第10話ヒトミちゃん

​「みらいず」での生活が軌道に乗るにつれ、わたしの周囲には緩やかに、けれど確かな色彩を持った人間関係が築かれていきました。その中でも、ヒトミちゃんとの出会いは、わたしにとって知的な刺激に満ちたものでした。

​当時三十七歳だった彼女は、わたしより八つ年下。百六十四センチのすらりとした長身に、透き通るような白い肌が印象的なスレンダーな女性でした。県立柏高校を卒業したという彼女は、その経歴に違わず頭の回転が速く、言葉の端々に聡明さが滲み出ていました。

​彼女は野田市の運河から通っていましたが、在宅ワークが中心だったため、工場に姿を見せるのは月曜日と水曜日だけ。だからこそ、その日の昼休憩は、わたしにとって特別な意味を持っていました。わたしたちは、工場の片隅で多くの時間を共有しました。

​しかし、なぜ彼女との関係に亀裂が入ってしまったのか、今でも判然としないのです。

​ある日の昼下がり。わたしはスーパーで買った「すき焼き弁当」を広げながら、ふと、ある言葉を口にしました。それは自分なりの、密やかな親愛の情を込めた、言葉遊びのつもりでした。

「……スキ、ヤキ弁当」

「好き」という言葉を忍び込ませた小声の独白。すると、普段は静かな湖面のように穏やかな彼女が、珍しく身を乗り出して鋭く反応したのです。

「――なんだって!?」

その一瞬の、刺すような緊張感。わたしの意図が誤解されたのか、あるいはわたしの内なる欲望が透けて見えたのか。その日を境に、彼女との間に流れる空気は、微妙に、けれど決定的に形を変えていきました。

​一方で、工場には「みらいずNo.1美少女」と目される、めぐみちゃんという存在もいました。彼女とも決して仲は悪くありませんでしたが、二人きりでゆっくり話す機会は、驚くほど得られませんでした。

​なぜなら、彼女の周りには常に、血気盛んな「ヘテロ(異性愛者)」の男たちが群がっていたからです。

​「美少女ナンパ」という名のコミュニケーションにおいて、わたしが真に気を配るのは、対象となる女性の動向ではありませんでした。真に警戒すべきは、周囲のライバルたちが向けてくる、嫉妬に歪んだ視線なのです。

​モテる男、あるいは女性に近づく男は、それだけで集団の中で迫害の対象になり得ます。特に、工場という「生活の糧」を稼ぐ、命に直結する現場において、周囲の男たちを敵に回すのは、愚策中の愚策でした。わたしは、自らの価値を証明したいという渇望を抱えながらも、同時に、彼らの反感を買わぬよう細心の注意を払っていました。

​「普通に彼女をつくって、普通に愛されたい」

​そんな慎ましい願いの裏側で、わたしは常に戦場のような駆け引きの中にいました。ヒトミちゃんとのすれ違い、めぐみちゃんを巡る目に見えない包囲網。

松戸の工場の昼休みは、わたしの実存を懸けた、静かで熾烈な「冒険」の舞台でもあったのです。

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