定義上は、グレー
風呂上がりにキッチンへ行くと、三崎がいた。
濡れた髪を雑にまとめ、冷蔵庫の前で立っている。
部屋着は、露出が多いわけでもない。
ただ、仕事中の彼女と同一人物だとは思えないだけだ。
「牛乳、切れてますね」
こちらに背を向けたままぽそりと言う声は、いつも通り落ち着いている。
「明日買う」
「了解です」
…その言い方が、もう契約書っぽい。
彼女はコップに水を注ぎ、シンクに肘をついた。
そのとき、指先がかすかに触れた。
一瞬。
本当に、偶然の範囲だった。
俺は、反射的に手を引く。
「すみません」
彼女のほうが、先に言った。
「今の、不可抗力でした」
「……不可抗力なら、いいのか?」
「定義上はグレーですね」
そう言って、三崎は少しだけ口元を緩めた。
笑った。
その事実に、思考が一瞬遅れる。
「……契約書、ちゃんと読んでる?」
「読んでませんよ」
あっさりと言われた。
「え?」
「作ったのは私ですし。大枠は把握してます」
「大枠って……」
「必要なところだけです」
彼女はコップを持ったまま、俺を見た。
「破るつもりはありませんから」
その言い方が、守る宣言なのか、線引きなのか、
判断がつかない。
「……じゃあ、あの書類は何のために?」
少し間を置いて、彼女は答えた。
「確認用です」
「何を?」
「お互いが、どこまで勝手な期待しないかを」
静かな声だった。
でも、刺さる。
「期待しても、いいと思った?」
そう聞くと、彼女は一瞬考えてから言った。
「今は、まだ」
その「まだ」が、妙に具体的だった。
彼女はコップを洗い、引き出しに戻した。
例の棚だ。
「おやすみなさい」
そう言って部屋に戻る背中を見送りながら、俺は一人、キッチンに立ち尽くした。
契約書を破りたいと思ったのは、この時が初めてだった。
同時に、彼女がそれを許さない理由も、なんとなく分かってしまった。
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