第3話 うまく終わる仕事
朝は、少しだけ晴れていた。
雲は多いが、雨の気配はない。
海の色も、昨日よりはいくらか明るい。
それだけで、ロビーの空気は軽くなる。
地方にある、田舎のホテルだ。
観光地と呼ぶには地味で、かといって何もないわけでもない。
島の端っこに、古びた建物が海に寄り添うように建っている。
都会のホテルなら、天気が悪くても客は地下の通路を歩く。
雨粒を見ずに、一日が終わる。
でもここは違う。
外の空気が、濡れたまま中に入ってくる。
濡れた傘の匂い。
足元の砂。
潮の味が混じった風。
客の機嫌も、外と一緒に入ってくる。
だから、フロントに立っていると分かる。
客の足取りで、その日の調子が分かる。
早足。
不機嫌。
荷物の扱いが雑。
そういう人が来る日は、だいたい“仕事として楽な日”になる。
皮肉だと思うけど、本当にそうだ。
感情を動かす必要がない。
必要なのは、正しい順番と、正しい言葉と、正しい距離。
それだけだ。
オレは、そういうことが得意だった。
*
午前中、ひとりの男性客がフロントに来た。
四十代半ばくらい。
スーツはきちんとしているが、ネクタイは少し緩んでいる。
島のホテルには、こういう客がときどき来る。
仕事で来ている。余裕がない。癒やされるためじゃなく、用事を済ませるために泊まっている人だ。
「すみません」
声は低く、抑え気味だった。
でも、その抑え方に覚えがある。
——クレームだ。
オレは自然に背筋を伸ばした。
頭の中のスイッチが切り替わる音がした。
それは緊張というより、整理整頓の音に近い。
「はい。いかがなさいましたか」
オレの声は、ほどよく丁寧で、ほどよく距離がある。
相手が“怒りを正当化できる場所”を用意する声。
男性は昨夜の部屋の設備のこと、説明された内容と違ったこと、朝食の時間が思っていたのと違ったことを、順番に話した。
声を荒げない。言葉も丁寧。
でも溜まっている。
溜まっているものを、きれいに並べてこちらに渡してくる。
——ああ、これは“ちゃんと聞けば終わるやつだ”。
オレはそう判断した。
途中で言い訳をしない。
相手の言葉を遮らない。
要点だけを頭の中で拾って、箱に入れていく。
(設備の不備)
(説明と実物の差)
(朝食時間の認識違い)
必要な謝罪の量。
必要な補填の量。
必要な確認の量。
計算する。
人の怒りを計算するなんて冷たいと思うかもしれない。
でも、こういう場面では計算できた方がいい。
こちらの気持ちをぶつければ、相手の気持ちもぶつかってくる。
結果は、島の湿気みたいに長引く。
話が一段落したところで、オレは言った。
「ご不便をおかけして申し訳ありません。
こちらの説明が不足しておりました」
男性は一瞬だけ目を伏せた。
それから肩の力が少し抜ける。
——効いている。
本当に必要なのは、謝罪でも補償でもなく、
「ちゃんと聞いてもらえた」という感覚だ。
「本来であれば、事前にお伝えすべき内容でした。
もし差し支えなければ、こちらで対応を取らせていただきます」
責任は認める。
でも、余計な情緒は乗せない。
相手の怒りに“乗らない”。
オレは用意された選択肢を提示する。
部屋の変更。追加のサービス。料金の調整。
このホテルでできる範囲で、できるだけ早く、できるだけきれいに。
男性は少し考えてから言った。
「……じゃあ、それでお願いします」
声に角がなくなっていた。
こちらの勝ちでも、相手の負けでもない。
ただ、“終わる”という形になった。
うまくいった。
何の引っかかりもなく、
何の余韻もなく。
*
男性がフロントを離れたあと、ロビーは元の静けさに戻った。
窓の外の海は穏やかで、朝の光が波の筋を薄く照らしている。
オレはカウンターの内側で、小さく息を吐く。
楽だった。
感情を動かさなくていい仕事は、本当に楽だ。
正解が分かっている。
終わり方も見えている。
終わったあとに、何も残らない。
——何も残らない。
その“残らなさ”が、今日のテーマだと、
オレはぼんやり思った。
昔からそうだった。
人よりちょっとだけ、頭の回転が速い。
人よりちょっとだけ、要領がいい。
小学生の頃、先生の話を聞いているふりをしながら、オレは大事なところだけを拾っていた。
全部聞かなくてもいい。
テストに出るところは、たぶんここ。
ノートを取るべき行は、ここ。
宿題もそうだ。
真面目に全部やる友達がいた。
オレは“必要なところだけ”をやった。
先生にバレない程度に。
いや、バレていたのかもしれない。
でも怒られなかった。
怒られないラインを選んでいたからだ。
中学の頃、部活で揉め事が起きた。
誰が悪いか、という話になる前に、オレは“落としどころ”を探していた。
正しさじゃなく、終わり方。
続け方。
それは人から見れば、
「賢い」とか「大人だ」とか、そういう言葉になる。
でも、オレの中ではずっと、
「面倒が嫌だった」だけだ。
こじれるのが嫌。
長引くのが嫌。
感情のぶつけ合いが嫌。
だから、最短距離を選ぶ。
この島の暮らしは、その性格に合っている。
狭い土地で、狭い人間関係で、揉めて得をする人はいない。
だから皆、なるべく揉めないように生きている。
オレも、その一員だ。
——そしてホテルの仕事は、それをさらに上手くさせる。
*
昼前、もう一件。
今度はクレームというほどのものじゃない。
むしろ“要望”に近かった。
ロビーに入ってきた女性客が、カウンターの前で立ち止まる。
五十代くらい。旅行鞄は小さい。島内に親戚でもいるような雰囲気だ。
「すみません、ちょっといいかしら」
「はい。いかがなさいましたか」
オレの声は、同じ温度で出る。
さっきと同じように、何の苦労もなく。
「この辺で、郵便局ってどこ?
