夜が名前を隠していた

reika1021

第1話:一拍遅れる夜へ

街灯が等間隔に並ぶ場所は、夜の濃淡を均してしまう。暗さがどこかで急に深まることもなく、明るさが一気に弾けることもない。辰巳の運河沿いは、感情の起伏を目立たせないように出来ている気がする。そういう都市の癖を、篠宮ひかりは好んでいたのだと思う。好んでいる、と言い切るのは少し気恥ずかしい。けれど、眠れない夜が続くと、体が勝手にその均一さに寄っていく。


風は冷たいほどではない。けれど頬の表面を薄く削るような乾きがあって、喉の奥が小さく鳴った。水はすぐそばにあるのに、湿りは控えめだ。運河の匂いは、藻の苦さよりもコンクリートの粉っぽさのほうが強い。昼の熱が落ち着き、舗装の隙間に沈んでいたものがゆっくり息を吐くころ。遠い車の音が、橋の向こうで一度膨らんでから、またしぼんでいく。東京の夜は、音の遠近で時間を見せる。


ひかりは集合場所の街灯の輪の中に立ち、上着のポケットへ両手を深く差し入れた。指先が冷えている。自分でも驚くほど、そこだけが先に冷える。寒いから、というより、落ち着かないときの癖に近い。下唇の内側を軽く噛む。噛んだまま、息を吸い込み、吐く。吸った空気が胸の内側をすべり、吐いた息が白くなりかけて、なりきれずに消える。見えないものにしてしまうのが上手い夜だ。


来るのが早かった。数分でも、ここではそれが余る。余った時間は薄い膜みたいに肌に貼りつき、何もしないでいるのを許してくれない。ひかりは運河の水面を見た。街灯の光がほどけて、揺れている。ほどけ方はいつも同じではない。風の筋、通る船の残り香、護岸の角度、そういう細部が違いを作る。目を向けていると、時間のほうが自分を観察しているみたいで落ち着かない。


ポケットの中で、携帯端末が一度だけ震えた。画面を見なくても分かる。連絡は短い。集合場所は固定。余計な言葉はなく、理由も聞かない。それが二人の取り決めというより、もう習慣だった。


来る。


ひかりは画面を確かめるふりをして、すぐにしまった。顔を上げると、街灯の輪の外に影が現れ、輪の縁を踏むように近づいてくる。歩き方に迷いがない。彼の歩く速度は、夜に合わせているというより、自分の内側の呼吸に合わせている。久遠蓮のそういうところを、ひかりは知っている。


「……おつかれ」


「おつかれさま」


挨拶は短い。いつも通りの短さで、温度もいつも通りに抑えられている。なのに、そのあとに、一拍だけ沈黙が落ちた。


落ちた、という言い方は少し大げさかもしれない。実際には、何も落ちていない。街灯の光は途切れず、水面は揺れ続け、遠い車の音は薄く引き伸ばされている。それでも、ひかりの体のどこかが、ほんの一瞬だけ遅れを感じた。歩き出す前の、足首の迷い。言葉を次に足すかどうかの迷い。そんなものが、いつもよりわずかに長い。


ひかりはその一拍を、ただの間だと思った。歩幅を合わせる前の調整だと。彼女の中では、夜の散歩はそういうものだ。二人とも眠れない。たまたま同じ方向へ歩く。たまたま同じ街灯の下に集まる。そういう偶然の形を借りて、説明を省いている。


蓮は、その一拍にだけ、恋を置いた。置いた、と言ってしまうと彼の気持ちを決めつけるみたいで怖い。でも、彼の沈黙にはいつも何かがある。何もないふりをして、何かを守っている沈黙。ひかりはそれを、何度も横で聞いてきた。


蓮が先に歩き出し、ひかりが半歩遅れて隣に並ぶ。二人の靴底が同じテンポを探り、見つける。歩幅が揃うと、触れそうな距離が当たり前になる。肩が触れるほどではない。けれど、近すぎると言い訳できるほど遠くもない。夜の東京は人の数を減らしてくれるから、二人の距離は自然に見えてしまう。自然に見えることが、時々怖い。


