第11話ノゾミちゃん
「みらいず」での生活が一年を超えた頃、わたしの日常にふわりと舞い込んできたのが、ノゾミという女性でした。当時四十五歳だった彼女は、わたしより一つ年下。百五十八センチほどの小柄な体躯に、整った美しい顔立ちが印象的な人でした。
彼女との距離が縮まったきっかけは、些細な、けれど温かな心遣いでした。
「根岸さん、これ。ディズニーランドのお土産です」
同棲している彼氏と遊びに行ってきたのだと言って、彼女はわたしに小さなお土産を差し出してくれました。その時の彼女の屈託のない笑顔が、わたしの心に小さな火を灯したのです。
それからというもの、わたしたちは休憩時間のたびに言葉を交わすようになりました。
新松戸で彼氏と二人暮らしをしていること。通院のために、わざわざ実家のある茨城まで通っていること。彼女の身上を聞くたびに、わたしは彼女の生活の断片を自分の中に蓄積し、親密な連帯感を感じるようになっていきました。
そして、ある日のことです。
わたしたちは、一度だけ、キスをしました。
それは工場の喧騒から離れた、ほんの一瞬の出来事。
自分でも驚くほどの衝動と、それを受け入れてくれた彼女の柔らかさ。あの時、わたしの世界は確かに彼女という存在を中心に回転していました。彼女にも生活があり、パートナーがいる。それは重々承知していましたが、その禁忌に近い甘美な記憶が、わたしの「実存」を激しく揺さぶったのです。
しかし、運命の歯車は無情にも回り続けます。
わたしが松戸を離れ、江戸川区へと拠点を移してからも、わたしたちは時折連絡を取り合っていました。スマートフォンの画面越しに届く彼女の言葉は、かつての親密さを繋ぎ止める細い糸のようでした。
けれど、その糸はある日、唐突に断ち切られます。
ノゾミに、新しい恋人ができたというのです。
「二十五歳の、ジャニーズ系なの。優しくて、すごくイケメンなんだよ」
報告という名の、残酷な通告。
二十歳も年下の、光り輝くような若さを持った青年。かつてわたしと交わしたあのキスの記憶など、新しい恋の熱量にかき消されてしまったかのようでした。
「そうか。お幸せに」
そう打ち込みながら、わたしの胸には言いようのない虚脱感が広がっていました。
普通に愛し、愛されたい。そんな当たり前の願いが、なぜかわたしの手からはいつも砂のようにこぼれ落ちていく。
松戸の風に乗って届いたその知らせは、わたしの「バッドハビッツ」――愛への渇望と、それに伴う執着――を再び刺激しました。失われた愛を埋めるために、わたしはまた別の「美少女」を、あるいはもっと壮大な「何か」を追い求めずにはいられなくなっていく。
江戸川の空の下、わたしは独り、自分の中に残った微かな熱を、言葉という名の墓標に刻み続けていたのでした。
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