第6話 奥様付の侍女
落ち着いた設えの邸宅内は、静かな気配に満ちていた。
窓や手すりは言うに及ばず、品良く置かれている小さな装飾品にいたるまで、まるで今日のために整えられたかのように磨き上げられていた。
伯爵家の足りない人手では、ここまでのことはできない。改めて、侯爵家のすごさが身に沁みてしまう。
だから、驚かないつもりだった。
――無理だった。
通された部屋は、私の想像をはるかに超えていたのだ。
天井は高く、床には、柔らかく足を受け止める重厚な絨毯。
派手さはないのに、すべてが上質で、どこにも気負いがない。
壁には落ち着いた色合いの織物が掛けられている。
窓辺には夕暮れの光を透かすレースのカーテン。
早くも灯された燭台が、静かに室内を照らしていた。
『ここが、私のお部屋!』
そう思った瞬間、胸の奥が、ざわついてしまう。
『王命の結婚相手だからよね…… でも、こんなに立派なお部屋なんて』
立ち尽くしていると、背後から控えめな声がかかる。
「長旅、お疲れさまでございます」
振り返ると、年の頃は私より少し上だろうか。淡い灰色の侍女服を纏った女性が、静かに一礼していた。
仕立ての良さは一目でわかるが、装飾は最小限。
姿勢も、声も、動きもすべてが整っている。
「私は、リディア・フェルゼンと申します。本日より、奥様付きの侍女を務めさせていただきます」
――奥様付き。
その言葉に、心臓が小さく音を立てた。
「私に、付いてくださるのですか?」
「はい」
迷いのない即答だった。
それが当然だと言わんばかりに。
「ありがとうございます。あの……エレーナ・ヴァルツと申します」
反射的に頭を下げると、リディアはそれ以上に深く礼をした。
「侍女でございますので、お気遣いは無用に願います」
慌てて顔を上げると、彼女は小さく微笑み、今のやり取りをなかったことにしてくれた。
「まずはお召し替えを、と申し上げたいところですが、長旅でございましたから、湯浴みの用意が整っております」
そう言って、彼女は隣室の扉を開いた。
続きになった部屋。
その奥に、さらに広い空間が広がっている。
「湯上がりにお召しになるドレスを、先にお選びください」
導かれるまま、足を踏み入れた。
「ここは、いったい?」
「奥様の衣装部屋でございます」
思わず息を呑む。
整然と並ぶドレスの数々。
色も形も上品で、どれもが丁寧に仕立てられている。
「このお部屋が全部、私の?」
「はい。お館様のご指示です」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「無理をさせるな、とも申されております」
侯爵閣下が、私のことを、そんなふうに。
一体、何が待っているのだろう。
期待よりも、不安が先に立つ。
けれども、ドレスを選んだことなどない。
どれを選べば良いの?
どれほど上質で、美しいドレスも、場違いなものを選んでしまえば、お怒りを受けるか、あるいは失望されるかもしれない。
ドレスを選べずにいると、リディアが静かに声をかけてきた。
「よろしければ、今夜に相応しいものを、こちらで選ばせていただいても?」
「お願いします」
そうして私は、湯浴みの部屋へと案内された。
広々とした浴室。
湯気の向こうに、柔らかな香りが漂っている。
メイド姿をした女性たちに身を委ねるだけで、髪も身体も丁寧に洗われる。
不思議と、緊張はなかった。
背中や手足に残る傷跡に、ほんの一瞬、視線が留まった気配があった。
けれど誰も、何も言わない。
それだけで、救われた気がした。
湯に身を沈めると、しばらく一人にしてもらえた。
温かさと香りに満ちた、豊かな時間だった。
『私だけのための、時間だ』
湯上がりには、温かいハーブティーが用意されていた。
選択を迫られない、控えめな心遣い。
全身を整えられ、椅子に座る。
鏡に映る自分は、見慣れないほど落ち着いていた。
リディアの手つきは慣れていて、けれど驚くほど優しい。
髪を整え、化粧を施しながら、決して急かさない。
「化粧は、あまり慣れてなくて」
ウソだ。慣れてないんじゃない。したことが……することを、許されてなかった。
「慣れていらっしゃらなくても、大丈夫です」
「そう、ですか」
「美しさは慣れではありません。奥様は、すでにお美しいのですから」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
やがて、最後の留め具が整えられる。
「奥様。これで完成です」
恐る恐る、鏡を見る。
そこに映っていたのは、確かに私だった。
けれど、私の知らない「私」でもあった。
背筋が伸び、顔色が整い、
長い間、俯いていた人間の姿は、そこにはなかった。
「……驚かれましたか?」
私は、小さく頷く。
リディアは、ほんのわずか目を細めた。
「お美しいです」
その瞬間、扉がノックされた。
「お食事の準備が整いました」
胸の奥が、静かに高鳴る。
これから何が待っているのかは、まだわからない。
けれど――
少なくとも、ここは私を傷つける場所ではない。
そう思えたまま、 私は、初めて「奥様」として、部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
作者より
第6話は、派手な出来事はありませんが、
エレーナにとって大きな転換点の回です。
静かな時間を一緒に感じていただけたら嬉しいです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次の更新予定
2026年1月11日 21:00
身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています 新川さとし @s_satosi
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