必要ないので



その飲み会は、突発的に決まった。


「今日いけますよね、井口さん」


企画部の後輩が、軽い調子で言う。


断る理由もなかった。

――少なくとも、契約上は。



店に入ると、すでに何人か集まっていた。

空調の効いた個室、ビールの泡、

仕事用のテンション。


ほどなくして、法務の面子も合流する。


その中に、三崎がいた。


「こんばんは」


「……どうも」


目が合う。

それだけ。


席は自然に、少し離れた位置になった。


誰かが言う。


「三崎さんって、プライベート謎ですよね」


「分かる。仕事できすぎて逆に怖い」


笑いが起きる。


彼女は、曖昧に笑った。


「普通ですよ」


その声は、会社仕様。


「彼氏とかいるんですか?」


少し無遠慮な質問。


俺は、無意識にグラスを持つ手を止めた。


「いません」


即答だった。


「意外ですね」


数人が目を見開いた。



「……必要ないので」


淡々とした言い方。


その瞬間、胸の奥で、何かが小さく鳴った。


必要ない。

それは、契約書に書いてあった言葉だ。


《恋愛関係:本契約には含まれない》


誰かが、俺に視線を向ける。


「井口さんは?」


「え?」


「彼女とか」


「あー、」


言葉を選んでいる間に、三崎が先に口を開いた。


「井口さん、仕事優先ですよ」


にこり、と笑う。冗談として、完璧。


「そうそう、そういうタイプ」


周囲が納得する。


俺は、曖昧に笑った。


「まあ……」


そのあと、三崎の隣に、別の男が座った。


法務の外部顧問。

年上で、落ち着いた雰囲気。


自然に会話が弾んでいる。


契約の話。

制度の話。

共通言語。


合理的で、正しい距離感。


――ああ、なるほど。


胸の奥の重さの正体が、輪郭を持った。


これは、嫉妬か。


とはいえ、それを表に出す権利はない。


交友関係に口出ししない。

契約書、第三条。



飲み会が終わり、駅前で解散する流れになる。


「三崎さん、同じ方向ですよね」


顧問の男が彼女に声をかける。


「はい」


一瞬、三崎の視線が、俺を掠めた。


何か言うかと思ったが、何も言わなかった。


俺も、何も言えなかった。



帰り道、腕の端末が軽く振動する。



幸福指数:安定


……安定、ね。



部屋に戻ると、電気は当然消えていた。


三崎は、まだ帰っていない。


キッチンの引き出しを、なぜか開けてしまう。


あの日、彼女が仕舞った契約書は、きれいに整えられたまま、一度も開かれていない。


俺は、初めて思った。


――この契約、誰のためのものだったんだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る