第4話【鍋の温もり】
作業が終わり、皆に温かい食べ物が振る舞われた。
おかかのおにぎりと、梅のおにぎり。
そして、湯気の立つ豚汁。
体を動かした後だからだろうか。
「……美味しい」
思わず、圭吾の口から言葉がこぼれた。
「美味いだろ。仕事終わりに食べる飯が、一番美味いんだ」
隣に腰を下ろした年配の男性が、そう声をかけてくる。
「ほら、もっと食え」
そう言って、大根の漬物まで差し出された。
圭吾は勧められるまま、その漬物を口に運ぶ。
「……美味しい」
漬物など、庶民の食べ物だと見下し、これまで自分から口にしたことはほとんどなかった。
だが、実際に食べてみると、驚くほど美味しかった。
ここへ来てから、まともな食事を取っていなかったせいなのか。
それとも、皆と一緒に食べているからなのか。
あるいは、体を動かした後だからだろうか。
理由は分からない。
だが、今日口にしたものは、どれも不思議なほど美味しく感じられた。
そして、その味は――
どこか懐かしかった。
――ああ、そうか。
――幸が、出してくれたおつゆの味に似ている。
圭吾は、幸が作ってくれた食事のことを思い出していた。
自分の好みを把握した料理が、いつも当たり前のようにテーブルに並んでいた。
彩りもよく、味も申し分なかった。
圭吾が「美味しい」と一言口にするだけで、幸はいつも嬉しそうに微笑んでいた。
思い出すほどに、胸が締めつけられる。
当たり前だと思っていたことが、実は当たり前などではなかったのだと、今になって思い知らされている。
一人暮らしをするようになって、圭吾はそれを痛感していた。
とくに、この辺鄙な場所では、外食ひとつするのも容易ではない。
スーパーがある場所まで行くにも、車で一時間以上走らなければならない。
近くにあるのは、小さな飲み屋が一軒あるだけで、食堂など影も形もない。
生活に必要なものは、小さな商店でどうにか揃えるしかなかった。
圭吾がぼんやりと物思いにふけっていると、
「これ、持って帰りなさい。一人暮らしだと、食べるもんに困るでしょ」
中年の女性が、おにぎり三個と豚汁の入った鍋を差し出してきた。
「橋本さん、甘やかしすぎよ」
桜田がそう言うと、
「私は、桜田さんと違ってイケメンに甘いのよ」
そう言って、橋本は「ふふっ」と楽しそうに笑ってみせた。
差し出された鍋とおにぎりを前に、圭吾は一瞬、言葉を失った。
――どうして、こんなによくしてくれるんだ。
――今の俺は、ただの平社員だぞ。
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。
「ほら、どうぞ」
圭吾が遠慮していると思ったのか、橋本が受け取るように促した。
その言葉に背中を押されるように、圭吾の胸の奥にじんわりとした熱が広がり、息がうまく吸えなくなる。
そして――
「ありがとうございます」
ただそれだけの言葉が、なぜかうまく出てこなかった。
そのとき、圭吾ははっとする。
――ありがとう……なんて言葉。
――いつから口にしていなかっただろうか。
その事実に気づいた圭吾は、
「……ありがとう、ございます……」
かすれるような小さな声で呟き、鍋とおにぎりを受け取った。
そして、小さく頭を下げる。
それを見た橋本は、深く気にする様子もなく、
「若いもんは、ちゃんと食べなきゃね。明日も仕事、頑張るんだよ」
と、サバサバした口調でそう言った。
その何気ない言葉が、圭吾の胸に深く染み込んだ。
小さい頃からちやほやされて育ってきた圭吾は、毎日のように周囲から気を配られることが当たり前だった。
食事も、言葉も、好意も――与えられて当然のものだと、疑いもせずに受け取ってきた。
だからこそ、それに特別な感情を抱くこともなかった。
けれど――
すべてを失った今、誰も圭吾を持ち上げてはくれない。
ちやほやされることもない。
それどころか、待っているのは、日々こき使われる現実だけだった。
そんな中で向けられた、たった一言の気遣い。
それが、これほどまでに心に響くものだとは、圭吾自身、思ってもみなかった。
圭吾は鍋の温もりを両手で感じながら、唇を噛みしめる。
冷たいはずの冬の空気の中で、胸の奥だけが、不思議と温かかった。
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