蓮は襟巻の端を指先で整えた。指が関節をなぞる癖が、暗い場所だとよく見える。見える、というより、ひかりが勝手に拾ってしまう。視線は一度合って、それから外れる。外し方が丁寧で、相手を急に置いていかない。ひかりはそういうところに安心する。安心してしまう自分に、たまに腹が立つ。腹が立つほど、頼っているみたいだから。


「今日は、空気が軽いな」


蓮が言った。軽い、という言葉は意外だった。冷えるとか、乾くとか、そういう分かりやすいことではなく、軽い。ひかりは少し遅れて頷き、運河の匂いをもう一度吸い込んだ。確かに、重たくない。人いきれが薄い。昼に見えない層が、この辺りでは夜になるとほどける。


「人が少ないからかな」


「それもある。あと、今日の風は変な角度で来てる」


蓮はそう言う前に、短く息を吸った。言いかけるとき、いつも一度だけ息を切り替える。その小さな音が、ひかりには妙に近く聞こえる。夜のせいか、距離のせいか、それとも彼女の耳が彼に慣れすぎてしまったのか。


「変な角度って何?」


「説明すると、つまらない」


「じゃあ、言わないでおく?」


「……うん。言わないでおく」


言わないでおく、という言葉が二人の間で柔らかく転がる。ひかりはそれを聞くと落ち着く。言葉にしないものが、ここでは責められない。昼の職場だと、言葉にしないことは怠けに見えたり、逃げに見えたりする。編集の仕事は、言葉にしないところから拾い上げるくせに、現場の会話は言葉がないと進まない。矛盾している。東京の昼はいつも、そんな風に忙しい。


ひかりは出版社の編集者だ。都内の会社で、紙の匂いと画面の光に挟まれながら、一日を切り分けている。切り分ける、という作業は慣れているはずなのに、夜だけは切り分けが下手になる。眠れない夜に散歩をして、会っている間は落ち着く。帰って一人になると、ざわつく。ざわつきの理由を、彼女はまだ言葉にしていない。言葉にしたら、何かが壊れる気がする。壊れる、というのも少し違う。壊れるというより、今の形が変わってしまう。変わること自体は悪いことじゃないはずなのに、変わった途端に自分が不安に飲まれて、自分を嫌いになる未来が見える。見える気がする。そういう想像だけがやけに鮮明だ。


「仕事、どう?」


蓮が聞いた。唐突ではない。会話が薄く途切れたところに、彼はいつも無理のない言葉を置く。


「相変わらず。直しが多い」


「直しって、ひかりが直すの? 直されるの?」


「両方。私は直させる側だけど、上からも直される。直しの渋滞」


「渋滞って言い方、ひかりらしい」


「そう?」


ひかりは笑いそうになって、すぐに整える。笑う前に一度、感情を揃える癖がある。自分では気づかないふりをしているけれど、蓮にはもう見抜かれている気がした。見抜かれている、という言い方も過剰か。彼はただ、黙って分かっているだけだ。分かっているのに言わない。その慎重さが、優しさなのか、臆病なのか、ひかりにはまだ判別できない。判別できないまま一緒に歩いている。


橋の手前で、遠くから自転車が一台近づいてきた。ライトの白が細く伸び、二人の影が一瞬だけ歪む。すれ違うとき、タイヤが路面の小さな砂を押して、しゃり、と音がした。夜の音は小さいくせに、耳に残る。ひかりはその残り方が好きだ。好きだと言ってしまうと、また何かを決めるみたいで、少し怖い。でも、事実として耳が覚えてしまっている。


信号の前で足を止める。赤い光が水面に滲み、護岸のコンクリートを薄く染める。ひかりは無意識に靴先を揃えた。揃えると体の中心が整う。整ったふりができる。蓮は横で立ち止まり、彼女のほうへ体を少しだけ向けた。視線はすぐには合わない。彼は夜の中で、焦点を急に合わせない。そこにも、何かを守る気配がある。


