゃない日があるなら、欲しい」


欲しい。言い切った。彼が欲しいと言うのは、珍しい。言葉が強い。強い言葉は、相手の自由を奪うことがある。彼はそれを知っているはずなのに、言った。言ってしまうほど、彼の中の衝動が出てきた。出てきた衝動が怖い。怖いのに、嬉しい。


ひかりは返事ができなかった。できなかったまま、歩き続ける。足元の水たまりを避ける。避けた先で、蓮の肩が近づく。近づいて、触れそうで触れない。触れない距離が、今夜はいちばん辛い。触れれば簡単になるわけではないのに。触れたら、もっと難しくなるのに。


「ひかり」


蓮が呼ぶ。呼ばれて、ひかりは反射的に目を伏せそうになる。伏せるのをやめた。今日はやめたくなる。


「……なに」


声が掠れた。掠れたのを隠そうとして、ひかりは咳払いしなかった。咳払いは逃げだ。逃げを選びたくない。


蓮は少しだけ笑い、すぐに真面目になった。


「今、返事しなくていい」


返事しなくていい。選ばせる言葉。優しい言葉。優しい言葉が、ひかりには時々残酷だ。返事しなくていいと言われると、自分がいつまでも先延ばしにできてしまう。先延ばしにする癖は、自分を守る。守るほどに、関係は固まる。固まったまま壊れると痛い。だから、今夜は少しだけ先へ進みたい。


「返事」


ひかりは呟いた。呟いた声が自分の耳に残る。


「返事って、何に」


蓮は黙る。黙って、歩く速度を落とす。ひかりの呼吸に合わせる。合わせられると、答えが浮かぶ。返事は、彼の欲しいに対する返事だ。欲しいと言ったことを受け取るかどうかの返事。つまり、夜だけではない関係を受け取るかどうかの返事。


ひかりは立ち止まった。立ち止まると、周りの音が一段くっきりする。雨粒の小さな打音。遠い車の低い唸り。マンションの換気扇の音。東京が生きている音。生きている音の中で、ひかりは言った。


「怖いんだよ」


言ってしまった。怖い。怖いと言い切ると、弱くなる。弱くなった自分が嫌いになる。嫌いになるのが怖い。怖いの連鎖が胸を締める。


蓮は立ち止まり、ひかりの横に並ぶ。真正面には来ない。横。横は夜の形だ。夜の形で、昼の話をする。混ざる。混ざっている。


「何が怖い」


蓮は静かに聞く。聞き方が優しい。優しいのに、逃げられない。


ひかりは少し笑ってしまった。笑いは乾いていない。湿りを含んだ笑いだ。


「恋が怖いって言ったら、笑う?」


蓮は首を振る。


「笑わない」


「恋って言葉、使っただけで、なんか」


ひかりは言葉を探し、肩をすくめた。肩をすくめると、雨粒がコートの表面で滑る。滑る感触が、今の自分の不安みたいで嫌だ。


「恋って言った瞬間に、今の夜が壊れる気がする」


言った。言ってしまった。核心に近い言葉。ひかりの胸がどきどきする。どきどきは恐怖と同じ場所から来る。恐怖は恋に似ている。似ているから混ざる。


蓮は少し黙って、それから言った。


「壊れるって、具体的に何が」


具体的に、と問われると、ひかりは編集者の自分を思い出す。具体は逃げ道を塞ぐ。逃げ道を塞ぐと、残るのは本心だけだ。


「あなたが、遠くなる」


ひかりは言った。声が小さい。小さいまま、続ける。


「言った瞬間、あなたの顔が変わるのが怖い。今のまま、笑ってくれなくなるのが怖い」


蓮は息を吸って、吐いた。吐いた息に言葉が混じる。


「俺が遠くなるのが怖いなら、俺が遠くならないって言えばいいのかな」


ひかりは首を振る。断定は怖い。約束は怖い。約束が守られなかったとき、全部が崩れる。だから、断定では救われない。


「そういうのじゃない」


「分かる」


蓮は短く言った。分かる、と言ってくれるだけで救われる。救われるのが怖いのに、今はその救いが必要だ。


二人はまた歩き出した。街は少しずつ静かになっていく。店の灯りが減り、住宅の窓の光が増える。生活の時間帯が移る。移る時間帯の中で、ひかりは自分の中の何かも移っていくのを感じた。夜は隠す場所ではなくなる。隠せなくなる。隠せなくなるなら、隠さない練習をしなければならない。練習をするには、まず距離が必要だ。距離を縮める練習が必要だ。