急ぎで出したいものがあって」
それだけだ。
オレは頭の中で地図を開く。
島の道は、観光客には分かりにくい。
曲がるポイントと、目印の店と、信号の数を整理して渡すのが一番いい。
「郵便局でしたら、こちらから車で十分ほどです。
海沿いの道をまっすぐ進んでいただいて、二つ目の信号を左です」
説明しながら、紙に簡単な図を描く。
海、コンビニ、信号、橋。
絵が上手い必要はない。要点が伝わればいい。
女性客はそれを見て、ほっとした顔になる。
「助かったわ。ありがとう」
「いえ。お気をつけて」
それで終わりだ。
終わる。
あまりにも簡単に終わる。
“人の役に立った”はずなのに、心はほとんど動かない。
オレは思う。
こういう小さな対応を、一日で何回しているんだろう。
十回か、二十回か、もっとか。
そのたびに、
自分の中の“手触り”は薄くなる。
役に立つことが、
作業になっていく。
それが仕事だ。
そう言えば、それで済む。
でも、昨日の親子の顔が、また浮かぶ。
昨日は、
ゲームコーナーのメダルとラケットを渡しただけだった。
それでも、
何かが動いた気がした。
今日の郵便局の案内は、
完璧だったはずだ。
でも、何も残らない。
——何が違う?
答えは分かっている。
昨日は、正解が分からなかった。
今日は、正解が決まっていた。
オレは、決まっている正解が得意だ。
人よりちょっと頭が良くて、要領が良いから。
得意なことをしているときは、
自分がしていることを“感じにくい”。
呼吸と同じだ。
生きるために必要だけど、
いちいち感情を揺らしていたら、息が続かない。
*
昼休憩。
スタッフルームで、カップのコーヒーを飲む。
島のホテルのコーヒーは、
都会のカフェみたいな味はしない。
でも、嫌いじゃない。
苦い。少しだけ酸っぱい。
そういう“普通”が、ここには多い。
スマホが震える。
通知を見る。
離れて暮らす妻と子どもからの連絡は、今日はない。
ないだけで、胸のどこかが軽い。
そして、その軽さを、オレは少しだけ嫌う。
昔、オレは“連絡がない”ことを安全だと思っていた。
何も起きていない、という証拠みたいに思っていた。
でも、連絡がないのは、
何も起きていないんじゃなくて、
ただ“こちらに届いていない”だけのこともある。
オレは、妻と子どもの電話を切った夜を思い出す。
「今は無理だ」と、理由も言わずに。
折り返すつもりだった。
落ち着いたら話そうと思っていた。
そうやって、要領よく逃げた。
その逃げ方が、
今の自分をここまで連れてきたのかもしれない。
要領の良さは、
大きな事故を避けてくれる。
でも同時に、
大きな何かからも、遠ざける。
“ど真ん中”を踏まない生き方。
汚れないかわりに、温まらない。
コーヒーを飲み干して、オレは立ち上がる。
午後も、きっと“うまく終わる仕事”が続く。
*
午後、ロビーに日が差し込んできた。
窓の外の雲が、少しずつ流れている。
昨日と同じように、止まってはいない。
観光客が少し増える。
島内の道を聞かれる。
夕食の時間を確認される。
温泉の場所を聞かれる。
タオルの追加を頼まれる。
どれも、丁寧に答えれば終わる。
オレはそれを、丁寧に終わらせる。
言葉を整える。
相手が安心する位置に置く。
不安の芽を先に摘む。
揉めそうな空気を、柔らかく潰す。
そういうことができる自分を、
オレは誇りに思っていた時期もある。
でも今は、
誇りというより、
ただ“慣れ”がそこにある。
何かが起きないように、
何も起きないように、
毎日を整える。
島の暮らしも、ホテルの仕事も、
そういう営みの上にある。
だから、うまくいく日は、
うまくいきすぎて怖い。
「今日も何も起きなかった」
その言葉の裏側には、
「明日も何も起きないでくれ」という祈りがある。
祈りがあること自体が、
もう、何かが足りない証拠なのに。
*
夕方手前、朝の男性客が通りかかった。
目が合う。
相手が一瞬だけ止まり、軽く頭を下げる。
「さっきは、ありがとうございました」
「いえ。どうぞごゆっくりお過ごしください」
オレの声は、最後まで崩れない。
相手の顔色は落ち着いている。
うまく終わっている。
オレは、その背中がエレベーターに消えるのを見ながら思う。
——オレは、こういうふうに“終わらせる”のが得意だ。
得意であることは、
たぶん、悪いことじゃない。
でも、得意なことだけで生きていると、
苦手なことを置き去りにする。
苦手なことを置き去りにして、
どこかでまとめて返ってくる。
そんな気がしているのに、
今日もまた、うまく終わる。
田舎のホテルは、
都会みたいに派手なドラマは起きない。
起きないからこそ、
小さな歪みが目立つ。
目立つのに、見ないふりができてしまう。
それが、この島の静けさだ。
オレは、窓の外を見た。
雲は流れている。
海も、いつも通りそこにある。
今日という一日も、
いつも通り、終わっていく。
うまく終わる。
うまく終わってしまう。
それが、救いなのか、
怖さなのか。
オレには、まだ分からなかった。
私は、人よりちょっとだけ頭が良くて、人よりちょっとだけ要領がいいだけの、平均値の人生を生きる男です。 ダークロ @96teru
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