「無理してない?」


蓮の声は低い。問いかけは短いのに、そこだけ空気が濃くなる。ひかりは返事の前に目を伏せた。伏せた先に、自分の靴と、彼の靴が並ぶ。靴の形も、履き慣れた癖も違う。なのに今は同じ方向を向いている。それが不思議で、可笑しくて、少しだけ胸が痛い。


「してない、と思う」


思う、という柔らかい逃げ道をつける。断定すると嘘になる。嘘をつくのは得意ではない。編集という仕事は、嘘をつかない形で物語を作るから、余計に。


「思う、か」


蓮はそれ以上追いかけない。追いかけないことが、彼のやり方だ。追いかけないまま、ちゃんと横にいる。横にいることが、ひかりにとって救いになる夜がある。救いという言葉も大げさだ。ただ、眠れない夜に一人で天井を見つめるより、運河の水面を見ながら歩くほうが、呼吸が整う。それだけ。それだけのはずなのに。


信号が変わる。二人は同時に歩き出す。足裏に伝わる路面の硬さが、昼間よりはっきりしている。昼は車の振動や人の足音に混ざってしまうものが、夜だと一つずつ分かれて届く。東京は昼に雑で、夜に繊細だ。そういう顔を持っている。


歩いていると、運河の向こう側の建物の窓が点々と光っているのが見える。全部が同じ生活ではない。夜勤の人もいれば、眠れない人もいる。恋人と話している人もいる。誰かを待っている人もいる。ひかりはそういう無数の気配を想像して、すぐにやめる。想像が広がると、自分の輪郭が薄くなる。薄くなると、蓮の存在だけが逆に濃くなる。それが怖い。


「今日さ」


蓮が言いかけて、少しだけ言葉を探した。親指が関節をなぞる。息を短く吸う。視線が一度こちらを見て、外れる。いつもの一連の動きなのに、今日はどれもわずかに遅い。ひかりはその遅さに気づいてしまい、気づいたことを隠すために水面へ視線を落とした。水面の光がほどけて、また形を変える。形を変えることに、罪悪感はない。羨ましい、と一瞬思う。


「ん?」


「……いや、なんでもない」


「なんでもない、最近多いね」


ひかりは言ってから、しまったと思った。責めたかったわけじゃない。ただ、口から出た。人間味、と言えば聞こえがいいけれど、単に彼女の心が整いきっていないだけだ。蓮は少しだけ笑った。笑い方は派手ではない。口角がわずかに上がるだけ。けれど、その小ささが、ひかりの胸を静かに叩く。


「そうかも。ひかりも、なんでもないって言うだろ」


「私のは、本当に何でもない」


「それ、信用していい?」


疑問符が夜に小さく浮かぶ。ひかりは返事をせず、代わりに肩をすくめた。肩をすくめる動きは、言葉より正直だ。蓮はそれを見て、深追いしない。その距離の取り方が、また彼女を助ける。助けられるたびに、彼女は少しずつ負債を抱えていく気がする。負債を返す方法が、分からない。


歩くうちに、歩道の端に小さな水たまりが残っているのが見えた。昼のどこかで降った雨が、夜まで消えきれずに残ったのだろう。水たまりは街灯の光を鏡のように映し、運河の揺れとは違う、静かな明るさを持っている。ひかりは無意識にそれを避けようとして、少し内側へ寄った。すると、蓮の肩が近くなる。近くなりすぎないように、彼は歩幅をほんの少し落とした。そういう調整が、言葉より先に起きる。


触れそうで触れない距離。触れないことを選ぶ距離。


ひかりは、自分が触れないほうを選び続けているのを知っている。触れたら終わる。終わる、というより、始まってしまう。始まってしまったら、今の夜はもう同じではいられない。夜を失うことが怖い。夜を失うのが怖いなんて、子どもみたいだ。けれど、この夜は彼女の生活の中で唯一、名前のないまま許される場所だった。恋と呼ばないまま、隣にいていい場所。そういう抜け道が、いつの間にか必要になっていた。


