第3話:昼の影を飼う日

朝の光がカーテンの繊維を透かし、部屋の角を乾かし始めるころ、篠宮ひかりは目を開けた。眠れたかどうかは、よく分からない。分からないまま起きるのが、最近の普通になっている。普通になってしまうことが怖いのに、体は勝手に普通の顔をする。


枕元の携帯端末は、昨夜の熱がすっかり冷えていた。画面をつける。通知は少ない。少ないことに安心して、すぐに別の不安が湧く。待つ、という一語が頭の中で何度も形を変えて残っているせいだ。


ひかりは水を飲み、キッチンの窓を少しだけ開けた。外の空気は冷えきっていない。湿りも重くない。遠くの道路の音だけが、朝の薄い層を切って入ってくる。東京は朝でも完全には静かにならない。静かにならないのが救いの日もあるし、刺さる日もある。


鏡の前で髪をまとめる。指先がもつれる。いつもより少しだけ時間がかかる。そういう小さな遅れが、今日の調子を予告する。予告を信じるのは嫌いなのに、当たることが多いのも事実だ。


駅へ向かう道で、通学の群れとすれ違った。制服の布が風を含み、乾いた音を立てる。コンビニエンスストアの前では、温められたパンの匂いが一瞬だけ浮いて、すぐ排気に押されて消えた。朝の匂いは忙しい。忙しい匂いは、息を浅くする。


改札を抜けると、人の密度が一段上がる。肩が触れるほどではないのに、体温が近い。誰かのコートの湿り。洗剤の匂い。息の混ざり。吊り革が揺れるたび、車体の小さな振動が指先に伝わる。ひかりはその振動の規則性に、無理やり自分の呼吸を合わせた。合わせないと置いていかれる気がする。


出版社のビルに入ると、空気が一気に均される。温度は一定。匂いは薄い。音は吸われる。フロアの白い光は、肌の疲れを正直に映す。ひかりは自席に着き、鞄を下ろした。椅子の背もたれが背中を受け止める感触だけが、少しだけ現実だった。


「おはよう」


隣の席の後輩が声をかける。ひかりは頷き、笑う前に一度だけ気持ちを整えた。


「おはよう。寒かった?」


「駅がもうぎゅうぎゅうで。冬って感じです」


冬という言葉が、ひかりの胸に引っかかる。夜の運河の冷え。掌に残った缶の温度。思い出は勝手に繋がる。繋がるのが怖いから、ひかりは画面を開いた。仕事の画面は、感情を後回しにしてくれる。


午前中は原稿の確認が続いた。語尾の統一。事実関係のチェック。言い換えの候補。作業は単調で、集中すると時間が短くなる。短くなった時間の中に、ふいに夜が差し込むことがある。例えば、著者の文章に出てきた「待つ」という動詞。例えば、行間に残る沈黙。例えば、誰かの一言が言いかけで止まる箇所。ひかりはそこに印をつけながら、自分がどこに反応しているのか分かってしまって、少しだけ手が止まった。


昼休み、社内の小さな休憩スペースで、ひかりはお茶を入れた。湯気は立つが、夜のそれとは違う。昼の湯気はすぐ散る。散るのが正しいみたいに。窓の外では、道路工事の音が響き、金属のぶつかる乾いた音が反響している。あの夜の柵を思い出す。集合場所が塞がれた時の、胸のざわつき。ざわつきは仕事中にもあるのに、質が違う。昼のざわつきは疲れに見える。夜のざわつきは、自分の内側に触ってくる。


「篠宮さん、午後の会議、資料できました?」


声をかけられて、ひかりは現実へ戻る。戻り方がぎこちないのを悟られたくなくて、短く返事をした。


「うん。送っておく」


送る。送るという言葉も、夜の連絡を連れてくる。短い文。固定の場所。理由を聞かない。夜だけの合図。昼の送信は、ただの業務なのに。


午後、会議室の空気は少し重かった。人が集まると、湿度が上がる。紙の匂いも濃くなる。言葉が飛び交うと、誰の声にも角が出る。ひかりは議事をまとめながら、角を削りすぎないように気をつけた。角は邪魔な時もある。でも角がないと、何も掴めない。


