第8話【嫌な男】
次の週。
圭吾のマイカー・黒のメルセデス・ベンツのトランクに、本社へ持っていく荷物が次々と積み込まれた。
「ほら、早く運転して」
桜田は助手席に腰を下ろし、慣れた手つきでシートベルトを締めながら、当然のように言う。
運転席に座った圭吾は、ハンドルに手を置いたまま、どこか釈然としない表情を浮かべる。
その様子を一瞥し、
「ガソリン代は会社持ちなんだから、いいでしょ。ほら、さっさとエンジンかけなさいよ」
桜田は何の迷いもなく言い放った。
圭吾は小さくため息をつき、
「……了解です」
とだけ答えて、エンジンをかける。
低く静かなエンジン音が響き、車はゆっくりと走り出した。
支社を離れ、幹線道路に出ると、
「本社に、何しに行くんですか?」
圭吾は前方に視線を向けたまま、口を開いた。
「書類を届けに行くのと、本社に戻るのを断りに行くのよ」
桜田は、包み隠すことなく答える。
「えっ……戻るって……本社で働いてたのか!?」
思わず驚きの声が出る。
「なに、そのため口」
桜田は即座に言い返す。
「“働いていたんですか?”でしょ」
ぴしゃりと訂正され、圭吾は慌てて、
「す、すみません……」
と謝る。
桜田は小さく鼻を鳴らし、
「……まぁ、いいわ。そうよ。本社で働いてたわ」
とだけ答えた。
それ以上は語ろうとせず、桜田は窓の外へと視線を移した。
その表情は、明らかに憂鬱そうだ。
聞いてはいけないと思いながらも、圭吾は口を開く。
「どうして、本社に戻らないんですか? 戻った方が便利でしょ。あんな辺鄙なところより」
その言葉には、圭吾自身の本音も混じっていた。
「どうしてって……本社には、顔も見たくないほど、嫌な男がいるからよ」
桜田は吐き捨てるように言った。
――嫌な男……
その言葉が、圭吾の胸に重く引っかかる。
「その男は、どんな男なんですか?」
圭吾が尋ねたが、桜田は窓の外に視線を向けたまま、その問いには答えなかった。
沈黙が続く。
話しかけづらい雰囲気に、圭吾も押し黙った。
そうこうしているうちに、本社へと到着した。
「その荷物は、二階の営業部と三階の総務部に届けてね。私は四階に用事があるから。終わったら、このビルの隣にある一階の喫茶店で待ち合わせしましょう」
桜田はそう言い残すと、持ってきた荷物をすべて圭吾に任せ、一人でビルの中へと入っていった。
一人、地下駐車場に取り残された圭吾は、
――なんて、人使いが荒いんだ……。
心の中で毒づきながら、荷物を一つずつ運び始める。
すべて運び終えた圭吾は、一階のロビーへ向かおうと、エレベーターに乗り込んだ。
すると、同じく乗り合わせていた女性社員たちの会話が、自然と耳に入ってくる。
「さっき、桜田さんを見かけたんだけど……あの人、本社に戻ってくるのかな?」
「いや、戻ってこないんじゃない?」
「だよね。だって……木下さんも、もうすぐあの社長令嬢と結婚するみたいだし……」
「二股疑惑のとき、桜田さんは自分のほうが木下さんの彼女だって言い張ってたけど、どう見ても木下さんの態度、本命の彼女に対する扱いじゃなかったよね」
「まあ、木下さんってイケメンだし。ちょっと優しくされて、彼女になったつもりでいたのかもしれないし」
「どうなんだろうね。最初の頃は、本当に仲のいい同僚だったみたいだし……もしかしたら、本当に付き合ってたのかもしれないよ」
「本当のところは、わからないよね」
エレベーターが一階に到着し、女性社員たちは、そのまま降りていった。
一人残された圭吾は、静まり返った箱の中で、しばらく動けずにいた。
桜田が、本社に戻りたくない理由。
それを、こんな形で知ってしまうとは思っていなかった。
そして、噂の中で語られる男と桜田の関係が、かつての自分と幸の姿と重なり、圭吾の胸は、ずしりと重く沈み、なんとも言えない気持ちになった。
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