第2話 雨の日の約束
雨の音で目が覚めた。
窓を叩くというより、ずっと撫でられているみたいな雨だった。
強くはない。けれど途切れない。
海沿いの町の雨は、たいていこういう降り方をする。湿って、粘って、諦めさせる。
出勤の支度をしながら、オレは天気予報を思い出していた。
昨夜、テレビの端で「午前中は荒れるでしょう」と言っていた。
荒れる、の基準は曖昧だ。
でも桟橋に関してだけは、基準がはっきりしている。
危ない日は、使わない。
それが、このホテルのルールだった。
誰かが決めて、オレも守る。
当たり前の判断だ。
それでも、ときどき胸に引っかかる。
当たり前の判断が、誰かの楽しみを消すことがあるからだ。
雨の日のホテルは、音が少ない。
車の出入りが減る。外に出る人も減る。
その分、屋根を叩く音と、窓を流れる水の筋が、やけに目立つ。
フロントに立つと、ロビーはいつもより暗かった。
雨の日は、光が薄い。
床のタイルは磨かれているのに、鈍く沈んだ色をしている。
ソファの布地も、乾いた日より少しだけ重く見えた。
午前はチェックアウトの時間帯だ。
十時ぴったりに鍵を返して出ていく人もいれば、少し遅れて慌てて出ていく人もいる。
それが一段落した頃、ロビーは静かになる。
静かになったところに、雨の音が戻ってくる。
——今日は、その静けさが戻る前に、玄関が開いた。
*
午前十一時前。
チェックアウトの波が一段落した頃、玄関のドアが開いた。
小さな足音が、勢いよくロビーに入ってきて、すぐ止まる。
「……あ」
声が、落ちた。
雨で濡れた帽子を押さえながら、父親が後ろから入ってくる。
三十代後半くらい。背筋は伸びているが、少しだけ肩に力が入っている。
その横に母親。男の子より半歩後ろに立ち、場の様子を測るような目をしていた。
そして、男の子。
小学校に上がったばかりだろう。
その手には、小さな釣竿があった。
おもちゃじゃない。ちゃんとした、子ども用の竿だ。
視線の先には、ロビーの大きな窓。
その向こうに、灰色の海と、雨に揺れる桟橋の影が見えている。
父親が、息を吐いた。
「……やっぱり、ダメか」
誰に向けた言葉でもなかった。
判断が、声になってこぼれただけだった。
父親は一瞬、窓の外を見て、すぐ視線を落とす。
見続けると、諦めが遅くなるのを知っているみたいに。
男の子は、竿を握ったまま動かない。
握り方が少し強い。
それが、期待の強さみたいで、オレは目を逸らしそうになった。
父親がオレの前に来て、少し申し訳なさそうに言う。
「すみません。チェックイン、お願いできますか」
仕事用の声で、オレは応じた。
「申し訳ありません。チェックインは15時からとなっております。
それまでロビーでお待ちいただくことはできますが……」
父親は一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑した。
苦笑は、こちらへの気遣いというより、自分への諦めに近かった。
「ああ、ですよね。
……早めに着いて、時間まで釣りをするつもりだったんです」
その言い方が、胸に残った。
時間まで。
余白として残していた時間。
楽しみにしていた時間。
父親は、男の子の方を見る。
「今日は無理だな」
男の子の肩が、目に見えて落ちた。
泣かない。怒らない。
ただ、黙る。
その黙り方を見た瞬間、
オレは、別の光景を思い出してしまった。
離れて暮らす自分の家。
妻と子どもからの電話。
鳴っているのを見て、
「今は無理だ」と理由も言わずに切った夜。
折り返すつもりだった。
落ち着いたら話そうと思っていた。
そうしているうちに、
“今は無理”という言葉だけが積み重なっていった。
父親は、男の子に続けた。
「今日はな、危ない。
無理して怪我したら、楽しいどころじゃなくなる」
危ない、という言葉を先に置いた。
楽しみよりも前に、守るものを置いた言い方だった。
母親が、そっと男の子の背中に手を添える。
「まず中に入ろう。濡れちゃう」
男の子は、釣竿を握り直してから、
小さくうなずいた。
——分かっている。
分かったうえで、我慢している。
