生聖回帰4

水族館に行きたいと、彼女が突然言い出した。

夜勤明けの唐突な提案に、眠い頭で適当に了承の旨を返した所までは覚えている。

起きた頃にはすっかり忘れていたので、彼女から催促のLINEが来ても当初全く思い出せなかった。


ーー早く早く、起きてー!

もう夕方!

水族館閉まっちゃう!


ーあー…


暫くぼーっと猫を撫でながら、入眠前のLINEを漁る。

確かに、今日は休みなので大丈夫だとの返答を返していた。

断って彼女に食い下がられるのも面倒臭いほどに眠かったので了承してしまったのだろう。

数時間前のものぐさな自分を恨みつつ、一度頷いてしまったものはしょうがないと諦念に流され支度を始める。体制に移行する為、手近にあった煙草を引き寄せて火をつける。

深く、息を吸い込み、肺腑の奥まで染み込んだニコチンとタールが眠気を払う。

じっくりと一服を味わっている間、忙しなく彼女から催促のLINEがひっきりなしに続いた。

既読スルーをかまして、体が漸く起きる体勢になった所でシャワーへ向かう。基本的に、外出前にシャワーを浴びるのが習慣だ。

5分ほどでシャワーを終え、髪もろくすっぽ乾かさないまま外出用の服に着替え、彼女と自分の分の携帯を鞄に突っ込んで、再び体が睡魔に脅かされる前に家を出た。


水族館など録に訪れた事の無い自分には新鮮というよりも、早速人の多さに辟易してしまったというのが正直な感想だった。

人間はなんでこんなに多いんだ。

人混みを嫌う僕には、水族館の周辺に群がる数多の人、人、人、それだけで帰還意欲をそそるには充分だった。

平日にただ魚介類を見る為だけに何故こんなにも人が集まるのか、僕には理解不能だった。

彼女は結構な頻度で通っていたらしいので、着く前から楽しみだというLINEが耐えない。

僕は時折襲いくる睡魔をやり過ごしながら、入館チケットを購入する。

その際暫時、戸惑うことがあった。

一人分か、二人分購入する事である。

僕はお世辞にも優等生とは言えない性根をしているが、妙な所で生真面目な部分がある。

例えばどれ程安価なチェーン店でも店員に敬意を払うだとか、コンビニでも商品を買う際に謝辞を欠かさないだとか。クレーマーの蔓延る世の中で僕は礼儀正しい部類に入るらしい。

僕の中では金を払って従業員にサービスを提供されているのだから、それに対して経緯を払うのは当然の行いだと認識している。

だから今回も、例え幽霊といえど実質デートに当たるのだから、二人分のチケットを購入する事が必然のように思えたのだ。

彼女は実体のない自分に金を払わせることに躊躇いがあったようだが、結局僕は券売機の前で逡巡した後、二人分のチケットを購入した。


ーー別にいいのに。


ーー仕方ないだろ。そもそも、デートしたいって言い出したのは君だろ。


ーーだからってさぁ…


ーーいいじゃないか。そっちの方がデートしてるって実感が持てる。


数分間、彼女からの返信はなかった。

やっと返ったのは


ーーばか。


簡潔な一文だった。


彼女の分のチケットを財布に収納して、自分のチケットを改札に通して入館する。

水族館なんて初体験の僕は右も左もわからぬままとりあえず順路に沿って進む。

閉館まで四時間を切っているというのに、彼女は至る所で立ち止まっては写真撮影を要求した。

当然、彼女のスマホでだ。

彼女はイルカだとかアザラシだとかジンベイザメをスルーして、水面を撮りたいと言って、魚介類が通り過ぎた後の水面を撮影する事に必死だった。

そこそこ広い水族館で一周するのに一時間では足らないというのに、彼女は一箇所で二、三十分は留まってシャッターを切ることを要求する。

平日の夕方とはいえそこそこ人の入りも多い水族館で、何もない水槽に向かってスマホを構え続ける男はさぞかし奇矯に映った事だろう。

僕には海産物の展示会にしか思えない場所で、その肝心要の展示物がいない陳列場所に一体どんな魅力があるのかまるで理解が及ばなかったが、彼女は執拗に水面に拘り続けた。


ーー光の差し込む水底がきれいなの。水泡がキラキラして、なんていうか、星空を眺めてるみたいで。


ーーじゃあ星空見るなりプラネタリウム行くなりした方がよくないか?


