第6話 退却しました。
「おーい、織田軍の援軍じゃ!こら加勢せんかい!」
柴田勝家の怒声が戦場に響き渡る。血まみれの谷間で、援軍が駆けつける音が遠くから聞こえる。
「鉄砲隊、後ろから支えんぞー!まだ生きとるやつ、しっかりせえ!」
木下藤吉郎(秀吉)が尾張弁で叫ぶ。泥と血でぐちゃぐちゃになった足軽たちが必死に列を整える。
「はなてぇー!」
ぱんぱん!ぱんぱん!ぱんぱん!
雑賀党の鉄砲隊が再び弾丸の雨を降らせる。
「うおお、えげつない威力じゃのぉ…!」
驚く犬千代。鉄砲隊の連射が武田騎馬隊を一瞬だけ食い止める。
しかし、武田側もただでは倒れん。
「よし……騎馬隊、後退だ!」
山本勘助が叫ぶ。騎馬隊が一瞬退き、影武者と合わせた挟み撃ちの態勢に入る。
「ぐわぁああああ!」
突撃した徳川・織田の兵士たちが、左右から襲いかかる武田騎馬隊に次々と倒れる。槍に刺され、馬に踏まれ、絶叫と共に谷間に血が流れ込む。
「どえりゃあ、まだまだ死にきらんやつがおるわ…!」
尾張弁で柴田勝家が吠える。槍を振るう手も血で滑る。
「信玄様、敵の生き残りがこちらに向かっとるぞ!」
長野弁で報告する武田兵。
武田信玄は鋼の軍配を握り、冷ややかに視線を送る。
「勘助、谷の裏手からも追い込め。生き残りは容赦せん!」
影武者が敵の背後に回り込み、混乱はさらに深まる。援軍の織田軍も、泥と血の谷間で見分けがつかず、自軍同士で衝突する始末。
「ぎゃー、こっちの仲間がこっち刺されとる!」
で叫ぶ尾張兵。血が槍や刀から噴き出し、仲間の上に滴る。
夜が近づき、谷間の血は黒く光る。援軍が到着しても、影武者と騎馬隊、啄木鳥戦法の連携で、撤退は容易には進まない。血まみれの兵士たちが呻きながら逃げる姿は、谷全体を絶望で染めていた。
「くそっ、ここまでか…!」
前田犬千代が呻く。
「まだ引き際じゃ、尾張の奴ら!」
柴田勝家も疲労と恐怖で声が震える。
戦場は混乱し、援軍も完全には戦線を立て直せず、長篠の谷は血と泥の海と化していた。夜が明ける前に撤退する織田・徳川の軍勢、しかし武田軍は冷静に整列し、騎馬隊でさらに追撃の準備を整えている。
織田・徳川連合軍が十五キロも退いた頃、夜霧が戦場を覆い始めた。
その時だった。
「……今じゃ」
武田信玄の低い声。
隣に控える山本勘助が、うなずく。
「へえ。影、放ちますずら」
影武者攪乱戦法、発動。
霧の中から、次々と声が上がる。
「信玄様はこっちだ!」
「いや違う、あそこにおるぞ!」
「武田信玄、討ち取ったりぃ!」
尾張弁と三河弁が入り混じった叫びの中に、不自然に多い“信玄”の名。
「おい待て!どれが本物だで!?」
「知らんがや!兜も軍配も同じだがね!」
織田軍の足軽たちは完全に判断を失う。
その隙を突くように、今度は後方から悲鳴。
「敵だ!後ろから来とる!」
「味方じゃなかったんか!?」
忍びが徳川兵の鎧を着て斬り込み、
織田兵の中に紛れた影武者が、指揮官だけを狙って倒す。
「殿がやられたぞ!」
「誰が殿だ!? ここに三人おるぞ!」
指揮系統は完全に崩壊。
一方その頃、武田本陣。
「人は“見たいもの”を見るだ」
信玄は静かに言う。
「信玄が出たと聞きゃ、皆そっちを見る。
影を信じて、本体を疑わん」
勘助が続ける。
「敵は今、自分らで自分らを斬っとりますずら。
夜と霧と疑心これ以上の武器はありゃせん」
戦場では。
「おい!撃つな!それ味方だがや!」
「嘘つけ!さっきワシを裏切った!」
鉄砲は撃てず、槍は向きが定まらず、
怒号と恐怖だけが広がる。
「もうええ!引けぇー!」
「どっちに引くんだで!?」
逃げる方向すら分からず、兵は散り散りになる。
霧の向こう、遠くでまた声がする。
「武田信玄、ここにあり!」
それを聞いた織田兵が叫ぶ。
「まだおるのか……何人おるんだがや……」
その声には、もはや戦意はなかった。
影は消え、武田軍は深追いせず、静かに陣を整える。
信玄は軍配を下ろし、一言。
「今宵はこれで十分だ」
夜の戦場には、疑いと恐怖だけが残った。
___________________
【
戦場に多数の忍者を紛れこませ。嘘の情報を流し敵を錯乱させる方法。
敵兵になりすまし相手の兵を殺すことで混乱をさらに増長させる。
また武田信玄には多数の影武者(偽物)がいて、敵を惑わせた。
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