第2話:合図がずれる頃
昼の東京は、ひかりにとって紙の端みたいなものだった。指で触れると切れそうなくせに、切れないふりをして机の上に居座る。編集部の空気はいつも乾いていて、言葉の摩擦で熱が生まれるのに、誰も暖まらない。モニターの白が顔色を奪い、蛍光灯の下で笑う声だけが妙に明るい。笑いに混ざるのは、締切の気配と、すれ違いの癖と、誰にも渡さない疲れだ。ひかりはその中で、慣れた手つきで原稿を整え、付箋を貼り替え、赤字の粒を拾い集めた。拾い集めるたびに、自分の感情は後回しになっていく。それが仕事の上手さだと教えられてきたし、実際、そうしないと一日が終わらない。
終わるはずの一日は、終わりたがらないことがある。夕方の色が窓ガラスに鈍く貼りつき、外の街が仕事帰りの匂いを濃くし始めるころ、ひかりの机の上にもう一つだけ用件が落ちた。落ちた、というより、押しつけられた。急ぎで直してほしい、と言われると、断れない性格だと自分でも思う。静かな負けず嫌い。負けるのが嫌というより、負けたと思う瞬間の自分の顔が嫌だ。だから引き受けてしまう。引き受けたあとに、胸の奥が遅れてざわつく。遅れはいつも、夜に回ってくる。
画面の端に積もる文字列を追い、指で短いメモを打ち、語尾の揺れを整える。整えるほどに、書き手の体温が薄くなる気がして、ひかりは時々、わざと残す。完璧に磨かない言い回し。少しだけ不器用な比喩。そういうものが人間味だと信じたい。信じたいのに、社内のやり取りはいつも結論を急がせる。急ぐほどに、大事なものが落ちる。それを拾うのが自分の役目なのに、拾うための時間が与えられない。矛盾だ。矛盾を飲み込むのも、もう慣れてしまった。
携帯端末が、机の端で短く震えた。音は出ない設定なのに、振動は皮膚に届く。画面を見ると、蓮からの文字が一行だけあった。
「今夜、歩く?」
連絡は短い。余白が多い。余白が多いほど、ひかりの胸は落ち着く。誘いの形をした確認。確認の形をした合図。いつもなら、ひかりは同じ密度で返す。
「行く」
それだけでいいはずなのに、指が止まった。仕事の画面と、夜の画面が同時に目に入る。二つの光の種類が違うことに気づき、どちらにも自分が映っていない気がした。ひかりは返信欄に短く打ち、すぐ消して、また打った。
「遅れるかも」
送信した瞬間、胸が少し冷える。遅れるかも、は便利な逃げ道で、同時に約束を弱くする。約束を弱くしたくないのに、強くすると責任が生まれる。責任が生まれると、名前がつく。名前がつくと、今の夜が変わる。変わるのが怖い。怖いと言い切るのも、何だか負けみたいで、ひかりは椅子に深く座り直した。
返事はすぐ来た。
「わかった。待つ」
待つ、という言葉が一つだけ置かれる。短いのに重い。重いのに、押しつけがましくない。ひかりはその矛盾に救われて、救われたことに苛立った。苛立ちの矛先が自分に向くのが分かる。分かるのに止められない。人間は面倒だ。面倒なまま仕事を続ける。
外へ出たとき、夜はすでにしっかりした形を持っていた。ビルの間の風は低い場所を選んで流れ、駅前の人の気配は仕事の終わりを引きずっている。香水と汗と、衣類に染みた室内の匂いが、改札のあたりで混ざり合って薄い膜になる。その膜を抜けると、空気は少しだけ冷たく、舌の上に金属の味が残った。電車に乗り込むと、車体の振動が膝に伝わり、窓の外の暗さが少しずつ柔らかくなる。都会の暗さは真っ黒ではない。目が慣れると、暗いまま細部が見えてしまう。見えてしまうことが時に残酷だ。
辰巳で降りたころ、駅の床の冷えが靴底から上がってきた。階段を上がると、夜の空気が少し湿っている。降ったわけではないのに、空に水分が溜まっている気配がある。耳の奥に小さな圧が残る。ひかりはそれを疲れのせいにした。疲れはいつも、便利な箱だ。箱に入れると、曖昧な感情がとりあえず収まる。収まったふりをして、夜に溢れる。
