最終話:更新
修繕終了の通知は、思ったよりあっさり届いた。
《社宅修繕完了予定:本日 18:00》
《仮住居利用期限:本日中》
それだけだった。
帰宅すると、リビングに三崎がいた。
テーブルの上には、あの契約書。
三枚。
角が少し擦れている。
「……終わりましたね」
感情を、意図的に消した声。
「ああ」
「この部屋も、今日で最後です」
そう言って、彼女は契約書を手に取った。
「更新しない、ですよね」
疑問ではなく、手続きだった。
「合理的に考えれば、ここまでです」
赤ペンを持つ指が、紙の上で止まる。
「水漏れは解消されましたし、
同居の前提条件も消えました」
契約書が、折られそうになる。
その前に。
「待って」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
彼女の手が止まる。
「……手続きに不備が?」
「いや」
一歩だけ、距離を詰める。
「確認したい」
彼女は顔を上げた。
逃げない。期待もしない。
「この契約書」
赤ペンを取る。
「破る前に、更新できる?」
「……更新理由は?」
即答の、法務の声。
「前提条件の変更です」
「どの前提ですか」
一拍。
「恋愛関係」
空気が、わずかに揺れた。
「含まれない、って書いてある」
その一文をなぞる。
「これを、訂正したい」
「……理由は?」
「勝手に期待しないための前提。
もう、守れてない」
沈黙。
「それは、申告ですか」
「そう」
「感情の?」
「はい」
彼女は、短く息を吐いた。
「……厄介ですね」
「知ってる」
それでも、契約書を引き寄せる。
《恋愛関係:本契約には含まれない》
二重線。
下に、書き足す。
《恋愛関係:本契約に含まれる》
《ただし、双方の合意を前提とする》
「……確認します」
少しの間のあと、
「合意します」
その声は、もう仕事用じゃなかった。
俺は、手を差し出す。
「触れても、いいですか」
一瞬、目を伏せてから。
「……合意します」
指先が、重なる。
握らない。
引き寄せない。
でも、離れない。
「更新期限は?」
「無期限で」
「……合理的ではありませんね」
「知ってる」
それでも、彼女は手を引かなかった。
その夜、契約書は破られなかった。
代わりに、赤ペンで何度も書き直された。
――同意事項は、更新された。
ようやく。
同意事項に含まれていなかった。 深山 紗夜 @yorunosumi
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