「ひかり」


蓮が彼女の名前を呼ぶ。名前の呼び方が、夜だと少しだけ違って聞こえる。昼に電話で呼ばれるのとは違う。声に丸みがある。丸み、というより、角がない。角がないことが、時々残酷だ。角があれば、ぶつかって、痛くて、分かりやすいのに。


「なに」


「……最近、眠れてる?」


ひかりは笑ってしまいそうになった。眠れていたら、ここにいない。そんな当たり前のことを、彼は分かっているはずだ。分かっているのに聞く。その聞き方が、確認というより、寄り添いに近い。寄り添い、と言うとまた甘くなる。甘くなりすぎると、夜はすぐに溶ける。


「眠れてない」


「そっか」


「そっちは」


「眠れてない」


二人で同じ言葉を言ってしまって、ひかりはようやく少し笑った。笑うまでに一拍、整える癖は残ったけれど、笑いはちゃんと出た。蓮も小さく息を吐くみたいに笑った。笑い声は運河の水面に落ちず、空気に溶けるだけで消えていく。その消え方が、惜しい。惜しいと思うのは、贅沢だろうか。


歩いていると、向こうから犬を連れた人が来た。犬は小さく、黒い毛が夜に溶けそうなのに、目だけが光を拾っている。ひかりのほうを一瞬見て、すぐに飼い主へ意識を戻した。人は犬の首輪の金具を軽く鳴らしながら通り過ぎていく。金具の音が、今日の夜に一つだけ金属の色を足した。


「犬、かわいかった」


ひかりが言うと、蓮は頷いた。


「ひかり、犬好きだっけ」


「嫌いじゃない。たぶん」


「たぶん、って何」


「好きって断定すると、責任が生まれるじゃん」


言ってから、ひかりは自分の言葉に心臓を掴まれる。責任。断定。名前。恋。全部つながっている。蓮は一瞬だけ黙り、それから視線を運河のほうへ逃がした。逃がした、というのも違う。彼はいつも、同じ方向を見る。相手の顔を見続けて追い詰めない。そういう礼儀が、彼のやり方だ。


「責任、か」


「うん。変なこと言った」


「変じゃない。ひかりらしい」


ひかりらしい、という言葉が、胸の奥に小さく刺さる。らしい、というのは便利だ。相手を肯定しているようで、枠を作る。枠があると安心する。安心は、時に檻にもなる。ひかりは檻が嫌いだ。嫌いなのに、自分で檻を作ってしまう。恋は生活を乱すものだと思ってきたから。生活が乱れると、自分が自分でいられなくなる。自分が自分でいられないと、嫌いになる。そういう負の連鎖を、彼女はよく知っている。過去の経験が、というほど大きな恋をしてきたわけではない。むしろ、恋の手前で引き返すのが得意だった。得意になってしまった。得意なものは手放しにくい。


少し先で、橋の下をくぐる。橋の下は音が変わる。車の走る振動が上から落ちてきて、空気が一瞬だけ厚くなる。ひかりはその厚さに肩をすくめた。蓮は歩幅を落とし、彼女が音の層に慣れるのを待つ。待ってくれることに慣れると、待たれない日が怖くなる。ひかりはその恐怖を、まだ蓮に渡していない。渡したくない。渡したら、彼の自由を奪う気がする。奪う、という言葉も強い。でも、彼女は知っている。言葉は、関係に名前をつける。名前は、期待を生む。期待は、選択肢を狭めることがある。


蓮もまた、それを知っている人だ。だから告白をしない。彼は沈黙を怖がらない。怖がらないというより、沈黙を選べる。逃げではなく選択として。ひかりはそれに救われながら、同時に試されている気もする。試されている、というのは被害者意識だろうか。彼は何も試していない。ただ、待っているだけだ。待っているだけなのに、待たれている側の心は忙しい。