運河沿いへ向かう道の途中で、携帯端末の画面が一瞬だけ暗くなった。電池が細い。昼に充電するのを忘れたことを思い出す。こういう忘れ方は、自分の生活がどこか乱れている証拠みたいで嫌だ。嫌だと思うと余計に、夜へ急ぎたくなる。夜に会えば落ち着く。会えば落ち着く、と言い切れることが、もう怖いのに。
いつもの集合場所に近づくにつれて、音が変わった。水の音ではない。金属が擦れる音。小さな機械の唸り。工事の気配だった。街灯の下の一角が囲われ、柵が光を跳ね返している。人の背丈より低い柵なのに、そこだけ空間が固くなる。ひかりは足を止め、息を吸い直した。いつもと違う。違うだけで、胸がざわつく。ざわつきの理由は、場所ではない。習慣が崩れると、二人の関係まで揺れる気がするからだ。
画面を見て、蓮に送ろうとした。指先が文字を探すより先に、背後から声がした。
「こっち」
振り向くと、蓮が少し離れた場所に立っていた。いつもの輪の中心ではなく、柵の端の暗がりに寄っている。彼の輪郭が、街灯の光と工事の反射に挟まれて細く見える。ひかりはその細さに、妙な焦りを覚えた。焦り、と言うと自分の中で大げさに膨らむから、心の中で別の言葉を探した。落ち着かない。そうだ、落ち着かない。
「ごめん。遅くなった」
「うん。大丈夫」
蓮の声は穏やかで、いつも通り沈黙を怖がらない調子だった。でも、彼の指先は落ち着きを探すように動いていた。マフラーの端を整える。整えたあとも、もう一度だけ触る。癖だと分かっているのに、いつもより回数が多い。ひかりはそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、慌てて視線を外した。
「ここ、工事してるんだ」
「さっき来て、分かった。いつもの場所、使えないな」
いつもの場所、という言葉が二人の間に置かれる。言葉の形が、夜の習慣そのものだ。ひかりは頷き、何か言い足したくなるのを堪えた。言い足すと、理由を言うことになる。仕事で遅れた。疲れた。会いたかった。会いたかったなんて、言えない。言えない理由は、分かっている。言った瞬間に、今の二人が別の名前になる気がするからだ。
歩き出すと、いつもと違う経路になる。運河に沿う直線から少し内側へ入ると、空気の匂いが変わる。水の気配が薄くなり、建物の壁が持つ冷たさが強くなる。車道の近さが音で分かる。タイヤが湿った路面を撫でる音が、低く長く続き、遠くで信号の機械音が規則正しく響く。音の規則が時間を進める。時計を見なくても、夜は動いている。
「今日、遅いと思ってた」
蓮が言った。責める調子ではない。けれど、何かが滲む。
「ごめん。急ぎのが入って」
「そうか」
「……待たせた」
ひかりが言うと、蓮は一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。言葉の手前で留まる呼吸が、暗い場所ではよく聞こえる。聞こえたことを悟られたくなくて、ひかりは歩く速度を少しだけ上げた。上げた瞬間に、自分が逃げたのが分かる。逃げた自分が嫌で、さらに早くなる。すると蓮が、自然な動きで歩幅を合わせてくる。合わせられると、逃げが成立しない。成立しないことに、ほっとしてしまう。ほっとしたことが悔しい。感情が忙しいまま、街の匂いだけが淡々と変わっていく。
小さな飲食店の前を通ると、温かい油の匂いが短く漂った。人の笑い声が、ガラス越しに柔らかく漏れてくる。店内の光が白すぎず、黄すぎず、皮膚にちょうどいい温度で触れる。その温度が、ひかりの中の何かを揺らした。二人でああいう場所に入ったことはない。入らないことが決まりではないのに、自然と避けてきた。夜の散歩は、歩くことだけで成立するのが安全だった。椅子に座ると、距離が固定される。固定されると、逃げ道が減る。逃げ道が減ると、言葉が必要になる。
「腹、減ってる?」
蓮が聞く。
「減ってない。たぶん」
「たぶん」
「うん。たぶん」
自分で言いながら、ひかりは少し笑ってしまった。何でも曖昧にしているのが自分だ。曖昧にして守っているつもりで、何を守っているのか分からなくなる夜がある。今日がその夜かもしれない。そう思うと、喉の奥が乾いた。乾きは空気のせいではない。