会議が終わって廊下へ出たとき、携帯端末が震えた。蓮ではない。広告の担当者からの連絡。夜の相手が昼には存在しないことを、こういう瞬間に突きつけられる。存在しない、という言い方は冷たい。けれど実際、昼の世界に彼は出てこない。出てこないようにしているのか、出てこられないのか。ひかりはその違いを考え始めてしまう。考えると、答えが欲しくなる。答えが欲しくなると、関係に名前をつけたくなる。名前をつけるのが怖い。怖いから、画面を閉じる。


夕方、窓の外の色が薄くなり、ビルの影が長く伸び始めるころ、ひかりは校了間際の原稿を机に広げた。紙の端に指を添える。紙は冷たい。昼の紙は、いつも少し冷たい。夜の空気と違って、紙は温まらない。温まらないものを扱う仕事をしているから、夜の温度が恋しくなるのかもしれない。そういう理屈は、あとで自分を納得させるためのものだ。今はまだ、ただ手元が落ち着かない。


後輩が近づいてきて、そっと声を落とした。


「篠宮さん、今日の夜、飲み会行きます?」


「ごめん。今日は用事がある」


用事、と言った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。夜の散歩を用事と呼ぶのは、少し変だ。変だけれど、他の言葉が見つからない。散歩、と言うと軽く見える。会う、と言うと重くなる。夜、という言葉だけがいちばん正確なのに、それを昼に持ち込むのは怖い。


「用事ですか。珍しい」


「うん。珍しいね」


自分で言って、自分で苦笑いしそうになる。珍しいわけではない。繰り返している。習慣だ。習慣を昼に引っ張ると、急に輪郭が出る。輪郭が出ると、隠していたものが見える。見えるのが怖い。


仕事が片づき、フロアの人が少しずつ減る。キーボードの音が点になり、コピー機の動作音が遠くなる。遠くなると、ひかりの頭の中の音が大きくなる。蓮の「待つ」がまた浮かぶ。浮かぶたびに、彼が怖がったことを思い出す。来ないかと思った。あの言葉は、夜の中では静かだったのに、昼の白い光の下では妙に生々しい。生々しいものは扱いづらい。編集者としては、扱いづらいものほど丁寧に扱うべきだと分かっている。分かっているからこそ、自分の感情だけ雑にしたくなる。


ビルを出ると、街は昼の余熱をまだ持っていた。アスファルトが吐く匂いが薄く漂う。人の流れが駅へ向かって伸び、交差点で一度ほどけて、また束になる。街灯の光はまだ完全には勝っていない。空は明るさを残し、ビルの窓が鈍く反射する。夜の入口が、まだ閉じきっていない時間だ。


ひかりは歩きながら、携帯端末を見た。連絡を入れるべきか迷う。迷うのは、遅れるかもしれないからではない。遅れると言えば、また彼が待つ。待つという行為を、彼に繰り返させるのが怖い。怖いのに、連絡をしないのも違う。違うと思う自分が、もう夜の約束を軽いものだと思っていない証拠みたいで、ひかりは指を止めた。


結局、短く打った。


「今日は行けそう」


送信して、画面を閉じる。すぐに返事は来ない。来ないことに、胸が小さくざわつく。ざわつきを抑えるために、駅のホームへ降りる。電車が入ってくると、風が髪を押し、車体の振動が足元に届く。人が動く。押される。押されると、自分の体の境界がぼやける。ぼやけた境界のまま、ひかりは流れに乗った。