オレは少しだけ迷ってから、言った。
「もしよろしければ、
チェックインまでの時間、ゲームコーナーをご利用いただけます」
父親が顔を上げる。
「ゲーム……?」
「はい。メダルゲームのほかに、
卓球やビリヤードもあります」
男の子が、初めてこちらを見た。
釣竿はまだ手にある。
けれど、目だけが少し動いた。
「……卓球?」
母親が、少しだけ笑う。
その笑いは明るいというより、緊張をほぐすための笑いだった。
「やってみる?」
男の子は、釣竿をゆっくり下ろした。
「……うん」
その返事は、納得じゃない。
でも、拒否でもなかった。
オレはゲームコーナー用の案内札と、メダル、それからラケットのセットを用意する。
父親は受け取りながら、少し戸惑ったように頭を下げた。
「すみません……」
「いえ。雨の日は、よくありますから」
本当は、“よく”ではない。
でも、嘘でもなかった。
こういうときに差し出せるものがあるなら、差し出したい。
それが仕事なのか、勝手な気持ちなのか、オレにもまだ分からない。
*
ゲームコーナーから、卓球の音が聞こえてきた。
最初は、ぎこちない音だった。
ラケットが空を切る音。
台に当たらず、床を転がる球。
ピンポン球の軽さが、雨の日の静けさの中で妙に響いた。
父親が、何度も拾っている。
「ごめん、今のは」
「いいよ」
男の子の声は、まだ少し硬い。
しばらくして、
ぽん、ぽん、と軽い音が続くようになった。
卓球台を挟んで、
父親と男の子が向かい合っている。
母親は、少し離れた椅子に座って、
二人を見ていた。
その距離感で、オレには分かった。
——再婚だ。
言葉にしなくても、家族の形は仕草で見えてしまうことがある。
母親の視線は優しい。
でも、どこか「うまくいきますように」と祈っている目だった。
父親は、必死だった。
距離を縮めたい。
でも、近づきすぎて壊すのが怖い。
男の子は、気を遣っている。
勝ちすぎないように。
負けすぎないように。
釣りなら、同じ方向を向けた。
同じ海を見て、同じ時間を待てた。
でも今日は、それができない。
だから、向かい合う遊びをしている。
オレは、カウンター越しにそれを見ながら思った。
自分は、
守る判断をしたことがあっただろうか。
危ないから、無理だから、
そう言って立ち止まる代わりに、
ただ距離を取っただけじゃなかったか。
釣りなら、同じ方向を向いていられた。
海を見て、
浮きを見て、
言葉がなくても、時間は同じ速度で流れた。
隣に立っているだけでよかった。
視線を合わせなくても、
間に何も挟まなくても、
「一緒にいる」という形が成立する。
父親は、きっとその時間を想像していたのだと思う。
男の子の隣に立って、
同じ海を見て、
釣れるかどうか分からない何かを、並んで待つ時間を。
だからこそ、
今日それができないことを、
父親は誰よりも分かっていた。
卓球台を挟んだ瞬間、
二人は自然と向かい合う形になった。
逃げ場はなかった。
視線を外せば、すぐに気づかれる距離。
相手の表情も、呼吸も、
隠そうと思えば思うほど、露わになる距離だった。
父親は、ラケットを手にしたまま、
一瞬だけ動きを止めた。
どう振る舞えばいいのかを考えている顔だった。
男の子も、ラケットを握ったまま、
少しだけ身体を固くしている。
同じ方向を向く時間から、
向かい合う時間へ。
それは、
距離が縮まることでもあり、
同時に、逃げられなくなることでもあった。
しばらくの間、
球はうまく続かなかった。
父親のラケットは、
力が入りすぎて、
台の縁をかすめたり、
思ったより大きく弧を描いて空を切ったりした。
白い球が床を転がるたび、
父親はそれを拾いに行く。
「……ごめん」
反射的に出た声だった。
男の子は、少し間を置いてから言った。
「いいよ」
その言葉には、
まだ余裕がなかった。
気を遣っているのが、はっきり分かる声だった。
父親は、それを聞いて、
力を抜こうとした。
抜こうとして、
抜ききれない。
それでも、次の一球を打つ。
今度は、台に当たった。
音はまだ重い。
けれど、確かに当たった。
向かい合って過ごす時間は、
