第10話【失う物はなにもない】
今は、帰りの車の中。
圭吾の気持ちは、重く沈んでいた。
そんな圭吾に、
「ちょっと、なんであんたが落ち込んでるの?」
桜田が、いつもの調子で話しかけた。
「俺って……あの男と同じくらい、クズで、性格が最悪だって思って……」
圭吾は、かすれた声でそう漏らす。
すると――
「え? いま? いま気づいたの?」
桜田は呆れたように言い、
「前から最悪だって、教えてたでしょ」
慰めるどころか、さらに傷口に塩を塗るような言葉を返した。
今の圭吾には、その言葉に反抗する気力すらなかった。
ハンドルを握ったまま項垂れる圭吾に、
「でも、あんたは、あの男よりはまだマシだと思うよ」
桜田が、一応フォローに入る。
「どこがですか?」
「気づいたところよ。自分の性格が悪いって」
慰めになっているのかどうかわからない言葉を口にしながら、桜田は圭吾の肩をポンと叩いた。
圭吾はそこで、
「そういえば……あの男に、仕返ししないんですか?」
と、桜田に尋ねる。
すると――
「しないよ」
即答だった。
「悔しくないんですか?」
「だって……相手にするだけ時間の無駄でしょ。 それに、これから先、関わる気もないし、生活の邪魔をされてるわけでもないから、仕返しなんてしないわよ」
その言葉に、圭吾はハッとする。
――幸が、俺に仕返しをしたのは……
――俺が、幸にしつこくつきまとったからだった。
就職を邪魔し、住む場所さえ奪った。
――だから、幸は……
穏やかで、気遣いのできる幸が、圭吾に対して攻撃的になったのは、それだけ彼女の生活を圭吾が脅かしていたからだった。
桜田と関わることで、あの時の幸の行動が、そしてその気持ちが、圭吾には少しずつ理解できるようになっていった。
「私のことはいいとして……黒田くんは、彼女に、早く謝ったほうがいいんじゃない?」
桜田の言葉に、圭吾は思わず聞き返す。
「えっ……彼女って……」
「幸、だったっけ?」
桜田は淡々と続けた。
「熱でうなされてたとき、“悪かった”って、何度も謝ってたわよ。よほど、悪いことしたのね。夢の中でも、あんなふうに謝るなんて」
――謝ってたのか……幸に……
圭吾は、ぽつりと口を開いた。
「実は俺……彼女には、もう会えないんです」
その瞳は、深く、暗く沈んでいた。
「どうして、会えないの?」
桜田が問い返す。
「彼女は、もう結婚してるだろうし……それに、俺、かなり嫌われてるから……」
――謝りたくても、もう、その機会すら、俺には残されていない。
「そうなんだ……」
桜田は少し間を置いてから、淡々と続けた。
「嫌われてるなら、会わないほうがいいわね。彼女も、会いたくないはずだから」
それは、正論だった。
感情を排した、ごく当然の意見だった。
けれど、その言葉は、圭吾の胸の奥を、容赦なく抉った。
「でも、彼女に直接謝れなくても……人を通して謝ることはできるんじゃない?
誰かいないの? 彼女と近しい人」
桜田のその言葉を聞いた瞬間、圭吾の脳裏に、ひとりの人物が浮かぶ。
それは――
弟の、圭太だった。
彼なら、幸に伝言を届けることができるかもしれない。
けれど――
圭吾は、圭太に対しても、決して胸を張れるような兄ではなかった。
圭太は、圭吾よりも多くの才能に恵まれていた。
そのことが、圭吾にとっては恐怖だった。
いつか、自分は弟に追い抜かれてしまうのではないか。
祖父の太郎も、圭太の才能を知れば、圭太を溺愛するのではないか。
そんな不安から、圭吾は圭太の邪魔をした。
今になって思えば、あまりにも幼稚な考えだった。
才能のある人間は、いくら妨害されようと、いずれその力を認められ、公の場に引きずり出される。
どれだけ足掻いたところで、追い抜かれるのは時間の問題だったのだ。
そして現実は、その通りになった。
圭吾は社長の座を追われ、代わりに圭太が社長となった。
その圭太に、謝罪し、幸への伝言を頼むしかない。
圭吾は、そう決めた。
「……弟の圭太に、頼んでみます」
そう口にした声は、驚くほど落ち着いていた。
桜田と関わる中で、圭吾のプライドは、すでに粉々に砕け散っていた。
見栄も、虚勢も、取り繕う余裕も、もう残っていない。
圭吾には、もはや失うものなど、何ひとつなかった。
今さら、誇示するものもない。
守るべき立場も、体面もない。
だからこそ――。
これまでのすべてを、きちんと謝ろう。
そして、もう一度、一からやり直そう。
圭吾は、そう心の中で呟いた。
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