橋を抜けると、空気がまた軽くなる。遠くのコンビニエンスストアの灯りが、運河の水面に細い線を引く。線はすぐに揺れ、ほどける。夜の光は、すぐに形を変える。ひかりはその変わり方を追いながら、ふと、自分の生活がいかに固定されているかを思う。朝、満員電車、社内の白い光、紙の匂い、締切、修正、誰かの言葉の調整。帰宅して、部屋の鍵の音。静けさ。眠れない。ここへ来る。蓮と歩く。帰る。眠れない。繰り返し。均一。街灯みたいだ。均一で、むらがなくて、感情が目立たない。そういう生活を、彼女は守ってきた。守ってきたはずなのに、今はその均一さの中に、蓮という揺れがある。揺れは小さい。けれど、ある。


「今日、帰り道変える?」


蓮が言った。いつもは同じ道を折り返す。集合場所も、折り返しの角度も固定。固定されているから楽だった。変える、と言われると心がざわつく。ざわつく理由が自分でも分からず、ひかりは反射的に下唇の内側を噛んだ。


「どうして」


「なんとなく。今日は、違う匂いがするから」


「匂い」


「うん。運河の匂いじゃなくて、街の匂い。説明すると、つまらない」


「またそれ」


ひかりは小さく笑って、すぐに真顔に戻った。笑いが長く続かない。長く続くと、何かを認める気がする。蓮は彼女の表情の切り替えを見て、何も言わない。彼の沈黙が、夜の均一さに小さな穴をあける。穴の向こうに何があるのか見たいのに、見たら戻れない気もする。


「変えないほうがいい?」


蓮が聞く。問いかけ方が、許可を求める形だ。強引に引っ張らない。選ばせる。ひかりはその優しさに、また負債を感じる。負債、なんて言葉は恋に似合わない。似合わないのに、現実の感情はそういう言葉でしか整理できないことがある。整理したくないのに、整理してしまうのが彼女の癖だ。


「変えてもいい」


ひかりは言った。言ってしまった。胸の奥で何かが小さくほどける音がした気がする。気がするだけだ。音はしていない。けれど、夜はこういう気のせいを本物みたいに扱ってくる。


蓮は頷き、歩く方向をわずかに変えた。運河沿いから少しだけ内側へ。街灯の均一さが少し崩れ、建物の影が濃くなる。道路の車の音が近づき、排気の匂いが混ざる。人の気配が少し増える。夜の東京が、さっきまでの静けさとは違う皮膚を見せる。ひかりはその変化に緊張し、ポケットの中で指を握り直した。


角を曲がると、自動販売機の明かりが唐突に現れた。光が白く、冷たい。ひかりはその光に一瞬目を細めた。蓮はその横を通り過ぎるとき、歩幅をさらに少しだけ落とした。彼女が眩しさに慣れるのを待つ。待つ、という行為が自然すぎて、ひかりは逆に切なくなる。切ない、という感情も、ここでは言葉にしないほうがいい気がした。


「ひかり」


蓮がもう一度、名前を呼ぶ。今度は、さっきよりも小さい声だった。声が小さいと、距離が近く感じる。近く感じるのが怖いのに、耳はそれを拾ってしまう。


「なに?」


「来なくなる夜、考えたことある?」


ひかりは足を止めそうになって、止めなかった。止めたら、答えなければならない気がする。答えたら、今の二人が変わる。変わるのが怖い。怖いのに、胸が熱い。熱いのに、口が乾く。乾きは、空気のせいではない。


「考えないよ」


嘘だ。考えている。何度も。来なくなる夜を想像すると、運河の街灯が急に遠くなる。遠くなるのは街灯ではなく、自分の生活だ。夜が抜け落ちた生活を想像すると、昼の輪郭が鋭すぎて息ができない。ひかりはそのことを、蓮に言えない。言った瞬間に、彼が責任を背負う気がする。背負わせたくない。背負わせたくない、という気持ちが、彼を遠ざける。遠ざけるつもりはないのに。


