安心感
朝のエレベーターで、三崎と並んだ。
距離は、昨日と変わらない。
腕一本分。
それ以上でも以下でもない。
「おはようございます」
「おはよう」
声の温度も、普段どおり。
――昨日の夜のことは、なかったことにされている。
会社に着くと、三崎は先に降りた。
歩幅も一定で、振り返りもしない。
法務部のフロアに消えていく背中を見送りながら、俺は自分のデスクに向かった。
午前中の業務は、特に問題なく進んだ。
数字も、進捗も、安定。
昼前、企画部と法務の合同ミーティングが入る。
会議室に入ると、三崎はすでに席についていた。
仕事の顔だ。
無駄な表情がなく、資料を整える指先だけが正確に動いている。
「本日の議題は、こちらです」
淡々とした声。
同居人でも、昨夜ソファで寝落ちしていた人でもない。
完全に、法務の三崎風夏。
資料の説明が進む。
俺は途中で、ある条文に引っかかった。
「ここ、少し厳しくないですか」
そう言うと、三崎は迷いなく答えた。
「想定内です」
「現場が動きづらくなります」
間髪入れずに返される。
「リスクを減らすなら、これ以上は譲れません」
会議室が、急に静かになる。
誰かが、空気を読んで笑った。
「さすが法務だな」
「安心感あるよね」
褒め言葉のはずなのに、なぜか胸の奥が、きしっと鳴った。
「……分かりました」
俺はそれ以上、食い下がらなかった。
結論は、彼女の案どおりに通った。
合理的で、誰も傷つかない判断。
会議が終わり、資料を片付けながら、ふと思う。
――昨日の夜も、こうだった。
触れない。
踏み込まない。
最適解だけを選ぶ。
廊下で、彼女を見つけた。
「三崎」
彼女は立ち止まり、振り返る。
「何か?」
「……いや」
言いかけて、やめた。
会社では、同居の事実は内密。
契約書にも、そう書いてある。
「業務上の質問なら、後ほどまとめてください」
きっちりした声。
一切、私情が混じらない。
「分かった」
そう答えながら、俺は一歩だけ距離を詰めた。
「昨日の件だけど」
彼女の瞳が揺れた。
ほんの一瞬。
見逃したら分からない程度。
「……業務外の話は」
「分かってる。今はしない」
その言葉に、三崎は安堵の息を吐いた。
「助かります」
そう言って、また距離を戻す。
完璧な対応。
昼休み、ふと端末を見る。
幸福指数、微動だにしていない。
安定。
数値を眺めながら、昨夜の毛布の重さを思い出していた。
あれは、業務外。
でも、生活の一部。
どちらにも分類できない感情が、静かに溜まっていく。
このまま進めば、いずれ何かが引っかかる。
それが規約違反なのか、契約に書かれていない“何か”なのか。
まだ、分からなかった。
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