「……今日は、少しだけ止まる?」
蓮が言った。止まる、という言葉がやけに優しい。ひかりは頷く代わりに、近くの自動販売機へ視線を向けた。白い光が路面を照らし、そこだけ昼の顔をしている。夜の中の昼は、無防備な気分にさせる。
二人は自動販売機の前に立った。缶の表面に結露が残っている。触れると冷たく、指先が目覚める。ひかりは温かいものを選び、硬貨を入れた。落ちる音が、夜の静けさを一度だけ割る。蓮は隣で同じように選び、取り出し口の蓋を押し開けた。蓋が戻る音が小さく響く。その小ささが、妙に耳に残る。
「手、冷えてる?」
蓮がひかりの手元を見て言う。視線の角度が、真正面ではなく少しだけ斜めだ。真正面から見ないことが彼の礼儀で、同時に、彼の衝動の抑え方でもある気がした。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔」
「顔まで見るの」
「見るよ」
見るよ、という言葉がさらっと出る。さらっと出たのに、ひかりの胸が一瞬だけ詰まった。見る、というのは簡単な言葉なのに、ここでは意味が濃い。彼は見ている。夜だけのひかりを。言葉にしない部分を。見られていると分かると、隠しているはずの感情が輪郭を持ち始める。輪郭が怖い。
ひかりは缶を持ったまま、息を吐いた。温かい缶が掌にじわじわ熱を渡してくる。熱は心にも移る。移ると困る。でも、困るのに捨てられない。ひかりは自分の心の扱いが下手だと、こういうときに思う。編集者のくせに、自分の文章だけが推敲できない。
蓮は缶を開けずに、しばらく掌で温めていた。夜の空気が冷えるほど、彼の動作はゆっくりになる。ゆっくりになるのは落ち着きの証拠だと思ってきた。けれど、今日は違う気がする。ゆっくりなのは、言いたいことを飲み込むために時間が必要だからかもしれない。そういう推測をしてしまう自分が嫌で、ひかりは缶の口を開けて一口飲んだ。甘さが舌の上に広がり、喉を落ちていく。飲み込む音が自分の耳にだけ大きく聞こえる。
「遅れるって言ったとき、正直」
蓮が言いかけて、止めた。止めたことが分かるほど、言葉の端が残る。ひかりは視線を上げた。彼の横顔は白い光に照らされて、夜の陰が薄くなっている。普段よりも表情が見える。見えることが、少し怖い。
「正直、なに」
「……いや」
「いや、じゃない」
ひかりの声が少し強くなった。強くなったことに自分で驚き、すぐ柔らかくしようとする。でも、一度出た強さは戻らない。戻らない強さに、蓮の視線が一瞬止まった。止まる。止まるだけで、距離が縮む。縮むことが怖いのに、逃げたくない。
「正直、来ないかと思った」
蓮が言った。言ったあと、すぐに言い訳をしない。そこで黙る。黙ることが、彼の覚悟みたいに見えた。
ひかりの胸の奥で、何かが小さく鳴った。音ではない。鳴った、というしかない感覚だ。来ないかと思った。彼がそんなことを思うと想像したことはあった。でも、口にされると違う。想像の中では自分が傷つくだけで済む。言葉になると、相手が傷ついていたことが現実になる。現実になると、責任が生まれる。責任が生まれると、逃げ道が減る。逃げ道が減るのに、逃げたくない。
「……ごめん」
ひかりはそう言ってしまった。謝りたいわけではない。謝ると、彼が許さなければならなくなる。許す側に押しやるのが嫌だったのに、言葉は先に出る。人間味、と言えば聞こえはいい。でも、ただの不器用だ。
「謝らなくていい」
蓮はすぐに言った。すぐに言ったことが、彼の我慢の積み重ねを逆に見せる。すぐに言う人は、言わない時間を長く持っている。ひかりはそういう人の沈黙を、編集の仕事で何度も見てきた。原稿の余白に残る沈黙。書かれなかった理由。書けなかった痛み。読む側はそれを美しいと言う。でも、書く側はたいてい苦しい。蓮の沈黙も、苦しさの側にあるのかもしれない。
「でも」
ひかりは言って、止まった。続ける言葉が、どれも怖い。怖いと言い切りたくない。言い切ったら、自分が弱くなる。弱くなったら、彼が近づく。近づいたら、今の夜が変わる。変わるのが怖い。怖いのに、変わらないままではいられない気もする。二つの感情が同じ場所で擦れ、熱になる。熱は体の内側に溜まって、息が少し浅くなる。
