第5話:昼で逢う夜
雨が降る一歩手前の空は、街の色を鈍らせる。明るいはずの昼が、どこか夕方のふりをしている。ひかりは傘を持つか迷って、結局持たずに家を出た。迷う時間が短かったことが、少し気になる。最近の自分は、決めるのが早い。早い決断は正しさではなく、諦めに近いこともある。そう思うと胸が薄く冷える。
出版社のフロアはいつも通り乾いていた。紙は湿りを嫌い、画面は湿りを知らない顔をする。ひかりは朝から原稿を抱え、言葉の端を整えた。整えるのは得意だ。得意だからこそ、整えすぎたときの空虚も知っている。誰かの心を平らにしないように、でも読者が転ばないように。矛盾を抱えたまま、ひかりは赤字を入れた。
昼の時間に、蓮から短い文が届くことが増えた。増えるたびに、胸が緩む。緩むたびに、緩んでしまう自分に驚く。驚きはいつも遅れて来る。夜より昼のほうが、自分の反応を客観視してしまうからだ。
今日も来た。
「雨、降りそう」
それだけ。たったそれだけの文が、ひかりの手を止める。止めたことが仕事の遅れになるのが嫌で、ひかりはすぐ返す。
「降りそうだね」
返して、画面を伏せた。伏せても、文は残る。雨が降りそう。そういう観察を共有する相手が、昼にいる。いると認めると、夜の位置がずれる。ずれた夜が、どこへ行くのか分からない。分からないまま、ひかりは自分の仕事を続けた。
午後、社内の打ち合わせが長引いた。会議室の空気はじわじわ温まり、誰かの水の音がやけに大きく聞こえる。議論がまとまったようでまとまっていない。ひかりは議事録のメモをまとめながら、頭の片隅で別の予定を数えた。今日は外出がある。作家の取材同行ではない。編集部の都合で、都内の会場へ顔を出す必要がある。出版の関係者が集まる、小さな催しだ。派手ではない。けれど顔を見せておくことに意味がある。そういう意味が、東京にはいくつも転がっている。
会議が終わるころ、窓の外の明るさが少し落ちた。空の層が重なり、ビルのガラスが鈍くなる。雨の匂いが、まだ見えないところから忍び寄る。ひかりはデスクに戻り、必要な資料だけを鞄に入れた。指先が落ち着かない。落ち着かないのを隠すために、ファスナーを丁寧に閉じる。
外へ出ると、空気が湿っていた。人の匂いも湿っている。駅へ向かう人の群れが、歩道の上で一度溜まり、信号が変わると一斉に流れる。流れの中にいると、自分の輪郭が薄くなる。輪郭が薄くなると、心は楽だ。楽なのに、ふとした瞬間に胸が痛い。痛い理由は分かっている。夜の彼が、昼にも滲んでしまったからだ。
会場は駅から少し歩いたところにあった。大通りの喧騒から一枚だけ裏へ入ると、音が急に近くなる。車の音が遠くなり、人の靴音が目立つ。濡れかけた舗装が、光を吸っている。路地の端にある小さな建物のガラス扉を押すと、中の空気は外より温かい。暖房の匂い。紙の匂い。人の吐く息の混ざり。ひかりは受付で名を告げ、挨拶をして、軽く頭を下げた。
会場の中は、静かなざわめきがあった。誰かが笑っている。誰かが名刺を出している。グラスの音。コートの擦れる音。ひかりはその一つひとつを拾いながら、顔を作る。昼の顔。編集者の顔。感情を整えてから笑う顔。整えているうちに、胸の奥の夜が薄くなる気がして、ひかりは少しだけ呼吸を深くした。
壁際に展示されたパネルを眺め、関係者に挨拶をし、適度な距離を保つ。こういう場所で距離を間違えると、あとで仕事がやりづらくなる。仕事がやりづらくなるのが嫌だから、ひかりは適度に笑う。適度に頷く。適度に褒める。適度という言葉は便利だ。自分の本心を出さずに済む。
そのとき、背後で誰かが自分の名前を呼んだ。
「篠宮さん」
