同意事項に含まれていなかった。
深山 紗夜
Prologue
彼女は、同居初日に契約書を差し出してきた。
「これ、確認してください」
A4用紙三枚分の書類だった。
生活費、私的領域、禁止事項、責任の所在。
見慣れた言葉が、箇条書きで並んでいる。
——やけに用意がいい。
水漏れで下の階の部屋が使えなくなり、一時的に空いていたこの社宅に移る。
そのはずだった。
「更新制って……」
思わず、声に出していた。
「期間未定だと、後々揉めるので」
彼女は淡々と答え、ペンを差し出す。
職場で見るよりも、ずっと事務的な顔だった。
彼女は、俺の部下だ。
少なくとも、会社では。
書類に目を落とし、違和感を拾い上げていく。
生活費:折半
私的領域:各自の部屋は立ち入り禁止
身体的接触:合意のないものは禁止
——まあ、分かる。
ページをめくり、最後の項目で指が止まった。
恋愛関係:本契約には含まれない
その一文を読んだ瞬間、俺は少しだけ安心して、そして、少し傷ついた。
「……ここまで、必要か?」
無意識に漏れた言葉に、彼女は一度視線を上げた。
「必要です」
即答だった。
「同居と交際は、全く別なので」
そう言って彼女はキッチンの引き出しを開け、すでに印刷されていた控えの束を収めた。
「念のため言っておきますけど」
靴を脱ぎながら、彼女は続ける。
「これは、拒絶ではありません」
「……じゃあ、何だ?」
「前提の整理です」
前提。
その言葉が、胸に引っかかった。
同居は始まったばかりだ。
冷蔵庫は半分空で、洗面台の使い方もまだ決まっていない。
それなのに、俺たちはもう“同意事項”だけを共有していた。
彼女は契約書を読み返すことなく、引き出しを閉めた。
それが、この生活で最初に覚えた不安だった。
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