蓮は少しだけ息を吐き、視線を外した。外した先にあるのは、信号の赤と、夜の建物の暗い面。彼はそれを見ながら、ぽつりと言った。


「俺は、考える」


その言葉が、ひかりの胸に沈む。沈むのに、重くない。不思議だ。重くないのに、深い。深い場所に落ちたものは、取り出すのが難しい。難しいのに、放っておけない。そういう厄介さが、恋に似ている。似ている、という言い方でまた逃げる。逃げるのが癖になっている自分が、少し情けない。


「……なんで」


ひかりはやっとそれだけを言った。問いかけは小さい。けれど、問いかけた時点で何かが進んでしまう。進むことを止められない。止められないのに、足はまだ歩いている。歩いていることが救いになる。立ち止まると、感情が追いついてしまうから。


蓮は答えなかった。答えないまま、歩幅を調整し、彼女の隣にいる。沈黙が、また二人の間に広がる。沈黙は逃げではなく選択。彼が選んでいるのか、ひかりが選ばせているのか、分からない。分からないまま、夜が進む。


信号が変わり、横断歩道を渡る。白い線を踏むたびに、靴底が小さく音を立てる。線の白は昼よりも冷たく見える。渡りきったところで、蓮がふと笑いそうな息を吐いた。


「ごめん。変なこと聞いた」


「変じゃない」


ひかりはそう言って、すぐに言い直したくなった。変じゃない、と言ったら、答える責任が生まれる。責任。断定。名前。恋。連鎖がまた始まる。彼女は口を閉じ、代わりに運河のほうへ視線を戻した。少し離れただけなのに、水面の光が遠く感じる。遠いものは安全だ。安全なものほど、近づきたくなるのはなぜだろう。


歩きながら、ひかりは自分の仕事のことを思い出す。編集者は、誰かの言葉に名前をつける。章題を決め、見出しを置き、物語に輪郭を与える。輪郭を与えることは、読者のためでもあるけれど、書き手のためでもある。輪郭がないと、人は不安になる。なのに、彼女は自分の関係だけは輪郭を拒んでいる。矛盾している。矛盾していることを、彼女は知っている。知っているのに、やめられない。やめられない理由は、たぶん、ここにある夜があまりにも心地よいからだ。心地よい、という言葉も軽い。正確には、ここにいると自分が自分でいられる気がする。昼のように正しくなくても許される。強くなくてもいい。そういう場所が、彼の隣にある。


街の内側へ入ったせいで、少しだけ人の気配が増えた。遅くまで開いている飲食店の前を通ると、油の匂いがふっと漂う。笑い声が漏れ、皿が触れ合う音が短く響く。店内の暖かさがガラス越しに滲み、外の冷えた空気と混ざって、妙に甘い匂いになる。ひかりはその匂いを吸い込み、胃が小さく反応するのを感じた。空腹ではない。けれど、誰かと食べる夜の匂いは、体に記憶がある。


「腹、減ってる?」


蓮が聞く。


「減ってない。たぶん」


「たぶん多いな」


「断定すると責任が生まれるから」


ひかりは冗談めかして言ってしまい、すぐに後悔した。笑って誤魔化すと、さっきの話が薄まる気がしたから。蓮はそれでも笑わなかった。笑わないまま、でも硬くならずに言った。


「責任って、そんなに怖い?」


ひかりは答えられなかった。怖い、と言えば弱い。怖くないと言えば嘘になる。答えないのが一番安全だ。でも、答えないことにも責任がある。責任から逃げているのに、責任を背負ってしまう。矛盾がまた増える。夜の東京は、矛盾を増やすのが上手い。