「でも?」
蓮が促す。促し方が柔らかい。柔らかい促しは、逃げ場を作りながら、前へ進ませる。ずるいほど上手い。ひかりはその上手さに救われ、救われたことを認めたくなくて、缶をもう一口飲んだ。甘さがさっきより濃い。甘いものは、心の輪郭をなぞってしまう。
「来ないわけない」
ひかりは言った。言った瞬間に、自分で自分の言葉に驚いた。断定に近い。断定は責任を生む。責任は名前を呼ぶ。名前を呼ぶのが怖いのに、口から出た。
蓮は目を瞬かせた。たったそれだけ。なのに、ひかりは彼の内側が揺れたのを感じた気がした。感じた気がする、という曖昧さを自分で抱えたまま、ひかりは視線を落とした。視線を落とした先にあるのは、自分の手と缶と、缶から立ち上る薄い湯気。湯気はすぐ消える。消えるのが惜しい。惜しいと思うほど、今の時間が貴重だと認めてしまう。
蓮が何か言いかけて、言わない。言わない沈黙が、今は少しだけ重い。重いのに嫌ではない。嫌ではないからこそ、怖い。ひかりは自分の心が、危ない場所に片足をかけているのを知る。引き返せない場所まで来ている。そう言うと大げさだ。でも、感覚としては近い。夜が二人を隠してくれている間に、もう隠しきれないものが増えている。
「歩こう」
蓮が言った。結論を急がない。そういう選び方に、ひかりはまた救われる。救われることに慣れると、救いがなくなる日が怖くなる。怖くなる日を想像するのは、やめたいのにやめられない。
二人は自動販売機から離れ、再び歩き出した。運河の方へ戻る道は少し遠回りで、足元の路面がところどころ湿っている。濡れたアスファルトは光を吸って、靴底がいつもより静かになる。その静かさが、会話の隙間をはっきりさせる。隙間があると、言葉にしない感情が顔を出す。顔を出した感情は、すぐ引っ込まない。引っ込まないものを、ひかりはどう扱えばいいのか分からない。
「今日さ」
蓮が言う。言葉の入り方が、さっきより慎重だ。慎重な言葉は、触れないための手袋みたいだ。
「うん」
「工事、しばらく続くらしい」
「そうなんだ」
「集合場所、変える?」
集合場所。固定だったもの。固定であることが二人の夜の安心だった。変える、という提案が、ただの実務連絡に聞こえない。場所が変わるだけで、何かが変わる。変わるのが怖い。でも、変わらないままでは、今日みたいに合図が届かない夜がまた来る。合図が届かない夜に、彼が来ないかと思うのが怖いと言ったことを、ひかりはもう忘れられない。
「……考える」
ひかりはそう答えた。逃げではない、と自分に言い聞かせる。考える、というのは、選ぶための時間だ。選ぶことを先延ばしにしているだけだとも言える。でも、今のひかりにとっては、選び方そのものが難しい。恋は生活を乱す。そう思ってきた。乱れたら、自分を嫌いになる。嫌いになった自分を、彼に見せたくない。見せたくないから、名前を避けてきた。避けてきたのに、今日の言葉は少しだけ境界を削った。
「考えるでいい」
蓮は言って、視線を前に戻した。前を見ながら歩く。並んでいるのに、正面だけを共有する。その距離感が、今夜は妙に切ない。切ない、と言うとまた甘くなる。でも、甘さのない切なさがある。説明できないまま、胸の内側に残る感覚。
運河沿いへ戻ると、空気が少しだけ変わった。水の匂いが薄く混ざり、風の通り道が広がる。広がると、二人の間の沈黙も広がる。広がる沈黙は、離れることではなく、余白が増えることだ。余白が増えると、そこに感情が入り込む。入り込んだ感情は、言葉を探す。言葉が見つかると、関係が名前を持つ。その連鎖を、ひかりは頭の片隅でずっと追っている。追っていることを、蓮に知られたくない。
「ひかり」
蓮が呼ぶ。名前だけ。名前だけで、体が少しだけ反応する。反応が自分にばれるのが恥ずかしくて、ひかりはわざと平坦な声を出した。
「なに」
「もしさ」
