第4話 歌えない理由、歌いたい理由

 

 逃亡劇の終わりはあっけないものだった。


 山道を抜けた先、街へとつながる橋の上で、パトカーが出口を塞ぐように並んでいた。大木は手を上げながら車を降り、そのまま手錠をかけられた。


「大木さん!」


 大木に近寄ろうとする青木を、次いでやって来た両親が押さえつけた。


「陽ッ!」


 もがく青木と対照的に、大木はもはや何の抵抗もしなかった。それは、このまま逃げたところで、状況が良くなることはないと分かっていたからだった。


「らしくないよ大木さん!あんた本当はもっとめちゃくちゃじゃないかッ!私はー」


 その言葉を、大木が目で制した。

 そしてー大木を睨みつける青木の両親に、深々と頭を下げる。


「この度は、大変なご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。」


 青木は驚愕した。それは、普段の彼の姿からは想像もできないほどー毒牙を抜かれたような、穏やかな姿だった。


「……許してもらおうとでも思ってるんですか?こんな事をしておいて⁉」


 母親の甲高い声に、陽が顔をしかめる。


「もちろん、そんな事は思っておりません。……ただ、一つだけ、お願いがあります」

「……歌う事を、娘さんに続けさせてやってください」


 大木の声は震えていた。大木はこれから静かな部屋に閉じ込められ、おそらく地球が終わるその時まで青木の声を聴く事ができなくなる。


「娘さんの歌声には、力があります。人の心を震わせる力が、人の心に寄り添う力が。娘さんの歌を待っている人が沢山います。だからどうか……」

「―あなたに何が分かるんだ⁉」


 叫んだのは父親だった。話を遮られ、大木が目を丸くする。


「才能がある⁉待っている人がいる⁉そんなのあんたらの都合だろ⁉」「この子はね、―歌なんて嫌いなんだよッ!」


 話は終わったか、と言わんばかりに警察官が腕に力を籠めた。大木はそれを振り払おうとするも、抵抗空しく、地面に押し付けられる。


「―そんなはずないだろッ!だったら何であんなところで一人で歌ってたんだ!歌いたかったからだろ⁉誰かに届けたかったからだろ⁉」


 大木は青木の顔を見た。青木が小さく俯く。


「帰ろう、陽。みんなで家に帰って、美味しいご飯を食べよう。」


 過ぎ去っていく青木家の背中を、大木はただ歯軋りをして睨みつける事しかできなかった。



     ◇◇


 私は歌う事が好きな子供だった。


 両親によると、テレビで子供番組のテーマを流しては四六時中歌っていたらしい。私自身はそれほど鮮明に覚えてはいないのだが、うっすらとした記憶の中に、歌って踊る私を微笑ましそうに見つめている父と母の顔が浮かぶ。


 そしてそれは、小学校に上がってからも同じだった。授業中静かに座っているのが苦手で、一人で歌い出しては先生に怒られ、廊下に立たされていた。その度に泣いて家まで帰って、母親が慰めてくれた事をよく覚えている。


 転機が訪れたのは、小学四年生の合唱コンクールだった。


 当時の私は、頭をからっぽにして歌を歌うのが好きだった。音程も、リズムも、歌詞すらも深く考えずに歌うと、体が何とも言えない充実感に包まれて、とても幸せだった。―だからこそ、周りの生徒と足並みをそろえて歌う事が私はどうしても苦手だった。


「陽ちゃんは、歌が下手なんだから、もっと小さな声で歌ってよ!」


 合唱の練習中に、クラスの委員長がそう言って泣き出した。その子は市の合唱団の女の子で、小学校の誰よりも歌うのが上手だった。だからこそ、「下手くそ」という事実が疑いようもない真実として、周りの生徒に、先生に、―そして私自身に刻まれた。


 母はひどくこれに憤慨した。学校にも乗り込んでいったようで、私達のクラスを指導していた担任教師を怒鳴りつけて泣かせた。以降先生たちは腫れ物を触るような目で私を取り扱った。