辰巳に近づくにつれて、車内の人が減る。減ると、空気が軽くなる。耳の奥に残っていた圧が少し抜ける。窓の外の暗さが深くなり、遠い光が点になる。点の光は、夜の手触りを思い出させる。思い出させるたびに、昼の蓮の不在が浮かぶ。昼の世界に彼がいないことが、今夜の会話を難しくする気がした。昼の自分は彼に渡せない。渡せないから、夜の自分だけを渡している。夜の自分だけを渡す関係は、優しいのか、ずるいのか。ひかりは判断を先延ばしにした。先延ばしが得意だ。得意になってしまった。


駅を出ると、空気がはっきり冷える。冷えるが、刺さらない。湿りが混じり、肌の上に薄い膜ができる。遠くで走る車の音が、道路の面に沿って滑ってくる。工事の音はまだ残っていた。金属の柵が光を返し、そこだけ硬い。夜の中に、昼の硬さが混ざっている。


集合場所の手前で、ひかりは足を止めた。いつもの輪の中心は使えない。代わりに、少し外れた場所に影がある。蓮だった。彼は先に気づき、視線を向けて、すぐ外した。視線を外す癖は変わらない。変わらないことに安心して、安心に頼る自分が少し怖い。


「おつかれ」


「おつかれさま」


挨拶は短い。けれど、昼の挨拶と違って、短さの意味がある。言葉を足さないことで守っているものがある。守っているのは、夜の形だ。夜の形は、昼には作れない。


「今日は、行けそうって言ってた」


蓮が言う。責める調子ではない。けれど確認の声だ。確認が必要になっていること自体が、二人の夜の変化を示している。


「うん。行けた」


「よかった」


よかった、という言葉が落ちる。落ちた先で、すぐに沈黙が広がる。沈黙は嫌ではない。嫌ではないが、前より少しだけ重い。重いのは、昼が挟まったからだ。昼の世界の鋭さが、夜の余白を削る。削られた余白に、言葉が必要になる。


二人は歩き出した。工事の柵を避けるために、いつもと違う角度で運河に沿う。足元の舗装は同じなのに、音が違う。湿った部分があり、靴底が吸い付くように離れる。離れる音が小さく響く。響きが、心臓の拍に似てしまって、ひかりは意識をそらした。


「昼さ」


蓮が言った。珍しい入り方だ。夜の会話で、彼が昼を持ち出すのはあまりない。


「なに?」


「ひかり、昼はどんな顔してるんだろうって思った」


ひかりは返事が遅れた。質問に見えるが、質問ではない。彼の想像が漏れた形だ。漏れたものは戻せない。戻せないのに、責任を取りたくなる。責任を取りたくなる自分が、すでに夜だけでは足りないと感じている証拠みたいで、ひかりは息を吸った。吸った空気が冷たく、喉が少し痛い。


「普通の顔」


「普通って、どれ」


「仕事してる顔。怒ってる顔。笑ってるふりしてる顔」


「ふり」


蓮が小さく繰り返す。ひかりは下唇の内側を噛みそうになって、やめた。癖に頼りたくない。頼ると、また同じ夜の形に戻ってしまう。今日は戻りたくない気がする。戻りたくないのに、進むのも怖い。怖さを抱えたまま、ひかりは言った。


「ふり、するよ。だって編集って、そういう仕事だし」


「仕事だから、って言うのは簡単だな」


蓮の言葉は静かだった。静かだから刺さる。刺さると、ひかりは反射的に守りに入る。守りに入る自分が嫌で、守りきれない言葉が漏れた。


「簡単じゃない」


漏れたあと、すぐに後悔した。強い言い方をしたくない。強い言い方をすると、彼が黙る。黙られると、夜が遠くなる。遠くなるのが怖い。ひかりは視線を水面へ落とした。光がほどけて揺れている。揺れは今日もある。あるのに、心が落ち着かない。