振り向くと、編集部の別部署の人が手を上げていた。軽い世間話をして、近況を聞かれて、ひかりは短く答える。答えながら、視線の端で人の流れが変わったのに気づく。入口のほうで、数人が一度固まり、誰かが通り道を作る。誰かが入ってきたのだろう。こういう場所では、入ってくる人の格で空気が変わる。ひかりはその空気の変化を、いつものように無視しようとした。
無視できなかった。
入口の近くに見えた横顔が、夜の運河で何度も見たものだったからだ。横顔の線。首元の癖。目の使い方。あまりにも知っている。知っているのに、ここにいるはずがない。昼の彼は存在しない。そう思ってきた自分が、今、否定されている。
久遠蓮が、会場の中にいた。
ひかりの喉が一瞬で乾く。乾きが、言葉を奪う。奪われた言葉の代わりに、心臓が動く。動くのに、体は動けない。自分が立っている場所だけが、薄い膜に包まれたみたいに静かになる。
蓮は誰かと一緒だった。スーツではないが、仕事の顔をしている。夜の顔とは違う。違うのに、同じ人だ。彼は笑っている。夜に見せる小さな笑いではない。もう少し外側へ開いた笑い。誰かの言葉に合わせ、場を整えるような笑い。ひかりはそれを見て、胸の奥がちくりとした。ちくりの正体が分からない。嫉妬ではないはずだ。嫉妬と言い切るほど、自分は彼に何も持っていない。持っていないのに、痛い。
蓮がふと視線を動かした。人の頭越しに、会場をざっと見渡す目。東京で生きる人の目だ。視線がひかりの位置で止まる。止まった瞬間、蓮の表情が変わる。驚き。次に、確認。最後に、笑いが消える。消えたまま、彼は一歩だけ動いた。
ひかりはその一歩を見て、逃げたくなった。逃げる理由がないのに、逃げたくなる。夜の二人は、説明を省くことで成立していた。昼の二人は、説明を要求してくる。昼の光は、隠していたものを暴く。暴かれたくない。暴かれたい気もする。矛盾が足元を揺らす。
蓮は人の流れを避けながら近づいてきた。近づき方が夜とは違う。夜は隣に並ぶだけだった。昼は真正面から来る。真正面から来られると、ひかりの顔が整ってしまう。整ってしまうのが嫌なのに、習慣が勝つ。
蓮がひかりの前で止まった。距離は近い。でも触れない。触れない距離のまま、彼は小さく息を吸った。言いかける前の癖。あの夜と同じ癖が、昼でも出る。それだけでひかりの胸が少しだけほどける。
「……ひかり」
昼に名前を呼ばれる。呼ばれた瞬間、昼と夜の境界が音を立てて崩れる気がした。ひかりは返事の前に目を伏せる癖が出そうになって、踏みとどまった。ここで目を伏せたら、夜の自分を持ち込んでしまう。夜の自分を昼で出したら、戻れない。
「久遠」
呼び捨てにしたことに、自分で驚く。いつも夜は名前を口にしない。呼び捨ては、昼の勢いで出た。勢いが怖い。怖いのに、口の中に残る音が妙に確かだった。
蓮が少しだけ笑った。すぐに真顔に戻る。真顔のまま、周りに気を配る視線が一瞬動く。昼の彼は、夜より周囲を見ている。夜の彼は、隣だけを見ていた。隣だけを見ていたと思っていた。思っていた自分の勘違いが、今さらのように恥ずかしい。
「ここ、来るんだ」
蓮が言う。質問ではない。確認の形をした驚き。
「仕事で。あなたこそ」
「仕事」
蓮は短く頷いた。
「企画の関係で、顔出し」
顔出し。ひかりも今、顔出しをしている。似ている。似ているのに、二人はこれまで、昼で交わらないように歩いてきた。交わらないように歩いてきたのは、偶然だろうか。偶然ではない気がする。お互い、どこかで避けていた。避けていたというより、夜の形を守りたかった。守りたかったのは何だろう。夜の余白。触れない距離。名前のない関係。そこに甘えていた自分が、今、恥ずかしい。
「びっくりした」
ひかりが言うと、蓮は小さく息を吐いた。
「俺も」
その二語が、夜の会話みたいに短い。短いのに、昼の空気の中では余計に濃い。濃いものは、周りに漏れる。ひかりは周囲の視線が自分たちに集まるのを感じて、肩が少し固くなった。固くなるのを隠すように、蓮が体の向きをわずかに変えた。人の流れからひかりを外す。守るような動作。夜の歩幅調整とは違う守り方。昼の守り方だ。
「少し、外出る?」
蓮が言った。会場のざわめきの中で、彼の声は意外に通る。通るのに押しつけがましくない。ひかりは一瞬だけ迷い、頷いた。頷いたことが、自分の生活に小さな亀裂を入れるのが分かる。亀裂は怖い。でも亀裂がないと、息ができなくなる夜もある。
二人は会場を出た。扉が閉まると、外の空気がひやりと頬に触れる。雨の匂いが濃くなっていた。路面はまだ濡れていないのに、すでに湿りが上がってくる。街は雨を待っている。雨を待つ街の匂いは、少しだけ甘い。
建物の軒下に立つ。人通りはある。あるけれど、会場の中より静かだ。車の音が遠くで唸り、信号の機械音が規則正しく鳴る。ひかりはその音の規則で、呼吸を整えた。整えたくないのに、整えないと崩れる。
「どうして、言わなかった」
ひかりは言ってしまった。言ってから、胸が熱くなる。責めるつもりではない。責める言葉に聞こえるのが嫌で、すぐ付け足したくなる。でも付け足すと、言い訳になる。言い訳は夜に持ち込みたくない。今日は昼だ。昼は言い訳を許さない。
蓮は視線を一度合わせ、すぐ外した。癖。けれど外し方が夜より早い。周りがあるからだろう。昼の彼は、夜の彼より不自由に見えた。不自由に見えることが、胸に刺さる。
「言ったら、壊れそうだったから」
蓮が静かに言った。壊れそう。ひかりはその言葉に、息が詰まる。壊れるのが怖いのは自分だけじゃなかった。彼も怖かった。怖かったのに、彼は昼に文を送ってきた。手袋を渡した。欲張ると言った。壊れそうなのに進もうとした。それを、ひかりは受け取りきれていなかった。
「壊れないよ」
ひかりは言いそうになって、止めた。壊れないと断言できない。壊れるかもしれない。壊れるかもしれないからこそ怖い。怖いから夜に隠れてきた。隠れてきた自分が、今さら綺麗ごとを言うのは違う。
「……私も、怖い」
ひかりはやっと言った。言った瞬間、胸の奥が軽くなる。軽くなることが、また怖い。怖さを言葉にすると、責任が生まれる。責任が生まれると、夜の逃げ道が減る。減った逃げ道の先に、昼の現実が待つ。
蓮は頷いた。頷き方が小さい。けれど、逃げない頷きだ。
「ここで会うとは思わなかった」
蓮が言う。会うとは思わなかった。思わなかったのは偶然だからか。偶然に見せて、実は世界が狭いだけなのか。東京は広いのに、こういう偶然で急に狭くなる。狭くなると、隠れていられない。
「私も」
ひかりは答え、息を吐いた。吐いた息が白くならない。湿りが増えている。雨が近い。
蓮がポケットから何かを取り出した。名刺だ。昼の道具。夜には出てこなかった紙。紙の角が硬い。そこに印字された文字が、彼の昼の輪郭を持っている。ひかりはそれを見て、自分の中の何かがずれるのを感じた。夜の彼は、名前のない人ではなかった。最初から、昼の名前を持っていた。それを自分が見ないふりをしていただけだ。
「これ」
蓮が差し出す。差し出し方は丁寧で、触れない距離を保っている。触れない距離がここでもある。あるのに、夜より痛い。昼は距離が形になりやすい。
ひかりは名刺を受け取った。紙が指に触れ、冷たい。冷たさが現実だ。現実は逃げない。逃げない現実の中で、ひかりは自分の名刺も取り出した。編集者の名刺。紙の匂い。インクの匂い。昼の匂い。
「はい」
交換。たったそれだけの動作が、二人の関係を別の枠に入れる。枠に入るのが怖い。怖いのに、枠がないと続けられない気もする。矛盾がまた胸を叩く。
「編集者の名刺、久しぶりに見た」
蓮が言った。どうしてそんな言い方をするのか。夜には見ていなかったという意味だ。夜の二人は、名刺を持たない。持たないふりをしてきた。持たないふりをしていたのは、自分たちだけだ。世界は最初から名刺の世界だった。
「夜には、出さないでしょ」
ひかりが言うと、蓮は小さく笑って、すぐ真面目になった。
「夜は、仕事を持ち込みたくなかった」
「私も」
「でも、持ち込んじゃった」
蓮が言う。昼の文。空の色。手袋。全部。ひかりは頷く。頷きながら、喉が痛い。痛いのは空気のせいではない。自分が、認めたくないことを認め始めているせいだ。
「夜の私と、昼の私」
ひかりが言って止まる。続きが怖い。続きを言うと、結論に近づく。結論は恋だ。恋は生活を乱す。乱れたときの自分が嫌いになる。いつもの思考が、いつもの速度で回り始める。回り始めると、目の前の蓮が遠くなる。遠くなるのが怖い。
蓮が先に言った。
「どっちも、ひかりだろ」
その言葉が、ひかりの胸に落ちる。落ち方が優しいのに、重い。重いのに、救いになる。救いになることが怖い。救われたら、夜が必要なくなる気がする。夜が必要なくなったら、二人はどうなる。どうなるか分からない。分からないから、また夜に逃げたくなる。
「あなたも、どっちも久遠だよ」
ひかりは言って、自分で驚いた。今、昼に彼を呼び捨てにした。呼び捨ては、距離を縮める。縮めた距離が周りに見えたらどうする。ひかりは慌てて周囲を見た。幸い、軒下は人の流れの端で、誰もこちらを気にしていない。気にしていないことに安心して、安心に腹が立つ。何をしているんだろう、自分は。大人のくせに。
雨が落ちてきた。最初は粒が小さい。アスファルトに点が増え、すぐ消える。消える点が、呼吸の間に似ている。ひかりはその点を見て、胸の奥が少し落ち着く。雨は言い訳になる。雨だから近づける。雨だから動ける。雨だから帰れる。雨は便利だ。
蓮が傘を差した。小さな黒い傘。軒下にいるのに差すのは、彼の癖だ。濡れる前に守ろうとする。守ろうとするのが優しい。優しさが怖い。
「送るよ」
蓮が言った。
「近いよ」
ひかりは反射的に言う。断る理由を探している。断ることで距離を守ろうとしている。守るのは夜の形。夜の形を守っているふりをして、自分の不安を守っている。
「近いけど、雨」
蓮はそれだけ言った。雨という一語が、断る理由を溶かす。ひかりは苦笑いしそうになって、整える暇がなくて、短い笑いが漏れた。
「じゃあ、少しだけ」
蓮は頷いた。傘の内側にひかりが入る。距離が急に縮む。縮んだのに、触れない。肩が触れそうで触れない。濡れた空気の匂いが、二人の間に膜を作る。膜があると、言葉が少しだけ柔らかくなる。
歩き出すと、足元の音が変わる。雨粒が路面を叩き、靴底が薄い水を踏む。車が通るたびに水が跳ね、空気が一瞬だけ冷える。ひかりは傘の中の狭さに、息を浅くした。浅くすると、蓮の呼吸が近く聞こえる。近く聞こえるのが怖いのに、安心する。安心する自分が怖い。
「昼に会うと」
蓮が言いかけて止まった。言いかけた言葉が、雨の音に溶ける。溶けると、余白ができる。余白ができると、ひかりは言葉を埋めたくなる。埋めたくなるのは、夜の癖とは逆だ。夜は余白を守る。昼は余白を埋める。埋めると、説明になる。説明になると、恋に近づく。
「昼に会うと、何」
ひかりが聞くと、蓮は視線を前に向けたまま言った。
「夜が、嘘みたいに感じる」
ひかりの胸が痛んだ。嘘。嘘ではない。夜は確かにあった。歩いた。話した。沈黙があった。触れそうで触れなかった。手袋の温度があった。全部本当だ。なのに、昼の中にいると、夜が仮の姿だったように見える。その見え方が怖い。怖いけれど、蓮の言葉は正しい気がした。
「嘘じゃない」
ひかりは言った。言い切る声が少し強い。強い声が出たことに、自分で驚く。守りたい。守りたいのは夜ではない。夜にいる自分の気持ちだ。名前をつけるのが怖くて、隠してきたもの。そのものが、今、昼で露出している。
「嘘じゃないよな」
蓮が小さく言う。確認の形。ひかりは頷いた。頷くと、傘の内側で髪が少し揺れ、頬に触れた。手袋は今日は持っていない。素手で頬の髪を払う。素手の感触が冷たい。冷たいまま、胸だけが熱い。
交差点で信号を待つ。赤い光が雨粒に滲む。滲んだ光は形を崩して、でも消えない。消えないものがある。夜の習慣も、そういうものだった。消えないと思っていた。思っていたのに、昼で形が変わる。変わるのが怖い。怖いのに、変わってほしい気もする。
「ひかり」
蓮が名前を呼ぶ。昼の名前。ここで呼ばれると、夜より重い。ひかりは返事の前に目を伏せかけて、踏みとどまった。踏みとどまると、涙が出そうになる。泣く理由はない。泣く理由がないのに、胸がいっぱいになる。いっぱいになるのは、言葉が追いつかないからだ。
「なに?」
「夜の散歩」
蓮が言って止まる。止まる間がある。間があると、ひかりは分かってしまう。彼が何を言いたいのか。言いたいのに言わない癖。彼はずっとそれを選んできた。選ぶ理由は優しさだ。優しさは、時に残酷だ。残酷なのに、ひかりはその優しさに守られてきた。
「夜の散歩、続けたい」
蓮が言った。言い切った。今日は言い切った。昼の彼が言い切ると、言葉が現実になる。現実は逃げない。逃げない現実に、ひかりは喉が詰まる。
「うん」
ひかりはそれだけ言った。それだけで、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いた瞬間に、自分がどれだけその言葉を待っていたか分かってしまう。待っていたのは、夜の終わりではなく、夜の肯定だ。肯定されるのが怖いのに、欲しかった。
信号が青になる。二人は歩き出す。雨は少し強くなる。傘の布に雨粒が当たり、規則のない音を作る。規則がない音は、会話の角を丸くする。丸くなると、言葉が出やすい。出やすい言葉ほど危ない。危ないのに、ひかりは言ってしまう。
「でも、昼も」
ひかりは言って止まった。昼も何。昼も続けたい。昼も会いたい。昼も文がほしい。昼も隣にいてほしい。どれも言ったら戻れない。戻れないのに、言いたい。
蓮が歩幅を少し落とす。ひかりの呼吸に合わせる。合わせる動作が、昼でも自然に出る。夜だけの癖ではなかった。彼はいつでも、そういう人だった。
「昼も、何」
蓮が聞く。奪わない聞き方。選ばせる聞き方。ひかりはその聞き方に、少しだけ腹が立った。腹が立つのは、自分が選びたくないからだ。選べば責任が生まれる。責任が生まれると名前がつく。名前がつくのが怖い。怖いのに、もう避けられない。
「昼のあなたを、知らないのが」
ひかりは言って、言葉を探した。探す間に雨が強くなる。傘の内側の空気が少し湿る。湿ると、息がしやすい。
「知らないのが、怖い」
ひかりはやっと言った。怖いと言ってしまった。言った瞬間に、自分の弱さが露出する。露出した弱さを、蓮がどう扱うかが怖い。怖いのに、彼はすぐに扱わない。すぐに言葉で包まない。包まない沈黙が一拍ある。その一拍が、夜の一拍より重い。
「俺も」
蓮が言った。短い。短いのに、胸が熱くなる。
「俺も、昼のひかり、もっと知りたい」
知りたい。言われると怖い。知りたいと言われたら、開かなければならない。開いたら、乱れる。乱れたら自分を嫌いになる。嫌いになった自分を彼に見せるのが怖い。怖いのに、知りたいと言われたことが嬉しい。嬉しさが、怖さを少し押しのける。