 しかし、最早私は歌う事が怖くなってしまっていた。


 自分を幸せにしてくれたものが、自分の生きる意味だとさえ思っていたものが、完膚なきまでに否定される。それは、人にとっては「生きるな」と言われている事と等しい。


―そしてそこから私は、一度も歌を歌わず、高校生になった。



    ◇◇



「おはよう、陽。」


 目が覚めると、見慣れた天井が目に入った。子供の頃から住んでいる一軒家。リビングでは、父親と母親が朝食を食べていた。


 二人に促され、青木は食卓についた。目玉焼きとベーコン、サラダ、そしてパンと牛乳。そういえば2か月もの間ろくな朝食を取っていなかったことに今更気付く。それほどまでに、大木との生活は多忙を極めていた。


「陽、今日の夜何食べたい?何でも作ってあげるわよ」


 母親と父親は、機嫌を伺うように私の顔を覗き込んでいた。

 ―この人たちは、私を愛してくれている。私のために本気で怒ってくれるし、話を聞いてくれる。私もこの人たちの事を愛している。


―だからこそ、それが私には重い。

 

「……すき焼きが食べたい」


 そう言うと、二人は大喜びした。食材を買ってくるから、休んでいなさいと言われ、青木は部屋に戻った。ベッドに仰向けになってスマホを開き、青木は日課になっていたエゴサーチを始める。


「【悲報】大木克洋、未成年を連れ回して無事刑務所にブチ込まれる」

「知 っ て た」

「裁判とかするんか?やるだけ無駄やろ」

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 青木はもはや怒る気力もなかった。窓の外を見ると、以前は夜しか隕石が見えなかったが、今では昼間でもくっきりとその姿が見える。今更ながら、本当に世界が終わるんだということを実感した。


「――だったら、親孝行しなきゃね」


 青木がスマホの画面を閉じようとした、その時だった。

 

 一つだけ、青木のアカウントにDMが届いていた。


「誰……?」


 画像を開くと、健やかに眠っている赤子の隣にーー満面の笑みを浮かべた小雪が映っていた。


【予定日より随分早く生まれてきてくれました。この子も陽ちゃんの歌、聴きたかったのかな?】


 青木は気づけば涙を流していた。

 必死に腕でぬぐうが、涙は止まってくれない。スマホの画面に大粒の涙が落ち、画面が揺れる。大きな嗚咽を抑え込むように、青木は枕で口を塞いだ。

 

 ―私は、歌う事が好きだった。


 小学四年生の合唱コンクールが終わった後、私は家に帰って、今みたいに枕に向かって泣きながら歌った。中学に入っても、高校に入っても、毎晩毎晩同じことを続けた。

 それは、誰もいない暗闇に、音の届かない闇夜に、ひたすら言葉を吐き続ける、ただの自傷行為だった。


「……陽」


 気づけば、母親と父親が部屋の前に立っていた。この一か月で、私は大きな声で歌う事を、声を届かせる事を覚え、―そしてそれが今、親にも伝わったようだった。


「……嬉しかったの。」

「私の歌が、誰かに届いたことが。この暗闇には、私以外誰もいないと思っていたけど、でも、確かにつながれた。確かに届いたの。あの時、あの時……」


 大木と巡った数々のライブ会場、小雪と出会った仙台駅前、そしてー大木に見つけてもらった吉祥寺駅前。その一つ一つ、観客一人一人の顔が鮮明に浮かんでくる。


「歌いたい……歌を」


 青木は涙で腫れあがった顔で、笑いながら両親を見た。親の顔は良く見えなかったが、やがて二人は青木を強く抱きしめた。


「ごめんね、陽。気づいてあげられなくて、ごめんね……」




 ―せめてこの人達の、歌を聴いてくれた人達の、残り短い人生が喜びで溢れるように。陽は、二人の背中を強く抱きしめた。


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