ひかりは、自分の手を見た。素手。冷たい。冷たい手を、ポケットに入れるか迷う。迷って、入れなかった。代わりに、手を軽く開いて閉じた。開いて閉じる動作は、触れる準備みたいで怖い。


歩道の角で、蓮の手が少しだけ近づいた。近づいたのは偶然かもしれない。偶然のふりをした意思かもしれない。ひかりは息を止めそうになり、止めなかった。呼吸を続ける。続けながら、指先を少しだけ動かす。動かした指先が、空気を触る。空気を触った先に、彼の手の熱がある気がする。


でも、触れない。


触れないまま、蓮が言った。


「今夜は、触れないって決めてる」


ひかりは驚いて、彼を見た。見た瞬間、視線が合う。合って、すぐ外れる。彼の癖。けれど、その外れ方は迷いがある。


「決めてるって」


「触れたら、ひかりが怖くなる気がする」


ひかりは笑いそうになって、笑えなかった。自分が怖いと言ったせいだ。怖いと言ったせいで、彼は触れないことを選ぶ。優しさだ。優しさが痛い。痛いのに、ありがたい。ありがたいのに、悔しい。


「私のこと、難しくしすぎ」


ひかりは言った。少しだけ冗談に寄せる。


蓮は小さく笑って、すぐ真面目になる。


「難しいのは、俺のほうだよ」


ひかりはその言葉を聞いて、胸の奥が沈んだ。沈んだのは悲しさではない。責任の重さだ。自分の恐れが、彼を縛っている。縛っているのに、縛られているのは自分だと思っていた。その勘違いが、今日いちばん痛い。


二人は歩き、やがてまた運河の近くへ戻った。戻った景色は馴染んでいるのに、空気は違う。工事の柵が見える。街灯の等間隔が見える。水面の揺れが見える。見えるのに、もう同じではない。昼が混ざった。言葉が混ざった。欲しいが混ざった。怖いが混ざった。


別れ際が近づく。ひかりはそれを感じて、胸の奥がざわつく。今夜は言葉が足りないまま終わりたくない。終わりたくないのに、言葉を足すと壊れる気がする。壊れる気がするのに、壊さずには進めない。


ひかりは立ち止まった。蓮も止まる。


「ねえ」


ひかりは言った。声が震えそうで、低くする。


「うん」


「帰り道、一緒に歩くの」


ひかりは言葉を飲み込みそうになって、飲み込まなかった。


「迷惑じゃない日、あると思う」


言った瞬間、胸が熱くなる。熱くなって、不安がすぐ来る。不安は、彼の顔の変化を想像させる。想像に負けないように、ひかりは彼の顔を見た。


蓮は驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。頷き方が大きくないのに、確かだ。


「ほんと?」


「ほんと」


ひかりは言い切った。言い切ったことが、自分でも怖い。怖いのに、言い切れてしまったことに、少し救われる。救われるのが怖い。怖いけれど、今夜はその救いを持ち帰りたい。


蓮は何か言いかけて、言わなかった。言わなかった代わりに、少しだけ笑った。夜に馴染む小さな笑い。ひかりはその笑いを見て、胸の奥が静かにほどけた。


「じゃあ」


蓮が言う。


「うん」


ひかりが答える。


二人はそれ以上言わずに別れた。歩き出してすぐ、ひかりは自分の手を見た。素手のまま、冷たいまま。冷たさは現実だ。現実は怖い。怖いのに、帰り道を一緒に歩くという現実を、自分が選んだ。


部屋に戻り、照明をつける。白い光が床を平らにする。いつもの昼の顔が戻りそうになる。ひかりは靴を脱ぎ、コートを掛けて、深く息を吐いた。息の中に、橋の風がまだ残っている。残っている風の中に、蓮の「触れないって決めてる」が混じっている。混じった言葉は、優しさと痛みを一緒に運んでくる。


眠れない夜が来ても、今日は少し違う。夜が隠してくれるのではない。自分が少しだけ、隠さない選択をしたからだ。選択の先に何があるのかは分からない。分からないのに、胸の奥が少しだけ明るい。明るさが怖い。怖いけれど、その怖さは前よりやわらかい。

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