同じ方向を向いて過ごす時間より、
ずっと難しい。
でも、
球を拾い、
打ち返し、
また拾ううちに、
二人の間に、少しずつ“間”が生まれていった。
逃げ場のない距離が、
ほんの少しだけ、居場所に変わっていく。
ラリーが二回、三回と続いたとき、
男の子の口元がわずかに緩んだ。
父親が、それに気づいたのかどうか分からない。
でも、次の一球のフォームが少しだけ小さくなった。
勝つためじゃなく、続けるための振り方になっていた。
母親は、その変化を見逃さなかった。
膝の上で握っていた手が、ほどける。
ほっと息を吐く音が、こちらまで届いた気がした。
ビリヤード台のほうでは、別の客が玉を転がしている。
メダルゲームの機械が、ときどき明るい音を鳴らす。
雨の日に閉じ込められた時間が、音と光で少しだけ軽くなる。
父親が、男の子に言った。
「いまの、いいじゃん」
男の子は、ちょっと顔をしかめてから、
小さく笑った。
「……たまたま」
「たまたまでも、いい」
その言葉は、責めない言葉だった。
褒めすぎない言葉でもあった。
続けるための言葉だった。
オレは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
それが羨ましさなのか、安心なのか、分からないまま。
*
昼過ぎ。
雨は、まだ止まない。
ロビーの窓の外で、
雨が海を叩き、波が白く砕けている。
そんな中、裏口からひとりの釣り客が出ていくのが見えた。
雨がっぱを着込み、足取りは慎重だった。
膝下までの長靴で、水たまりを避けずに進む。
風向きを確かめるみたいに、一度だけ顔を上げ、また歩き出す。
父親と男の子も、それに気づいた。
「あの人……」
男の子が言う。
父親は、少し考えてから答えた。
「あの人は、大人だからな。
危ないって分かってて、それでもできる」
少し間を置いて、続けた。
「お前が大きくなったら、
こういう日でも、一緒にできるかもしれない」
男の子は、父親を見上げた。
「ほんと?」
「ああ。
だから今日は、やらない」
その言葉は、断念じゃなかった。
未来を含んだ判断だった。
男の子は、しばらく考えてから、
小さくうなずいた。
うなずき方が、朝より少しだけ柔らかかった。
釣竿を握っていない手が、父親の服の裾をつまむ。
その動きが、一瞬だけ自然に見えた。
母親が、そっと笑う。
笑いは明るくない。
でも、安心している笑いだった。
オレは、その様子を見ながら思った。
今は、やらない。
でも、いずれ一緒にやる。
そんなふうに未来を含ませて、誰かに言ったことが、オレにはあっただろうか。
離れて暮らす妻と子どもに、
「今は無理」を繰り返した夜がある。
無理だから、という理由を渡せないまま、
相手にだけ待たせた夜がある。
もしあのとき、
「いつならできる」と言えていたら、
何かは違っていたのかもしれない。
でも、もう一度思う。
考えたって仕方ない、と。
——なのに、考えてしまう。
*
午後。
事務所の端に置かれたテレビで、天気予報が流れている。
「夕方以降、次第に回復する見込みです」
オレはそれを、
信じもしなかったし、否定もしなかった。
ただ、その天気予報を、
そのまま親子に伝えた。
夕方には、少し風が弱まるかもしれないこと。
空が明るくなるかもしれないこと。
でも、それが本当になるかどうかは、
誰にも分からないこと。
それを聞いて、
親子がどういう選択をするのか。
実際に、何が起きるのか。
それは、オレには分からない。
分からないし、
分かろうとしなくてもいいのだと思った。
オレにできるのは、
今の状況を、そのまま渡すことだけだ。
判断は、向こうにある。
窓の外では、雲がゆっくり流れていく。
どこへ行くのかは、わからない。
でも、止まってはいない。
ゲームコーナーから、
また卓球の音が聞こえてきた。
さっきより少しだけ軽い音だ。
球が、続いている証拠の音。
雨の日でも、
できることは、ゼロじゃない。
オレはそう思いながら、
フロントに戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます