第4話:触れずに渡る橋
昼の空は、紙の白より少しだけ灰色だった。白いのに重い。陽が出ているのに、窓の外の明るさが薄く感じる日がある。ひかりはそういう日に弱い。弱いと言うと甘えに聞こえるから、いつもは別の言葉に置き換える。集中しづらい、とか。目が乾く、とか。今日はどれも正しい。
編集部の午前は、音がそろっていく。キーボードの軽い連打。コピー機の吸い込み。紙の束が机に置かれる乾いた音。誰かが椅子を引く。誰かが笑う。笑いは短い。短い笑いが続くと、疲れの匂いが濃くなる。ひかりは目の奥を揉みたくなって、代わりに画面のスクロールを少しだけ遅くした。遅くすることで、息を一回ぶん取り戻す。
昼の自分は、息を取り戻すのが下手だ。仕事の区切りを作るのが仕事なのに、呼吸の区切りだけはいつも雑になる。雑になったまま夜へ流れ込むと、夜の余白が吸い取ってくれる。吸い取られてしまうのが、どこかで怖い。吸い取られた分だけ、夜に依存していく気がするからだ。
机の端で携帯端末が震えた。薄い振動なのに、音より目立つ。ひかりは周りに悟られないように、手を伸ばした。画面を開く前に一度だけ、息を整える癖が出そうになって、抑えた。昼は癖を抑える場所だ。抑えている自分が、少しだけ寂しい。
通知は一つだった。蓮からの短い文。
「昼の空が変な色。白いのにくすんでる」
どうでもいいこと。約束通りのどうでもよさ。なのに、ひかりの胸の奥が小さく緩んだ。緩みは痛みの反対側にある。緩むと、熱が生まれる。その熱が恋に似ているのが怖い。怖いのに、指が勝手に返事を探す。
ひかりはすぐには打たなかった。打てば昼に彼が現れる。現れることが、昨日の夜に自分が許したことだ。許したのに、現実になると緊張する。緊張の理由は、嬉しいからだ。嬉しいという感情を昼に持ち込むと、仕事の輪郭が崩れそうで、ひかりは画面を一度閉じた。
閉じても、文は残る。白いのにくすんでる。そういう観察の仕方が、彼らしい。広告の人の言葉だ。色を言葉で捉える人の言葉。ひかりは画面をもう一度開き、短く打つ。
「こっちも。同じ色」
送信。たったそれだけ。送信した瞬間に、背中が少し軽くなる。軽くなったのが怖くて、ひかりはすぐに原稿へ視線を戻した。戻せば、昼の顔に戻れる。戻れてしまうのが、また少しだけ寂しい。
数分もしないうちに返事が来た。
「一緒に見てたら、どう見えるんだろ」
ひかりは画面を見つめた。どう見えるんだろ、は質問ではない。彼の想像の漏れだ。漏れた想像は、昼の机の上では扱いづらい。ひかりは下唇の内側を軽く噛みそうになって、やめた。癖が出ると、感情が見える。見えた感情を、昼で引き受ける準備がない。
返すなら、どうでもいいことにするべきだ。そう分かっているのに、どうでもよくないものが胸に溜まる。ひかりは指先を止めて、代わりに窓の外を見た。空は確かに白く、そして鈍い。ビルのガラスが光を反射して、眩しいのに冷たい。遠くの道路の音が、昼の濁りを引きずっているみたいに聞こえた。
結局、ひかりは短く返した。
「たぶん、同じだよ」
同じだよ、という断定に近い言い方をしてしまい、送信したあとで少しだけ後悔した。断定は責任を生む。責任は名前を呼ぶ。昼に名前を呼びたくない。なのに、言葉は時々、こちらの事情を無視する。
午後の作業は、普段より少しだけ手応えが悪かった。文字が頭に入ってこないのではない。入ってくるのに、抜けていく。抜けていくものの中に、さっきの短い文が混ざっている。空の色。見てたら。どう見える。どうでもいいことが、どうでもよくない重さを持ってしまった。
夕方の気配がビルの隙間に溜まり、外の音が少しだけ遠くなるころ、ひかりはデスクの上を片づけ始めた。片づける手つきは速い。速いほど、帰りたいのが見える。見えるのが嫌で、わざと一度だけゆっくりファイルを閉じた。ゆっくり閉じても、結局、心は先に夜へ向かう。
エントランスを出ると、空気が頬を撫でた。冷たいというより、薄い。今日の空気は薄い層が何枚も重なっていて、息を吸うと喉の奥が少しだけ乾く。遠いところで誰かが笑っている。笑い声は街の角で曲がり、聞き取りづらい形になって届く。東京の夕方は、声が形を変える。
駅までの道で、ひかりは携帯端末を取り出し、画面を見た。昼のやり取りがそこに残っている。短い文が並ぶだけなのに、昼が夜へ滲んだ痕跡みたいに見える。滲みは簡単に乾かない。乾かないのが怖い。怖いのに、嬉しい。
ひかりは短く打った。
「今日、行く」
送信した瞬間、自分で笑いそうになった。今までなら、ここまで明確な言い方はしなかったかもしれない。いつもはもう少し曖昧で、逃げ道を残す文を選んでいた。逃げ道を残すのが守りだと思っていた。守っているのは自分だけだ、と気づき始めてしまったのが、最近の痛みだ。
返事はすぐに来た。
「うん。いつもの辺り」
いつもの辺り。集合場所は工事で欠けたままなのに、彼はいつもの言葉を選ぶ。いつもの言葉を使うことで、夜を守ろうとしているのかもしれない。守ろうとしているのが彼なのか、自分なのか分からない。分からないまま、ひかりは電車に乗った。
車内は混んでいなかった。疲れた顔が少ない時間帯だ。代わりに、静かな人が多い。眠そうな目。スマートフォンの光。つり革を握る手の力の抜け方。車体が揺れるたび、吊り革の金具が小さく鳴る。一定ではない音が、時間の進み方を知らせる。
辰巳で降りると、空気が変わった。駅の外に出た瞬間、風が広い方向へ逃げていく感じがある。ビルの谷間の風とは違う。ここには運河がある。水があるだけで、空気の抜け道が増える。抜け道があると、人の心も少しだけ逃げられる。逃げていい場所があることに、ひかりはいつも助けられてきた。
工事の柵はまだ光を返していた。金属の冷たさが目に見える。昼に見た空のくすみと、似た色の反射。ひかりは足を緩め、柵の端を避ける。避ける動作が、関係にも似ていると思ってしまい、慌てて首を振った。考えすぎだ。考えすぎると、夜が固くなる。
少し外れた暗がりに、蓮が立っていた。影の中でも、彼の輪郭は分かる。立ち方に癖がある。足を少し開き、肩の力を抜いて、でも視線は周囲を拾っている。待つ人の立ち方だ。待つという行為を、彼は丁寧にやる。丁寧な待ち方が、ひかりの胸を締める。
「おつかれ」
「おつかれさま」
短い挨拶のあと、いつもの沈黙が来るはずだった。来なかった。代わりに、蓮が口を開く。
「昼、来た」
それだけ。確認のようでいて、嬉しさが混ざっている。混ざっているのに、彼は言い切らない。言い切らないのが、彼の慎重さだ。ひかりは返事の前に目を伏せた。癖が出た。出たことに自分で気づき、少しだけ笑いそうになる。
「来た。空の色」
「返してくれた」
「返した」
返した、という言い方が妙に重い。返すというのは、応じるということだ。応じるのは、自分が選んだことだ。選んだことの責任が、今夜の足元に少しだけ乗っている。
二人は歩き出す。運河沿いへ戻る道は、工事のせいでいつもと微妙に角度が違う。角度が違うと、見えるものが変わる。今日は水面より先に、護岸のコンクリートのざらつきが目に入った。古いひび。小さな苔。雨の跡が乾いた線。東京の皮膚の硬さ。硬さの中にも、時間の癖がある。
「昼の空、ほんとに変だったな」
蓮が言う。ひかりは頷いた。
「白いのに、重い」
「それ。言いたかった」
言いたかった、という言葉が夜の空気に落ちる。言いたかったものを、昼に言えた。言えたことが小さな達成みたいで、ひかりは胸の奥が少し温まる。温まるのが怖い。怖いのに、温まる。
歩くうちに、風が変わった。水の上を通る風は冷えるのではなく、指の間を抜けるみたいに軽い。軽い風は体温を奪う。奪う代わりに、頭の熱も冷ます。ひかりはポケットに手を入れた。いつもなら深く沈めるのに、今日は浅く入れた。すぐ出せる位置。自分でも理由が分からない。分からないまま、指が少しだけ震える。
蓮はそれに気づいたのか、歩幅をほんのわずかに落とした。触れない距離を保つための調整だ。彼はいつも、触れないことを選ぶのが上手い。上手いことが、今日は少しだけ寂しい。寂しいと言い切るのは怖い。だから、別の言葉を探す。
「寒い?」
蓮が聞く。
「寒くない」
ひかりは即答して、すぐに言い直したくなる。寒くないわけがない。風は冷たい。けれど寒いと言うと、彼が何かをしてしまう。してしまう、という言い方がもう自分勝手だ。彼はしていいのに、自分が怖がって止めているだけだ。
「手、出して」
蓮が言った。声は低く、軽い。命令ではない。提案の形をしている。
ひかりは一瞬、呼吸が止まりそうになった。止まりそうになって、止めないように意識した。蓮が昼に送っていい?と聞いたのと同じだ。今も、彼は奪わない形で近づいている。
「なに」
ひかりの声が少し掠れた。掠れたのが恥ずかしい。
蓮はポケットから、小さな紙袋を出した。中から出てきたのは薄い手袋だった。薄い。厚手ではない。触れたら温度が分かる程度の薄さ。そこに彼の慎重さが見える。温めすぎない。守りすぎない。逃げ道を残す。
「昼、近く通ったから。買った」
「どうして?」
「寒くないって言う顔してたから」
ひかりは言葉を失った。昼の自分が、彼に見えている。見えていることが怖い。怖いのに、見えていてほしい気もする。矛盾が喉の奥で粉っぽくなる。
「……いらない」
そう言ってしまった。反射だ。反射のあとで、自分の口の冷たさに驚く。いらない、は本心ではない。いらないと言って守っているのは、自分の夜だ。夜を守るふりをして、近づくことから逃げている。
蓮は笑わなかった。怒りもしない。ただ、手袋を袋に戻さず、手のひらで持ったまま、少しだけ黙った。沈黙が重くなる。重くなった沈黙の中で、ひかりは自分の心臓の音を聞いた。聞きたくないのに、聞こえる。夜の静けさは容赦がない。
「ごめん」
ひかりが言うと、蓮は首を振った。
「謝らなくていい。……ただ、渡したかった」
渡したかった、という言葉が刺さる。渡したかったのは手袋だけではない。昼の自分の小さな観察も。どうでもいい文も。あの空の色も。全部、渡すための試し方だったのかもしれない。ひかりはそのことに気づき、胸が苦しくなる。苦しいのに、逃げないでいたいと思う。
「じゃあ」
ひかりは言って、言葉を探した。探している間に、下唇の内側を軽く噛んでしまう。癖が出た。出たことが悔しい。悔しさは、今は助けにもなる。自分を動かすからだ。
「……貸して」
ひかりはようやく言った。貸して、という言い方を選ぶ自分が情けない。受け取ると言えない。受け取ると言ったら、彼の好意を受け入れたことになる。受け入れたら、関係に形が増える。形が増えるのが怖い。だから貸して。逃げ道のある言葉。ひかりは自分のずるさを知っていて、それでも今は、そのずるさに救われたい。
蓮は小さく息を吐き、袋を差し出した。差し出し方が丁寧だった。手が触れない距離。けれど、近い。近さが手袋の薄さと同じくらい、はっきりしている。ひかりは袋を受け取り、手袋を取り出した。布は柔らかい。指先が触れると、微かな温度が残っている。蓮の手の温度だ。温度が移るのが怖い。怖いのに、嬉しい。
手袋をはめる。指が布に収まる瞬間、ひかりは自分の手の形を思い出した。夜の散歩では、手の形が曖昧になる。顔や言葉の代わりに、歩くリズムだけが残る。けれど今は、手がある。手があることが、関係を現実に引き戻す。現実に引き戻された関係は、名前を欲しがる。
「どう?」
蓮が聞く。
「……あったかい」
ひかりは小さく言った。言った瞬間に、また後悔しそうになる。あったかいと言えば、彼の好意を肯定してしまう。肯定は怖い。怖いのに、嘘はつけない。つけない自分が、今夜は少しだけ好きだ。
歩き出すと、手袋の布が指の動きに合わせて擦れる。擦れる音は小さい。小さいのに、自分の耳にだけは大きい。耳が敏感になるのは、恋の前触れみたいで嫌だ。嫌だと思うほど、敏感さは増す。
運河の水面は今日も揺れている。揺れは同じに見えて、違う。風が変わるたび、光の割れ方が変わる。今日は割れ目が細い。細い割れ目は、会話の切れ目に似ている。切れ目に似ているものを見てしまうと、言葉が慎重になる。慎重になると、沈黙が増える。沈黙が増えると、触れない距離が目立つ。
「昼にさ」
蓮が言った。
「うん」
「空の話、返ってきたのが嬉しかった」
嬉しい、とまた言う。断定だ。断定が夜に増えると、夜は隠れ場所ではなくなる。ひかりはそれを分かっているのに、止められない。止めたくない自分もいる。
「どうでもいいことなのにね」
ひかりは軽く言おうとして、軽くならなかった。声に少しだけ真面目さが混ざる。真面目さは、ひかりの癖だ。感情を整えてから笑う。整えられない時は、真面目が出る。
蓮は少しだけ笑った。
「どうでもいいことを返してくれる相手って、どうでもよくない」
その言い方がずるい。ずるいのに、優しい。優しさの中に衝動が隠れている。隠れている衝動が、ひかりの胸を少しだけ押す。押されると、一歩踏み出したくなる。踏み出したら、夜が壊れる。壊れるのが怖い。怖いのに、壊してみたい衝動もある。
歩道の端に、浅い水たまりが残っていた。昼に降った雨の名残だ。水たまりは街灯の光を映し、揺れずにそこにある。揺れない光は、運河の光よりも現実的だ。ひかりは水たまりを避けようとして、足を少し内側へ寄せた。寄せた先に、蓮がいる。距離が一段近くなる。近い。近いのに、肩は触れない。触れないまま、空気だけが温まる。
蓮が歩幅を落とした。落としたことで、ひかりの足が自然に揃う。揃ってしまうことが、今日は怖い。揃うと、手が触れそうになる。手袋の布の上からなら、触れても痛くないかもしれない。痛くないから余計に危ない。痛みがないと、どこまで行ってしまうか分からない。
ひかりはポケットに手を入れようとして、入れられなかった。手袋の上からポケットの布に触れるのが、妙に寂しい気がした。寂しいという感情が、こんなところで顔を出すのが嫌だ。嫌だと思うと、胸の奥が熱くなる。熱くなると、目が少しだけ潤む気がする。ひかりは視線を水面へ向けて、息を吐いた。
「ひかり」
蓮が呼ぶ。名前の呼び方が、いつもより低い。低い声は、夜を深くする。
「なに」
返事の前に目を伏せる癖が出た。ひかりは自分の癖にまた腹が立つ。腹が立つのに、癖は止まらない。
「手、冷えてる?」
蓮は手袋を見て言う。手袋を見ているのに、手を見ている。見ていることが、怖い。怖いのに、見られているのが嬉しい。
「冷えてない」
ひかりは言い切ってしまった。言い切ったあとで、自分がまた強がったのが分かる。強がるのは、恋が怖いからだ。怖いから強くなる。強くなると弱さが見えない。弱さが見えないまま、関係は進まない。それが安全だと知っている。安全が欲しいのに、今日は安全だけでは足りない。
蓮は少しだけ黙って、それから、息を短く吸った。言いかける前の癖。ひかりの耳がその吸気を拾う。拾ってしまうことが恥ずかしい。
「じゃあ、俺が冷えてる」
蓮が言った。冗談の形。冗談の形を借りて、何かを言おうとしている。ひかりは笑ってしまいそうになり、笑う前に整える癖が出て、笑いが遅れる。遅れた笑いが、今夜は可笑しい。可笑しいのに、胸が痛い。
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
分かんなくていい、という言葉が、夜に落ちる。分かんなくていいことを、分かりたくなるのが恋だ。ひかりはそういう理屈を知っている。知っているから、避けてきた。避けてきたのに、今は、分かりたいと思う。思ってしまう。
風が少し強くなり、水面の揺れが粗くなる。粗くなると、光の割れ方も大きくなる。大きい割れは、会話の隙間を隠しきれない。隠しきれない隙間に、言葉が落ちる。落ちた言葉は拾えない。
「昼に送るの、やめようかと思った」
蓮が唐突に言った。唐突なのに、唐突に聞こえない。ずっと胸の中にあったものが、ようやく外に出た感じだ。
ひかりは足を止めそうになって、止めなかった。止めたら、顔を見なければならない。顔を見たら、反応がばれる。ばれたら、何かが変わる。変わるのが怖いのに、変わらないままではいられない。
「どうして」
「負担になったら嫌だと思って」
「負担じゃない」
ひかりは言ってから、自分の言葉が速すぎたと気づいた。速さは本心の証拠だ。証拠が出ると怖い。怖いのに、嘘ではない。昼の一言は、確かに嬉しかった。嬉しかったと言うのが怖いだけだ。
蓮はひかりの横顔を見て、視線を一度合わせてから外した。いつもの癖。けれど外し方が、今日は少しだけ遅い。遅い外し方は、勇気みたいに見える。
「負担じゃないなら」
蓮が言いかけて止まった。止まったまま、指先が動く。親指が関節をなぞる。癖。癖が出るのは、言葉が危ないからだ。危ない言葉が近づくと、体が先に逃げようとする。
ひかりはそれを見て、胸の奥が静かに騒ぐのを感じた。騒ぐのに音が出ない。音が出ない騒ぎは、夜に似合う。夜に似合うものほど、昼には持ち込めない。持ち込めないものを、今夜は少しだけ持ち込みかけている。
「なら、何」
ひかりが促すと、蓮は小さく息を吐いた。吐いた息が白くならずに消える。消えるのが惜しい。惜しいと思ったこと自体が、もう危ない。
「なら、俺はもう少し欲張るかもしれない」
欲張る。言葉が穏やかなのに、意味が鋭い。ひかりの胸が一気に締まる。締まるのは拒否ではない。受け止めきれない予感のせいだ。
「欲張るって」
ひかりは聞いた。聞いてしまった。聞いてしまったことが、もう戻れない一歩みたいに感じる。感じるのに、足は前へ進んでいる。
蓮は答えなかった。答えない沈黙が、夜の空気を厚くする。厚くなると、距離が近く感じる。近く感じると、手が触れそうになる。触れそうになる手は、手袋の布に包まれている。布があることで、触れる理由が増える。増える理由が怖い。
ひかりの手が、ふと揺れた。歩き方の揺れ。風の揺れ。どれでもいい。揺れた手が、蓮の腕に近づく。近づいたのは偶然だ。偶然だと自分に言い聞かせたい。言い聞かせる前に、蓮の指先が少しだけ動いた。動いた指先が、ひかりの手袋の端に触れそうになる。触れそうで、止まる。
止まった。止めたのは蓮だ。彼は触れない選択をした。触れない選択は、今まで二人が繰り返してきた守りだ。その守りが、今日は少しだけ痛い。痛いのに、ありがたい。ありがたいのに、悔しい。
ひかりは自分の手を少しだけ引いた。引いたことが、拒否に見えないように、わざとポケットへ戻すふりをした。でもポケットには入れない。入れないまま、手の行き場がない。行き場がない手は、熱を持つ。熱は布の内側に溜まる。溜まった熱は、心にも溜まる。
「ごめん」
ひかりは言った。何に対してのごめんか分からない。触れそうになったことか。触れなかったことか。欲張ると言われたことが嬉しかったことか。全部かもしれない。全部だと認めるのが怖い。
蓮は首を振った。
「謝ることじゃない」
そう言って、彼は少しだけ歩幅を落とした。ひかりの呼吸に合わせるため。合わせられると、また胸が痛い。痛みは、壊したくない気持ちと、このままではいられない衝動が同時にある証拠だ。証拠を持ってしまうのが怖い。怖いのに、捨てられない。
運河沿いの道の端に、ベンチがあった。木の板が少し湿っている。座れば距離が固定される。固定されると、逃げ道が減る。減った逃げ道が、今夜は必要かもしれない。ひかりはその考えに自分で驚いた。驚きは、心を前へ押す。
「ちょっと、休む?」
ひかりが言った。自分から言った。言ったことが信じられない。信じられないまま、口は閉じない。
蓮は一瞬だけ目を見て、外した。
「いいよ」
二人はベンチに座った。間を空けようとして、結局、空けきれなかった。空けきれない間隔は、風のせいにできる程度だ。風が強いから、離れると冷える。そういう理由があると、近さが許される。許される近さは、危ない。危ないのに、今はその危なさに触れていたい。
座ると、音が変わる。歩く音が消え、代わりに水の音が近くなる。水の音は一定ではない。遠い道路の音が混ざり、どこかで鉄が鳴る。夜の東京は、静けさを作るのが上手いふりをする。実際は常に鳴っている。その鳴り方が、今はちょうどいい。
蓮が手袋の紙袋を見た。ひかりの手に視線が落ち、すぐ戻る。見てしまうと触れたくなるから、戻したのかもしれない。触れたくなることを、彼が隠しているのが分かる。分かるのが怖い。怖いのに、分かりたい。
「返すよ、これ」
ひかりは言った。返すと言えば、終わりにできる気がする。終わりにしたくないのに、終わりにしたい。矛盾が口から出る。
蓮は首を振った。
「返さなくていい。……持ってて」
持ってて、という言葉が、ひかりの胸に落ちる。持ってては、関係の延長だ。今夜だけではない、という合図だ。合図を受け取るのが怖い。怖いのに、拒めない。
ひかりは視線を落とし、手袋の布を指で軽くつまんだ。つまむと、布の柔らかさが分かる。柔らかさは彼の温度に似ている。似ているものを持ち帰るのは危ない。危ないのに、欲しい。欲しいと思ってしまったのが、今夜のいちばんの事実だ。
「昼にさ」
ひかりはやっと言った。言う前に、少しだけ息を整える。整えた息が冷たい。
「うん」
「空の色、送ってくれたの、なんか」
ひかりは言葉を探して、止まった。ありがとう、と言えば簡単だ。簡単だから言いたくない。簡単な言葉で片づけたくない。
蓮は何も言わずに待つ。待つことができる人の沈黙。沈黙が、ひかりの背中を押す。
「……うれしかった」
ひかりは言った。言ってしまった。胸が一気に熱くなる。熱くなって、すぐ不安が来る。不安は、言った瞬間に壊れる気がするという形で来る。
蓮はすぐには反応しなかった。反応しない間が、一拍だけ続いた。その一拍が、夜のどこかに落ちる。落ちた一拍の中で、蓮の目がひかりを見る。視線が合い、外れない。外れないまま、蓮は短く息を吸った。
「俺も」
それだけ。俺も、だけで十分だった。十分なのに、足りない気もする。足りないと感じる自分が、もう夜の隠れ場所に収まらなくなっている。収まらないのが怖い。怖いけれど、少しだけ嬉しい。
風がまた吹き、ひかりの髪が頬に触れた。ひかりはそれを払おうとして、手袋の指先で頬を撫でる形になった。布越しの感触が、妙にくすぐったい。くすぐったさに笑いそうになり、笑う前に整える暇がなくて、短い笑いが漏れた。漏れた笑いは夜に溶ける。夜に溶けたものは拾えない。拾えないのが、今は少しだけ楽だ。
蓮がその笑いに合わせるように、口角を少しだけ上げた。上げたまま、彼は言いかけた。言いかけて止まる。止まった言葉が、空気に残る。残った空気が、ひかりの喉を締める。
「何?」
ひかりが聞くと、蓮は視線を外した。外してから、また戻す。戻す勇気が見える。
「触れそうだった」
蓮が言った。正直すぎる。正直が怖い。怖いのに、ひかりの胸が痛くて、同時に温かい。
「……うん」
ひかりはそれしか言えなかった。言えなかったことが、答えみたいになる。答えになってしまうのが怖い。
蓮は笑わない。軽くもしない。代わりに、手を膝の上に置いた。手の置き方が静かで、でも意思がある。触れないという意思。触れないまま、近づきたいという意思。二つの意思が同じ場所に並んでいる。
ひかりは自分の手をどうしていいか分からなくて、膝の上に置いた。手袋の布が膝の布に触れる。触れた感触が、小さな音みたいに伝わる。ひかりの手と蓮の手の間には、ほんの少しの距離がある。距離は数センチ。数センチは、恋の世界では遠い。
遠いのに、今はその遠さが必要だった。近づきすぎると、夜が壊れる。壊れた夜のあとに残るものが、自分は怖い。怖いのは、彼を失うことだけではない。自分が自分を嫌いになること。怯えている自分を見て、彼の顔が遠くなること。夜がなくなること。全部が同時に来る未来が見える。見えるのに、それでも、数センチの距離を埋めたい衝動が胸の奥で動いている。
「帰ろうか?」
蓮が言った。声が優しい。優しいのに、痛い。まだここにいたいのに、ここにい続けると壊れる気がする。壊れる気がするから、帰る。帰るという選択が、今夜の二人の守りになる。
ひかりは頷いた。頷く前に目を伏せる癖が出て、出た癖を自分で許す。今夜は許していい。許さないと、言葉が出なくなる。
歩き出すと、ベンチの湿りが背中に残る。運河の匂いが少し強くなり、風が冷える。手袋の内側だけが温かい。温かさが、現実の持ち帰りになる。持ち帰るものが増えるほど、夜は隠れ場所ではなくなる。隠れ場所ではなくなる夜に、自分は立てるだろうか。立つしかないのかもしれない。
別れ際、蓮は言いかけた。言いかけて、言わなかった。言わなかったことが、今夜いちばん重い。
ひかりは家へ向かう道で、手袋を外さなかった。外すと、今日の温度が消える気がしたからだ。消えた温度が戻らない未来を想像してしまう。想像の中で、夜が急に遠くなる。遠くなる夜に耐えられない自分がいる。いることを、今日ついに認めてしまった気がする。
部屋に戻り、照明をつける。白い光が床を平らにする。昼の顔が戻る。戻った昼の中で、手袋だけが夜のままだ。夜のままのものを、ひかりはしばらく眺めた。眺めているうちに、胸の奥で言葉が育つ。
欲張るかもしれない。
蓮の言葉が、今ようやく意味を持ってくる。欲張りは、きっと一つだけでは終わらない。昼に一言。手袋。触れそうな距離。次は何だろう。次が怖いのに、次が来てほしい。ひかりはその矛盾を抱えたまま、手袋をそっと畳んだ。畳む動作が、何かの約束みたいに静かだった。
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