蓮は少しだけ歩幅を落とした。ひかりに合わせるためだ。合わせられると、胸が痛い。痛いのに嬉しい。嬉しいのが怖い。怖いのに、言わない。


「ごめん」


蓮が言った。


「謝らないで」


ひかりは即座に返した。謝られるのが嫌だった。謝られると、彼の言葉が正しいみたいになる。正しいとか間違いとかではない。ただ、昼と夜が違うだけだ。違うだけなのに、違いを埋めたくなる。埋めたくなるのは、恋のせいだと認めたくない。


「昼のひかり、想像するだけで勝手に近づいた気になってた」


蓮が続ける。言い方が丁寧で、言葉が硬すぎない。硬くないのに、逃げ道は少ない。


ひかりは、答えを探した。すぐに出る答えは嘘になる。嘘をつくのは嫌だ。嫌なのに、正直も怖い。怖いから、ひかりはひとつだけ事実を言うことにした。


「昼に、あなたはいない」


言ってしまうと、胸が少し軽くなる。軽くなるのに、同時に空虚が来る。昼にいない。夜にしかいない。言葉にすると、それはすでに不自然だ。不自然さに気づいてしまうと、夜の習慣が急に脆く見える。脆さが怖い。怖さが恋だと気づきたくない。


蓮は黙った。黙ったまま、しばらく水面と同じ方向を見た。彼の沈黙は、いつもより長い。長いけれど、重ねてくる言葉がないのが救いだった。救いという感情を自覚すると、また負債が生まれる気がして、ひかりは靴先の向きを整えた。整えたところで、何も整わないのに。


「俺も、昼にいない」


蓮がやっと言った。


「昼に、いるよ。広告の人でしょ」


「そういう意味じゃない」


ひかりは返事を止めた。そういう意味じゃない、と言われると、続きを想像してしまう。想像は簡単だ。簡単だから、胸が痛い。痛みを言葉にすると、決定的になる。決定的になると、今の二人が壊れる。壊れるのが怖い。怖いのに、このままではいられない。第2章で生まれた予感が、夜の空気と一緒に肺へ入ってくる。


「じゃあ、どういう意味」


ひかりは聞いた。聞いてしまった。聞いた自分を止められない。


蓮は息を短く吸った。言いかける前の癖。ひかりはその癖に、今日初めて救われなかった。癖は安心の合図だったのに、今は緊張の合図に見える。


「昼の俺は、ひかりに触れられない」


触れられない。言葉が、夜の中で輪郭を持つ。触れるという語は、手だけを意味しない。目線。距離。時間。連絡。全部を含む。含むから怖い。怖いのに、ひかりの胸の奥が熱を持つ。熱は拒否ではなく、呼び水みたいに広がる。


「……触れられないって、何?」


ひかりは問い返した。疑問符は使っていないのに、声に疑問が乗った。乗ったことが、自分にばれる。自分の感情が見えるのが怖い。怖いのに、見せたい気もする。矛盾が、夜の輪郭を少しだけ変える。


蓮は歩きながら、言葉を選んだ。選ぶ速度が遅い。遅いことが、彼の慎重さを示している。慎重さは優しさだ。優しさは時に残酷だ。優しい言葉ほど、拒否しにくいから。


「昼に連絡すると、邪魔になるかもしれないって思う。仕事のひかりを、乱したくない」


「乱すのが嫌なら、夜も」


ひかりは言いかけて止めた。夜はすでに乱している。乱しているのに、乱していないふりをしている。自分のそのずるさを、今言葉にしたら、戻れなくなる気がした。


蓮が続ける。


「でも、夜だけだと」


彼はそこで止まった。止まったまま、次の言葉を飲み込んだ。飲み込まれた言葉が何か、ひかりは分かってしまう。分かってしまうから、苦しい。苦しいのに、胸の奥に小さな喜びがある。喜びは卑怯だ。相手が苦しんでいるのに、自分が嬉しいのは卑怯だ。ひかりはその卑怯さを、まだ自分で許せない。


