第3話
「ギチ、ギチギチッ……!」
暗闇の奥から響くその音は、硬い何かを噛み砕く音だった。
一馬が懐中電灯を向けると、そこには体長一メートルはあろうかという巨大なネズミがいた。泥にまみれた剛毛と、赤く光る三つの目。ダンジョン省の教科書で見た『スカベンジャー・ラット』だ。
「……っ!」
喉の奥がヒュッと鳴る。
女性の探索者なら、初級の身体強化スキル一発で蹴り殺す雑魚モンスター。しかし、魔力を持たず、国家の保護費で細々と生きてきた一馬にとっては、それは死の化身に等しかった。
『警告:対象の推定筋力は個体「佐藤一馬」の約4.5倍です。正面からの接触は致命傷に直結します』
ナビゲートの無慈悲な声が頭に響く。
ネズミが一馬の存在を捉えた。赤い目がギラリと光り、地面を蹴る。
「来る……! 【作業台】、展開!」
一馬は叫ぶように念じた。
視界に光の幾何学模様が広がり、一馬の周囲数メートルが特殊な領域――「作業領域」へと変貌する。
彼は夢中で周囲のものを領域内に引き込んだ。アパートから持ってきた十徳ナイフ、足元の鋭利な岩の破片、そしてダンジョンの入り口付近に落ちていた乾燥した硬い蔦(つた)。
『クラフト項目:即席の「バネ式杭打ち罠」を選択。構成を開始します』
作業台のスキルは、一馬の手を強制的に動かした。
十徳ナイフのメインブレードを軸に、岩の破片を蔦で縛り上げる。ただ縛るのではない。蔦の繊維を魔力で一時的に硬質化させ、バネのような反発力を持たせるのだ。
「ギィヤァァ!」
ネズミが跳躍する。
一馬は咄嗟に横へ転がった。しかし、運動神経の差は歴然だ。ネズミの鋭い爪が一馬の右肩をかすめ、安物のシャツごと肉を削ぎ落とした。
「あぐっ……!」
熱い。焼けるような激痛が走り、鮮血が床を汚す。
これが、ダンジョンの現実。女たちが日常的に向き合い、男が遠ざけられてきた「暴力」の正体。
一馬は痛みに意識を飛ばしそうになりながらも、完成したばかりの罠を、自分が転がった先の通路に設置した。
「こっっ…こっちだぁ……!」
あえて声を出し、自分を餌にする。
着地したネズミが再び低い姿勢から突進してくる。その足が、一馬が設置した「歪な蔦の塊」を踏み抜いた。
――ビキィッ!
硬質化していた蔦のバネが一気に解放される。
バネの先に固定された十徳ナイフと鋭利な石の破片が、ネズミの柔らかい腹部を下から突き上げた。
「ギ、ギャアアアアッ!?」
断末魔の叫び。
しかし、ネズミは即死しなかった。狂乱した怪物は、悶え苦しみながらも一馬に飛びかかり、その鋭い前歯で彼の左腕を深く噛み砕いた。
「が、は……っ、離せ!」
一馬は必死に右拳でネズミの目を殴りつける。
何度も、何度も。
拳の皮が剥け、血が混じり合う。
数分にも感じられた数秒の後、ようやくネズミの身体から力が抜け、重い塊となって一馬の上にのしかかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ……」
静寂が戻る。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸音と、ポタポタと床に落ちる血の音だけだ。
一馬はネズミの死体をどかし、仰向けに倒れ込んだ。
全身が傷だらけだった。
右肩の裂傷、左腕の噛み跡、そして必死に抗った際に負った無数の打撲。
一馬は震える手で、自分のステータスを確認した。
【経験値獲得:レベル 1 → 1.05】
「……たった、これだけかよ」
乾いた笑いが漏れた。
普通の探索者なら一気にレベルが上がるはずの初戦闘。だが自分は、死ぬ思いをして、ようやく「5パーセント」分だけ、可能性の端に触れたに過ぎない。
もし、ここに平均的な女性探索者がいたら。
彼女たちは、スキルという神の祝福を受け、これほどの傷を負うこともなく、一瞬でこの獣を屠っていただろう。
男と女。保護される者と、支配する者。
その絶望的なまでの「力の差」を、一馬は傷だらけの体で、冷たいほど鮮明に理解した。
だが――。
「……でも、勝った。俺でも、殺せたんだ」
一馬は、血に汚れた十徳ナイフを見つめた。
ナビゲートが静かに告げる。
『【作業台】の習熟度が上昇しました。新しいレシピ「止血用の草粘土」が解放されました。周囲の苔と土を混合することで、作成可能です』
一馬は痛む体に鞭打ち、這いずるようにして近くの苔に手を伸ばした。
世界の王になりたいわけじゃない。誰かを見返したいわけでもない。
ただ、この痛みの先に、この「自分だけの場所」の奥に、何があるのかを知りたい。
その渇望だけが、ボロボロになった青年を突き動かしていた。
「鑑定……。このネズミから取れる素材、全部教えてくれ。一つも無駄にはしたくないんだ」
暗いダンジョンの片隅で、一馬の瞳に小さな、しかし決して消えない灯が宿った。
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