どこがだよ。



三崎が帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。


玄関の鍵が回る音で目が覚める。


「……起きてたんですか」


「今、起きた」


それだけの会話。


彼女は淡々と靴を脱ぎ、キッチンへ向かう。


その後ろ姿が、なぜか今日に限って目を逸らせなかった。


髪は下ろしたまま。会社で見るより、ずっと無防備な格好。


――だめだ。


そう思った瞬間、身体が先に動いた。


声をかけるでもなく、触れるでもなく、ただ一歩、距離を詰めただけ。


それだけで、契約書の文言が頭に浮かぶ。


《身体的接触:合意のないものは禁止》


俺は、足を止めた。


「……どうしました?」


三崎が振り返る。


何も気づいていないというような顔。


「いや」


それ以上、近づけなかった。


自分が今、何をしようとしたのかが分かってしまって。


「今日、飲み会だったんですよね」


「ああ」


「お疲れさまです」


それだけ言って、彼女は冷蔵庫を開ける。


何もなかったように。


心臓が、じわじわと痛くなった。


――最悪だ。


契約を破りかけたのは、俺だ。

彼女は、何もしていない。


「……三崎」


名前を呼びかけて、やめた。


言えば、全部が崩れる。



その夜、俺はほとんど眠れなかった。



腕の端末が、静かに点灯する。


幸福指数:安定


どこがだよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る