「夜だけだと、って何」


ひかりは促した。促す声が震えそうで、意識して低くした。低くすると大人みたいに聞こえる。大人のふりをするのが、昼の自分のやり方だ。夜にそれを持ち込むと、少し苦い。


蓮は一度だけ視線をひかりに向けて、すぐ外した。その外し方が、今日は優しいというより、逃げに見えた。逃げに見えるのが怖い。怖いから、ひかりは一歩だけ近づきそうになって、やめた。触れそうで触れない距離を、今だけは守った。


「夜だけだと、俺がずるい気がする」


ひかりは言葉を失った。ずるいのは、自分だと思っていた。夜だけの自分を渡して、昼を隠しているのは自分だ。なのに彼は、自分のほうをずるいと言う。彼のずるさは、欲しいのに奪わないことだ。奪わないことで、相手に選ばせる。選ばせることは自由に見えるが、自由は時に重い。ひかりはその重さを、今、掌に感じた気がした。


「ずるくない」


ひかりは言った。言い切った。言い切ってしまったことに、少し驚く。断定は怖いのに。怖いのに、言い切りたかった。


蓮は小さく笑いそうになって、笑わなかった。笑わなかったことで、言葉の真剣さが残る。


「ひかりは、昼の俺を見たことないだろ」


「ない」


「見たら、がっかりするかも」


「何それ」


ひかりは思わず声を出してしまった。冗談の形をした防御だ。蓮は防御を使う時、少しだけ目が遠くなる。遠くなる目を見て、ひかりは胸の奥が締まった。締まるのは、怖さだけではない。守りたい気持ちが混ざっている。守りたいなんて、勝手だ。勝手なのに、止まらない。


「がっかりはしない」


ひかりは言った。柔らかく言うつもりが、また断定になった。断定が続くと、自分が自分でなくなる気がする。なのに、今日は断定が出る。夜の膜が薄い。薄いのは工事のせいかもしれない。昼を引きずっているせいかもしれない。どちらにしても、薄くなった膜の向こうに、言葉が透ける。


蓮はしばらく黙り、手元で指を動かした。親指が関節をなぞる。癖は戻ってきた。でも、戻り方が少し違う。落ち着こうとしている動きだ。


「俺さ」


蓮が言った。


「うん」


「昼に連絡したい時がある」


ひかりは息を止めたくなった。止めると逃げになる。逃げたくない。でも怖い。怖いから、呼吸を続けた。続けるのが精一杯だ。


「何を?」


「どうでもいいこと。例えば、道で変な看板見たとか。昼の空が妙に白いとか。そういうの」


どうでもいいこと。どうでもいいことを共有するのは、関係に名前がつく一歩手前の行為だ。ひかりは編集として、どうでもいい一文が物語を変える瞬間を知っている。どうでもいいことに本音が混ざる。混ざった本音が、もう戻れない場所を作る。


「どうでもいいこと、って」


ひかりは言って、笑いそうになってやめた。笑うと軽くなる。軽くしたくない。軽くしたら、彼の言葉が薄くなる。薄くなるのが嫌だ。嫌だという感情が、もう恋に近い。近いのに、認めたくない。


「どうでもいいことを言える相手って、少ない」


蓮が言った。声が少しだけ低くなる。低くなると、夜が濃くなる。


ひかりは歩きながら、昼の自分を思った。会議室での声。後輩への返事。原稿に向ける視線。昼の自分は、どうでもいいことを言わない。言えない。言っている暇がない。言ったら崩れる。崩れるのが怖い。怖いから、整える。整え続けて、夜にほどける。ほどけた自分を、彼にだけ渡している。その偏りが、彼の中でずるさに見えているのかもしれない。


「昼の私は」


ひかりは言いかけて止めた。説明が始まりそうだった。説明は逃げになる。逃げになると、触れない距離に戻ってしまう。戻ると安全だ。安全は、時に寂しい。ひかりは安全だけを選ぶのに飽き始めている。飽きたと言うと軽い。けれど、似た夜を繰り返すだけでは足りないと感じてしまった。