駅へ向かう道の途中で、ひかりは足を止めた。止めたのは、雨が強くなったからではない。自分の胸が追いつかなくなったからだ。追いつかないまま歩くと、言葉が壊れる。壊れた言葉が彼に届くのが怖い。
蓮も止まる。傘の位置を少し調整する。ひかりが濡れないように。そういうところが、憎らしいほど優しい。
「ねえ」
ひかりが言う。声が小さい。小さい声でも、雨の音の中で彼は拾う。
「うん」
「夜の距離って、仮だったのかな」
仮。言ってしまった。言った瞬間に、胸の奥が痛い。痛いのに、言わないと前へ進めない気がした。前へ進むのが怖いのに、止まるのも苦しい。
蓮はすぐ答えなかった。答えない沈黙が、雨音に混じる。沈黙が長いほど、ひかりは不安になる。夜なら不安にならない。昼だから不安になる。昼は結論を求める。求めたくないのに、求めてしまう。
「仮じゃない」
蓮がやっと言った。言い切りだ。今日、彼は言い切りが多い。言い切りは勇気だ。勇気は、時に関係を変える。
「でも、仮みたいに使ってたのは俺かもしれない」
蓮が続ける。自分を責める言い方。ひかりはそれが嫌で、すぐに言う。
「私も」
自分も、と言ってしまった。責任を分けるためではない。責任を一人に背負わせたくないからだ。背負わせたくないのに、背負ってほしい夜もあった。矛盾がまた胸に戻る。
雨が、ひかりの靴先を濡らした。水が染みる。冷たい。冷たいと、現実に戻る。現実の中で、ひかりは自分の言葉の核心を見た。夜を仮にしたくなかった。仮にしたくないのに、仮の顔をして歩いていた。恋という言葉を欠いたまま、恋をしていた。恋だと認めたら壊れる気がして、守るふりをしていた。守っていたのは夜ではなく、自分の不安だ。
「今日、夜」
ひかりが言いかけて止まる。夜に会うのはいつも通りだ。でも今日は、昼が入ってしまった。昼が入った夜は、同じ夜ではいられない。
蓮が聞く。
「夜、どうする?」
どうする。問われると怖い。問われたくなかったのに、問われないと進めない。進めないのに、進みたい。ひかりは息を吸った。雨の匂いが肺に入る。湿りが、喉の乾きを少しだけ和らげる。
「夜は、歩く」
ひかりは言った。いつもの選択。いつもの言葉。でも今日は、続けて言った。
「……でも、運河じゃないところも、歩いてみたい」
言ってしまった。夜の固定を崩す提案。崩すのは怖い。怖いのに、言った瞬間、胸が少し軽くなる。軽くなるのは、逃げ道を増やしたからではない。逃げ道を減らしたからだ。固定を崩すと、二人の関係が隠れにくくなる。隠れにくくなるのが、少しだけ嬉しい。
蓮は頷いた。
「いい。ひかりが選んで」
ひかりが選ぶ。選ぶ責任がひかりに戻る。重い。重いのに、彼の目が優しい。優しい目は、重さを少しだけ支える。
駅の入口が見えた。人の流れが増え、音が密になる。雨の匂いが人の匂いに混ざる。二人はそこで立ち止まった。別れる場所。今日は別れるのが、いつもより難しい。
「じゃあ」
蓮が言った。
「うん」
ひかりが答える。
短い。短いのに、胸がいっぱいになる。昼に会ってしまったからだ。昼に会ってしまったことで、夜が逃げ場所ではなくなった。夜は始まりに近づく。近づくのが怖い。怖いのに、ひかりはその始まりを少しだけ望んでいる。
改札へ向かう前に、ひかりは振り返った。蓮がまだそこにいる。傘を持ったまま、少しだけこちらを見ている。視線が合い、すぐ外れる。外れ方がいつもよりゆっくりだった。ゆっくり外れた視線の中に、言葉にならないものがある。欲張る。知りたい。続けたい。全部が混ざった沈黙。
ひかりは小さく手を上げた。合図。夜の合図ではない。昼の合図。昼の合図ができたことが、胸の奥で静かに鳴る。鳴った音は、もう消えない気がした。
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