幕間の序
ご飯を食べていたら突然、彼女が嘔吐した。
なんてことのない普通の夜だった。付き合って三、四ヶ月程経った頃か、いつもの様に僕の家で、ゲームをして、録画していたドラマを見ながら晩飯を食べていただけだった。何か会話の流れに隆起があった訳でもなく、寧ろその日はお互い珍しく和気藹々とした雰囲気で過ごしていた筈だった。
だから彼女は嘔吐したのだと言ったけれど。
ゲェゲェと出前を取った弁当を、容器の中に吐き戻している彼女を僕は呆然と見つめていた。流石にどう反応すればいいのか咄嗟に分からなかったのだ。
一頻り吐き終えた彼女は、ごめんなさい、ごめんなさいと、それこそ壊れた蓄音機という比喩が相応しい様相で繰り返し呟いていた。
「自分が排泄することが耐えられないの。いつからかわからないけど、耐えられなくなって、ご飯が食べられなくなって、それでも人といたらなんとか食べられたんだけど、君といると、なんだか……すごく……安心して……安心しすぎて……今日は……特に安心しすぎて……」
嗚咽まじりにそう零した彼女は、悲壮感を湛えた涙で目を赤く腫らしていた。
僕はその時、彼女の病的に細い体と小学生程しかない体重の理由を初めて知った。
彼女は心を病んでいた。
僕は以前から彼女が服薬治療を行っている事を知っていたし、薬でラリって記憶を飛ばした彼女からのLINEも何度か受けていたから、彼女の精神疾患自体は知っていたが、目の前で実際にそういった症状の発作的な物を見た事はなかった。
だから咄嗟の事態に対応出来ず、何も言えなかった。
何も言わなかったのが、彼女に取っては逆に良かったらしい。
「君だけだよ、こんなわたしを、慰めたがったり、支えたがったり、口先だけで理解しようとしたがったりせずに、スルーしてくれるの……
わたし、ずっとそんな人を探してたの……」
実際僕は混乱していたのだが、妙な所でポーカーフェイスなのが幸いしたのか、内心の動揺を悟られなかった為、彼女は自分に都合の良いように解釈してくれたらしい。
僕は取り敢えず彼女の好感度が下がらなかったのを僥倖として、そのまま一人食事を続けた。
彼女は綺麗に自分の吐瀉物全てを零さず容器に吐き戻していたので、蓋を閉めてビニール袋をキツく縛って、ゴミ箱に棄てた。
青い顔をして戻って来た彼女は、
「ご飯中にごめんね」
とか細く笑いながらまた謝った。
「もらいゲロしなかったからセーフ」
僕はその日の穏やかな空気を壊したくなくて、和やかな声音で返した。
その日から少しずつ、彼女が僕の前で見せる醜態が酷くなっていった。
寝る前、眠剤を飲まなければ眠れないとオーバードーズをして奇行に走る。
自分でも制御出来ない感情の起伏で突然泣き出す。
頭を冷やすと言って自分からコップの水を頭にぶちまける。
別れ話もしていないのに見捨てないでと縋り付いてくる。
僕はそんな彼女の言動の尽くを、全てスルーした。
そうする事で彼女は心が楽になる様だった。
彼女が楽になるならと、僕は彼女が発狂しても放っておいた。彼女が僕の家を汚す時にだけ怒って、止めて、他は放置してゲームをしたり、友人とチャットをしたり、彼女などいないものの様に振舞った。
彼女は自分でもどうしようもない自分の症状を曝け出して、哀れまれたり、理解出来ない癖に解った様な口をきかれるよりも、徹底して無視される方が余程気持ちが楽になるらしかった。受け容れられている、と感じているらしい。誰にも理解され得ぬ、一人で抱え込むには重荷が過ぎる自分自身を。
沈黙は金なり、とでもいうのか。違う気もするが、彼女に取ってはそれが最善の対応だった。
だから僕は彼女にその対応を貫いた。
彼女が何を言おうが、何をしようが、決して関わり合いにならないと。
彼女はその情緒不安定さ故に、誰かに依存していなければ生きてはいけない性格で、僕に依存し、僕を失う事を異常に怯懦していたが、それと同じくらいに、僕も彼女を失う事を嫌悪していた。
彼女が僕に向ける感情が最早恋愛ではなく依存であると知っても尚、僕は彼女への恋慕の情を、どうしようもなく捨てられなかった。
歪な関係がハッピーエンドに結ばれる未来など描けなかった。
それはお互いわかっていた筈だ。
いつだったか、彼女が知り合いだとかいう占い師に僕との関係を占って貰った時に言われたそうだ。
「貴女と彼とは魂が同じレベルでシンクロしているの。考えている事が何もかも同じレベルで。人生の内、こんな相手と出逢える人はそういないわ」
同じ事を考えているなら、わかるだろう。
僕らが長く共に居る事が、互いに取って良くない事くらい。
僕は彼女を早く手放すべきだったし、彼女は早く僕から独立すべきだった。
それが出来なかったから、きっと、彼女は死んだのだろう。
寝覚めが、悪い。
ここ暫く床で寝ているせいか。しかも同衾相手が幽霊ときた。これでは悪夢も待ったナシだ。金縛りにかからないだけまだマシだろうか。
そろそろ彼女の懇願を振り切ってソファに寝所を戻すべきか。
痛む体の節々をバキボキと鳴らしていると、愛猫が擦り寄ってくる。こちらの体を労わってくれている、という訳では無い。撫でろという命令の体現だ。
片手で枕元の髪の毛を掻き集めつつ、空いたもう片方の手で愛猫の全身をわしゃわしゃと乱雑に撫で摩ってやる。少々手荒なくらいの力加減がコイツには丁度良い。満足気に喉を鳴らす様は愛らしい。
猫というのは的確に人間を操る術を心得ている。猫の媚態に人は抗う術を持たないのである。どれだけ眠くとも、猫が擦り寄って来るとご機嫌をとるために撫でてやる。ごろごろと喉を鳴らしながら満面の喜悦を浮かべながら甘えてくる姿に、僕は手を休めることが出来なくなる。
ポコンとLINEの着信音が鳴る。
猫を撫でながら片手で画面を確認すれば、やはり彼女からだった。
ーー可愛い。
ーー羨ましいか?
ーーうらやましい〜
私の分もいっぱい撫でててあげてね。
語尾に泣き顔の絵文字を添えたメッセージは、愛猫家の彼女らしいものだった。
そういえば、彼女も猫を飼っていた筈だ。
彼女は、遺してきた猫に未練や罪悪感等抱かなかったのだろうか。
猫が死んだら自分も死ぬとまで宣っていた彼女が、愛猫を遺して死を選んだ。その心境は如何なものだったのだろうか。
降って湧いた好奇心に駆られて、僕は彼女に残酷な問いを投げた。
ーー君の可愛がっていた猫は、いいのか?
数分、いや十分程だろうか。彼女からの返信が途絶えた。既読はついたままに。
触れてはいけない繊細な部分を無神経な手で暴いてしまった罪悪感がじわじわと押し寄せてくる。
彼女からの返信を待つ間、僕の心がジリジリと焦げ付いていく。
だが返ってきた答えはあっさりとした、けれど僕の心を満たすものだった。
ーー君を選んだんだよ。それだけのことさ。
その言葉は僕の薄暗く、醜い独占欲を容易く飽和させるに充分だった。
彼女の言葉に充足感を覚えながら、僕は再び眠りに就いた。
その後の夢見は爽やかなものだった。
死んだ彼女からLINEが来た 七月神取 @Chidyo
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