蓮が言いかけて止まる。止まった理由が分かる気がする。もし、の先には、選択肢がある。選択肢は自由を奪うことがある。彼はそれを知っている。だから、言葉にする前に一度躊躇う。その躊躇いが、ひかりには痛いほど優しい。
「もし?」
ひかりが促すと、蓮は少しだけ笑った。笑いというより、息が緩んだ。
「いや。今じゃない」
今じゃない、という言葉が、夜の中で静かに沈む。沈んだまま、浮かび上がってこない。でも、沈んだこと自体は残る。残ることが怖い。残ることが嬉しい。両方ある。両方あるまま、歩く。
いつもの散歩の終わりが近づくと、別れが現実の形を持ち始める。別れは毎回同じはずなのに、今日は少しだけ違う。合図が届かない夜があった。彼が来ないかと思ったと言った。自分が来ないわけないと言ってしまった。言ってしまったことが、帰り道の足元に小さな段差を作る。段差はつまずくほどではない。でも、足裏に残る。
「今日は、ありがと」
ひかりが言った。ありがとう、の対象が分からない。待ってくれたことか。言葉を飲み込んでくれたことか。怖いと言わないでくれたことか。自分でも曖昧なまま、言葉だけが先に出た。
「こちらこそ」
蓮はそう言って、少しだけ間を置いた。間は、さっきまでの沈黙とは違う。言葉の手前の間だ。ひかりはその間に、胸の奥が小さく震えるのを感じた。震えが恋だと認めたら、何かが壊れる気がする。壊れる気がするのに、壊したくないとも言い切れない。壊したくないのは夜で、壊したいのは自分の逃げ癖だ。そういう矛盾を抱えたまま、ひかりは蓮の顔を見た。
彼は何も言わない。ただ、目の奥で何かを抑えている。抑えているものの正体を想像するのは簡単だ。簡単だからこそ、想像しない。想像しないふりをして、ひかりはほんの少しだけ笑った。笑う前に整える癖は、今日はうまく働かなかった。整えきれない笑いが出てしまう。整えきれないままが、人間らしいと誰かは言う。ひかりはその人間らしさが、少しだけ怖い。でも、嫌ではない。
「じゃあ」
蓮が言う。
「うん」
ひかりが答える。
言葉はそれだけで足りた。足りたはずなのに、足りない気もする。足りない気持ちが、彼女の背中に夜の膜のように貼りついた。帰り道の街は、さっきよりも静かで、音が遠い。遠い音の中で、自分の呼吸だけが妙にはっきりする。呼吸がはっきりすると、胸の奥のざわつきもはっきりする。ざわつきは不安に似ている。似ているけれど、同じではない。もう少しだけ柔らかい。もう少しだけ温度がある。
家の鍵を回し、暗い部屋に入る。玄関の匂いが自分の生活の匂いに戻る。戻った瞬間、安心する。安心してしまうのが、なぜか悔しい。靴を脱ぎ、コートを掛け、照明をつける。白い光が部屋の角をはっきりさせる。角がはっきりすると、夜の余白が消える。余白が消えると、言葉にできない感情が行き場を失う。
ひかりは携帯端末を見た。電池がさらに細い。画面に残るのは、短い文字のやり取りだけだ。行間に、今日の空気や、彼の沈黙や、自分の言葉の震えは残らない。残らないのに、自分の中には残っている。残っているものが、これからの夜を少しずつ変える。変えるのが怖いのに、変わらないままではいられない。そういう予感だけが、部屋の天井に薄く広がる。
眠れない夜がまた来る。きっと来る。理由は聞かない。理由を言わない。夜が合図になる。だけど、合図が届かない夜もある。届かない夜に、彼が怖がることを知ってしまった。知ってしまった以上、知らなかったふりはできない。できないのに、どうすればいいのか分からない。
分からないまま、ひかりは寝室の暗さに身を沈めた。布団の温度が体の形に沿っていく。沿っていくほど、昼の輪郭が薄くなり、夜の輪郭が濃くなる。濃くなった夜の中で、蓮の「待つ」という一語が、何度も浮かんでは沈んだ。沈んでは浮かぶたびに、胸の奥が少しだけ熱を持つ。その熱が恋だと認めるのはまだ怖い。でも、怖いと言わずにいられる夜は、もう長くない気がした。
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