ーーそういうとこがわかってないんだよ〜


理解するつもりはないが、僕は彼女が求めるまま、彼女の指示に従ってシャッターを切る。

閉館まで二時間を切った水族館はナイトモードなるものへ移行し、館内の照明が暗く落とされた。

彼女はこの時間が好きらしくはしゃいでいる。

水槽のライトが映えて一層水面が美しく映るのだとか。

確かに僅かな光源を水槽のライトに頼るしかないシチュエーションは、ロマンチックであるかもしれない。学生と思しきカップルが手を繋いで分厚いガラス越しの海へ魅入っている様を通りすがりに見掛ける。今更にここがデートスポットとして有名だった事を思い出した。

仄暗い通路を、水槽が照らす標に倣って進んで行く。

閉館まで時間がないので彼女も撮影のペースをあげていっていた。

大水槽と呼ばれるこの館の名物に辿り着いた時、彼女は音楽が聴きたいと言った。


ーーイヤホン持ってる?


ーーある。


ーーじゃあiTunes開いて。


ーーなんて曲?


ーーアクアテラリウム


僕は彼女のスマホにイヤホンを刺して、曲名を検索する。どうやら彼女は未だにLINE以外自分のスマホをまともに操作出来ないらしく、音楽でさえも僕に任せっきりになるのだ。

一緒に聴きたいと言いながら、イヤホンを付けているのは僕だけだ。

目当ての曲は見つかったが、果たして彼女も聴けるのだろうか。

疑問に思いつつ曲を再生する。

透き通る女性のボーカルが美しいメロディで歌を紡ぐ。どうやら海と、それにまつわる恋のうた、の様だ。


ーーこれ聴きながら眺めるのが好きだったんだ。


ーー聴こえてる?


ーーうん。聴こえてる。


感受性欠如気味の僕にその浪漫は理解出来なかったが、それよりも彼女が確かにこのスマホに宿っているのだと再認識出来た事実が僥倖だった。

少し甘さを孕んだコーラスを分かち合いながら、僕らは二人で大水槽に泳ぐ彩どりの生物の舞を眺めていた。



帰路、彼女はいつになく上機嫌、の様に見受けられた。LINEの返信スピードが速いし、彼女にしては珍しく顔文字や絵文字も使っていたからだ。


ーー機嫌いいな。


ーーだって、こういうデートらしいデートって初めてじゃない。

ずっと君の家にこもりっきりだったからさ。


確かに、生前僕らの付き合いは簡素なものだった。

彼女が僕の家に来て、ゲームをして、映画を見て、たまに近所を散歩して、眠くなったら寝て。たったそれだけだ。

二人で連れ立って何処かへ、そう、今日の様なデートスポットに出向くなんて事はまずしなかった。

彼女は度々出掛けたそうにしていたが、僕が面倒臭がって引きこもっていたからだ。

友人とバイクでツーリングして小旅行に出掛けたりはあったが、彼女はバイクも車も免許を持っていなかったので、彼女と遠出する気にはならなかったのだ。僕は出掛けるならバイク以外の交通手段を好まなかったから、彼女が望む場所へ行く為に電車を使うのは億劫で仕方なかったし、彼女を後ろに乗せて走るのも自分のペースが乱されるみたいで嫌だった。

思い返せばえらく自分本位な彼氏だなと自嘲する。

誕生日もバレンタインもクリスマスも、どんなイベント事であっても僕らは特別な過ごし方をしなかった。

ただダラダラと、家でお互い好きに食べて寝て仕事前に別れる、それだけだった。


ーー君が夜勤明けにこんなとこまで付き合ってくれると思わなかった。


ーーまあ、今日は休みだしな。


ーーそれにしても、なんか、君さ

死んでからの方がわがまま聞いてくれるようになったよね。


彼女の言葉に、息が止まった。

脊髄にズドンと重たい鉛が落とされた様な錯覚に陥る。

一瞬、歩みも止まったが、直ぐになんてことない風を取り繕って呼吸と動きを再開する。

彼女の言葉にショックを受けている自分を、僕は受け入れたくなかった。

それは、彼女の死に対してどこかで負い目を感じている自分を認めたくなかったからだ。

僕は、彼女の死から逃げている。

そんな事実を飲み込める程僕は人間が出来ていない。


ーー甘やかしすぎたかな。


ーーえー


ーーもうわがまま聞いてやらない。


ーー……なんか、怒ってる?


ーー怒ってないよ。ただ疲れただけ。夜勤明けに人混みに揉まれるために遠出してきて。


ーーごめんね。


ーー……謝らなくていいよ。


僕の暗い気持ちを察したのか、途端に彼女も気弱な対応になる。

それまでと打って変わってお互い気不味い空気を滞空させながら、電車に揺られる。

僕は彼女のスマホをポケットに仕舞いながら、水族館のあの暗い通路を思い出していた。遮蔽物で光の届かない、真っ暗な路を。早く明るい場所へ行ければ良いのに、

光は遠い、遥かに。

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