「昼の私は、あんまり面白くない」


ひかりはやっと言った。自分を下げる言い方は好きではない。でも、今はこれが一番正直に近い。


蓮が首を振る。


「面白いとかじゃない。ひかりが、そこにいるって分かるだけでいい」


分かるだけでいい。言葉が穏やかすぎて、ひかりは胸が痛くなる。痛みは拒絶ではない。むしろ逆だ。近づきたいのに近づけない痛み。近づけないのは、彼ではなく、自分の恐れだ。


運河の水面が、工事の光を受けていつもより細かく割れている。割れた光が、二人の影を揺らす。揺れる影を見ながら、ひかりは思う。夜が二人を隠しているのは、外からではなく、自分の中からだ。自分が恋という名前を怖がって、夜の余白に押し込めている。押し込めているのに、溢れ始めている。


「明日」


蓮が言った。短い言葉だ。


「明日?」


ひかりの声に疑問が乗る。疑問符は書かなくても、疑問は生まれる。


「昼に、ひとつだけ送ってもいい?」


送る。昼に送る。ひかりの喉がきゅっと縮む。縮むのは、拒否ではない。受け止める覚悟を作るための縮みだ。


「何を?」


「どうでもいいこと」


蓮はまたそう言って、今度は少し笑った。笑いは小さく、すぐ消えた。でも消えたあとに温度が残る。温度は、夜の空気より確かだ。


ひかりは答えを迷った。迷う時間は短かった。短いのに、体感は長い。長く感じるのは、ここが分かれ道だからだ。昼に一言が届くようになったら、夜は隠れ場所ではなくなる。隠れ場所ではなくなった夜は、始まりになるかもしれない。始まりは怖い。怖いけれど、拒む理由がもう薄い。


「……いいよ」


ひかりは言った。声が少しだけ掠れた。掠れたことが恥ずかしくて、すぐに言い足す。


「どうでもいいことなら」


蓮は頷いた。その頷きが、約束に見える。約束は責任を生む。責任は名前を呼ぶ。名前はまだ怖い。でも、約束の形が生まれてしまった以上、引き返すのは難しい。難しいのに、ひかりの胸の奥は少し軽い。軽さが、不安を連れてくる前に、夜の冷えが頬に触れた。


散歩の終わりが近づく。別れが近づく。別れが近づくと、言葉が足りなくなるのがいつものはずなのに、今日は逆だった。言葉が増えるほど、夜が薄くなるのが怖い。怖いのに、薄くなった夜の向こうに、彼がいるのが見える。見えることが、嬉しい。


「じゃあ」


蓮が言う。


「うん」


ひかりが答える。


短い。短いのに、今夜はそれで足りた。足りたことに驚く。驚きが、明日の昼を少しだけ変える気がした。変わるのが怖い。怖いけれど、変わらないままではいられない。そういう予感が、駅へ向かう道の空気に混じっていた。


部屋に戻り、照明をつける。白い光が床を平らにする。昼の光だ。昼の光の下で、ひかりは携帯端末を充電器に差し込んだ。差し込む音が小さく響く。音は小さいのに、決め事の音に聞こえる。決め事が怖いのに、決め事がないと関係は形にならない。


布団に入ると、眠気はまだ来ない。来ないのに、心は少し落ち着いている。明日、昼にどうでもいいことが届く。届いたら、ひかりはどう返すのだろう。返すと、昼に彼が生まれる。生まれた彼は、夜の彼と同じだろうか。違うだろうか。違ってもいい。違っても、見たい。見たいと思ってしまったことが、もう答えに近い。


天井の暗さの中で、ひかりは目を閉じた。閉じたまま、胸の奥の熱を確かめる。熱はまだ、恋という名前を欲しがっていないふりをしている。ふりをしているだけだ。そういう人間味のある嘘を抱えたまま、夜は少しずつ次の形へ進む。

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