第5話サエちゃん
工場の冷気に包まれた作業場の中で、わたしの目はいつしか一人の女性を追うようになっていました。サエちゃん。彼女もまた、オイシックスのキットを作る利用者の一人でしたが、休憩時間はいつも決まって部屋の隅に座り、静かに本を読んでいるような、控えめでどこか理知的な雰囲気を持つ人でした。
ある日、わたしは「バッドハビッツ」の一つである、抑えきれない衝動と好奇心に背中を押され、思い切って彼女に声をかけました。
「こんにちは。お名前、なんていうんですか?」
唐突な問いかけに、彼女は驚いたように顔を上げ、少し戸惑いながらも答えてくれました。
「あ、えと……スズキサエコです」
そこから、わたしたちの距離は少しずつ、けれど確実に縮まっていきました。そしてついに、休みの日に二人で南千住へ出かける約束を取り付けたのです。
わたしが練りに練ったデートコースは、いささか風変わりなものでした。南千住駅から吉原の風俗街を抜け、ドヤ街として知られる山谷を回って帰ってくるというプランです。
普通の女の子なら嫌がる場所かもしれない。けれど、わたしはどこかで「社会の裏側」を見せることで、彼女の好奇心を刺激できるのではないか、物珍しさで喜んでくれるのではないかと考えていたのです。
しかし、吉原の街に入ると、サエちゃんは目に見えて口数が減り、表情を曇らせました。
「これは……やってしまったか」
冷や汗が流れるのを感じましたが、足を進めて山谷のエリアに入ると、彼女の反応に変化が現れました。彼女はムッとした表情を解き、興味深そうに周囲を観察し始めたのです。
「あれ、なんですかね?」
彼女が指差したのは、百五十円の「玉子弁当」を求めて並ぶ長い行列でした。
「あー、あれは教会じゃないかな。ほら、あそこに十字架が見えるでしょう。きっとボランティアだよ」
剥き出しの「生」が転がっているこの街の景色が、彼女の琴線に触れたようでした。路地裏で見つけた百三十円のあんみつに目を輝かせた彼女のために、わたしは二人前を買い、彼女の手に持たせました。その時、彼女が見せた柔らかな微笑み。
その日を境に、サエちゃんはわたしの「彼女」になりました。
二度目のデートは、彼女のリクエストで松戸新田のラーメン屋へ。着飾らない彼女との時間は、わたしの心を穏やかに満たしてくれました。
やがて、わたしが諸事情によりA型就労を退職することになったとき、サエちゃんと、親友のワタさんは自分のことのように喜んでくれました。
「お祝いだよ、根岸さん!」
今日はラーメン、明日は南アフリカ料理、昨日はケバブ。
松戸の街の片隅で、仲間に囲まれて過ごす宴の日々。八万円の月給では到底賄いきれないような贅沢でしたが、わたしは今、確かに誰かと繋がり、愛されているという確信の中にいました。
この幸福が、いつまでも続くものだと信じて疑わなかった。
わたしの内側で、次の「大騒ぎ」の種が静かに芽吹いていることにも気づかずに。
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