不用意な発言
雨は、思ったより早く上がった。
「乾燥機、使ってもいいですか」
「どうぞ」
それだけのやり取りなのに、声が少し近い。
湯気の残る髪を、彼女は無意識に指で払う。
その仕草から、思わず視線を逸らした。
――見ると、次が分からなくなる。
「さっきの洗濯物」
三崎が口を開く。
「取り込んでくれて、ありがとうございました」
「……生活上、必要だっただけだ」
言い訳みたいになった。
彼女は一瞬、何か言いかけて、やめる。
「そうですね」
その返事が、少しだけ遅い。
乾燥機の音が、低く響く。
沈黙が、ゆっくり膨らむ。
三崎は、タオルを外して畳んだ。
その動きが終わった瞬間、ふっと距離が縮まる。
……近すぎる。
「……理人さん」
呼ばれて、目が合う。
理屈じゃない何かが、ここにはあった。
「今の距離、」
言いかけて、止まる。
俺は一歩も、前に出なかった。
出られなかった。
契約書の文字が、頭をよぎる。
――身体的接触:合意のないものは禁止。
「……違反ですか」
彼女が、冗談めかして言う。
違う。
これは冗談じゃない。
「……判断に迷う」
正直にそう答えると、三崎は、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方は、見たことがないくらい弱々しかった。
「ですよね」
彼女は、一歩引いた。
「今日は、ここまでにしましょう」
何が、とは言わない。
「……ああ」
乾燥機の終了音が鳴る。
彼女は洗濯物を取り出しながら、背中越しに言った。
「契約書、破らなくてよかったです」
それが安堵なのか、失望なのか、俺には判断できなかった。
その夜、ひとりで契約書を読み返した。
どこにも、“触れたくなった場合”の条文はなかった。
♢
朝のエレベーターは、静かだった。
出社時間を少しずらしたはずなのに、同じタイミングだったらしい。
三崎は、俺の一歩後ろに立っている。
「……おはようございます」
「おはよう」
それだけで、昨日の夜がよぎった。
「……昨日」
三崎が、ほんの少しだけ声を落とした。
「助かりました」
「洗濯?」
「それもですけど」
それだけ言って、彼女は言葉を切る。
エレベーターの鏡越しに、視線が合う。
一瞬だけ、彼女の肩が俺の腕に触れた。
本当に、偶然。
「……疲れてます?」
俺がそう聞くと、三崎は少しだけ眉を下げた。
「……少し」
たった一言なのに、昨日よりずっと近い。
「無理するなよ」
自分でも驚くくらい、柔らかい声だった。
三崎は、少し目を見開いてから、すぐに視線を逸らした。
「ありがとうございます」
その言い方が、上司に向けるものじゃない気がして、心臓が煩い。
扉が開いた瞬間、空気が切り替わる。
「おはようございます」
背後から、同僚の声。
「あ、おはよう」
俺は、いつもの調子で返した。
「井口さん、今日の資料、確認しました?」
「あとで見る。……ああ、三崎と共有しておいて」
何の気なしに言った。
「一緒に住んでるから、家でも確認できるし」
直後、一拍遅れて気づく。
しまった、と思った時には遅かった。
一瞬、周囲の空気が止まる。
「……一緒に?」
誰かが、小さく声を漏らす。
三崎は、何も言わなかった。
否定も、肯定もしない。
ただ、ゆっくりと一歩、俺から距離を取った。
「業務上の共有は、問題ありません」
淡々とした声。
さっきまでの少し甘い声とは、まるで別人だった。
「私的な件は、業務に含まれませんので」
それだけ言って、彼女は先に歩き出す。
背中が、やけに遠い。
「……あ」
俺は、“生活上の配慮”と“不用意な発言”の区別が、いつの間にかつかなくなっていた。
エレベーターの開閉音が、やけに大きく響いた。
その日、三崎は一度も、俺を名前で呼ばなかった。
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