ひかりは歩きながら、ポケットの中で指をほどいた。ほどく。握る。ほどく。その繰り返しが、呼吸の代わりみたいになっている。蓮は何も言わず、彼女の歩幅に合わせる。合わせるだけで、彼の内側の衝動が見えない。見えないことが、優しさなのか、怖さなのか。ひかりはまだ分からない。分からないままでいい、と一瞬思う。けれど、その一瞬のあとに、分からないままではいられない、とも思う。二つの思いが同じ場所で擦れ、熱になる。熱は声にならず、胸の奥に溜まる。


運河沿いへ戻る道に出ると、街灯の均一さがまた戻ってきた。戻ってきた途端に、ひかりはほっとしてしまう。ほっとする自分に、また少し腹が立つ。腹が立つのに、ほっとする。人間は忙しい。夜はそれを静かに見ているだけだ。


集合場所の近くまで来ると、最初に落ちた一拍の沈黙が思い出される。思い出すのは簡単だ。あの一拍は、短いのに妙に手触りがあった。触れたわけではないのに、触れたみたいな手触り。触れたら終わるのに、触れないまま手触りだけが残る。そういうものが、恋の前触れなのかもしれない。前触れ、と言うとまた逃げている。ひかりは自分の逃げ癖に気づきながら、気づかないふりも同時にしている。二重の作業が、息を少しだけ苦しくする。


「今日は、ここで」


蓮が言う。いつもと同じ別れの言葉。別れの言葉というほどでもない。散歩の終わりの合図。それだけのはずなのに、胸が少しだけ縮む。縮むのを悟られたくなくて、ひかりは視線を水面へ逃がした。水面の光がほどける。ほどけるたび、言葉にしない感情が露出する。


「うん」


ひかりは頷き、笑う準備をするみたいに感情を整える。整えた笑いは、昼なら問題なく使える。でも夜だと、整えてしまうこと自体が寂しい。寂しい、と言ってしまうと、また何かを決める。決めたくない。決めたくないのに、決まってしまいそうだ。


蓮が一歩だけ近づいた。近づいたと言っても、数センチだ。けれど、その数センチが、運河の幅より広く感じる。彼はひかりの目を見た。視線を合わせて、一度外す。癖。いつもの癖。なのに今日は、その外し方が少しだけ遅い。遅いことが、ひかりの心を揺らす。揺れは小さい。けれど、確かにある。


「また、歩く?」


蓮が聞く。問いかけは、いつも通りの短さ。でも、いつもより少しだけ、声が柔らかい。柔らかさが、ひかりの中の何かをほどく。ほどけると、言葉が出そうになる。出そうになる言葉は、核心に近い。近いからこそ怖い。怖いからこそ、口の中で噛み潰したくなる。


ひかりは下唇の内側を軽く噛んだ。噛んでいる間に、時間が一拍だけ遅れる。最初の一拍よりも、はっきりした遅れ。夜がまた息を吸う。蓮はその息に合わせて、何も言わずに待つ。待つことが彼の選択。待たれることが彼女の試練。


「……歩く」


ひかりはようやく言った。断定ではない。けれど、逃げでもない。今の彼女に言える精一杯の形。蓮は小さく頷き、笑った。笑いは派手ではない。けれど、ひかりの胸の奥で、何かが静かに温まる。温まることは、乱れの始まりかもしれない。乱れは怖い。怖いのに、少しだけ嬉しい。嬉しいと言うとまた決める。決めるのが怖いのに、もう戻れない場所まで来ている気がする。


二人は別れ、ひかりは一人で歩き出した。背中に夜の空気が貼りつき、街灯の輪がまた等間隔に続く。運河の水面が光をほどき、彼女の影が薄く伸びる。会ったあと落ち着くのに、別れたあとざわつく。そのざわつきが、今日は少し違う。痛みではなく、予感に近い。予感が何を指しているのか、彼女はまだ言葉にしない。言葉にした瞬間に、今の二人が壊れる気がするから。


でも、壊れるのが怖いのに、壊してみたい衝動が、確かに胸のどこかで息をしていた。夜はそれを隠してくれる。今はまだ。夜が名前を隠してくれている間は。

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