私は、人よりちょっとだけ頭が良くて、人よりちょっとだけ要領がいいだけの、平均値の人生を生きる男です。
ダークロ
第1話 海上ホテル
そのホテルには、桟橋があった。
海上ホテルと呼ばれる、少し古びた建物の脇から、海へ向かって細く伸びる木製の桟橋だ。
板は潮風に焼けて、ところどころ白っぽく、踏めば軽く軋む。
手すりの塗装も均一じゃない。古いのに、妙に頑丈で、妙にやさしい。
——長い間、いろんな人間の体重と、いろんな時間を支えてきた場所の匂いがする。
昼は子どもがはしゃぎ、足音が走る。
夜はカップルが寄り添い、言葉の代わりに海を見ている。
釣り人はいつだっている。
釣れるかどうかより、糸を垂らして待つ時間のほうが好きそうな顔をして。
夕方になると、海はゆっくりと色を変える。
空が橙にほどけて、水面にそれがにじみ、境目がわからなくなる。
15時のチェックイン後、いつも釣竿を握る男がいた。
竿先が小さく揺れるたび、彼は視線を向けるが、慌てない。
少し後ろに、女性が立っている。
夫の背中を見て、海を見て、竿先を見て。
同じ距離で、同じだけの時間を、ただ見守っている。
「……また、誘うの?」
女性が笑い混じりに言った。
男は振り返らずに、低い声で返す。
「お前もやってみるか」
「やだ。見てるだけでいいわ」
「そうか」
それで終わり、のはずなのに、男はまた言う。
「なあ。ほんとに一回も、やらないのか」
「やだって言ってるでしょう。だって、私、釣れなかったら落ち込むもの」
男が小さく笑った。
笑い声は波に紛れて、よく聞こえない。
「じゃあ、釣れたらやる?」
「やだ」
「頑固だな」
「頑固じゃないわ。私は、見てるのが好きなの」
男はそこでようやく少しだけ振り返って、女性を見る。
夕焼けに照らされた横顔は、特別なものじゃないのに、目が離せないくらい穏やかだった。
「見てるだけで、楽しいのか」
「ええ。あなたが集中してる顔、好きだもの」
男は返事をしない。
代わりに視線を海へ戻し、竿先へ戻す。
その沈黙が、照れ隠しなのだと女性は知っている。
夕焼けがゆっくり落ちる。
空が暗くなる。
「きれいね」
「そうだな」
「……また来ましょうね」
男は一拍置いて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「ああ」
それだけで、十分だった。
特別な日じゃない。
記念日でも、節目でもない。
ただ、何度も来た場所で、何度も繰り返した会話。
——だからこそ、残ってしまう。
*
フロントに立っていると、そのお客さんはいつも少しだけ所在なさげだった。
年配の女性。
背筋は伸びている。身なりもきちんとしている。
それなのに、視線がほんの少し落ち着かない。
ホテルという場所に慣れていないというより、「このホテルに、慣れすぎている」人の目に見えた。
荷物は小さな鞄ひとつ。
「チェックインでお間違いないでしょうか」
仕事用の声で、オレはそう言った。
女性は名を告げ、静かにうなずく。
「……ええ。よろしくお願いします」
鍵を用意して渡す前に、彼女がこちらを見た。
「あなた、新しい方ね」
一瞬、心臓がわずかに跳ねた。
別に、嫌な意味じゃない。
ただ、“新しい”という言葉が、なぜか胸に刺さった。
「はい、最近こちらで働かせていただいています。ご不便があれば、何でもお申し付けください」
言いながら、オレの内側は少しだけ苦笑していた。
——何でも、って。言いやすい言葉だ。現実は、何でもできない。
同僚が手続きの合間に、ぽつりと教えてくれた。
「あの方ね、前は旦那さんと一緒に何度も来られてたんですよ」
それ以上は言わない。
言葉にすると、形が決まってしまうからだ。
午後。
フロント横の窓から、桟橋が見える。
女性は何度か、そこへ視線を向けては、足を止めた。
行こうとして、やめる。
足が動かないというより、心がそこで引っかかっている。
理由があるのはわかる。
でも、その理由にオレが触れていいのかどうか、わからない。
——人の役に立ちたい。
そんなことを口にしたら、たぶん自分に酔ってる。
でも、思ってしまうのは事実だった。
オレは、裏の事務スペースで何度も頭の中を回した。
「桟橋に行きませんか」と誘う?
でも、断られたらどうする。断られるのが怖いわけじゃない。断られた後の“気まずさ”が怖い。
気まずさで、あの人の心にさらに何かを足してしまうのが怖い。
じゃあ、別の提案は。
部屋から海が見える場所へ案内する?
ラウンジの窓際?
けれど彼女が見たいのは“海”じゃない。海を見た“場所”だ。そういうのは、替えが利かない。
夕方、思い切って声をかけた。
「桟橋のほう、もしよければ……釣りもできますし。海も、綺麗に見えますよ」
オレはまた仕事用の声で、そう言った。
女性はしばらく、窓の向こうを見た。
夕焼けが、海に落ちかけている。
「……ありがとう。でも、今日は、いいの」
やわらかい拒否だった。
棘はない。
だからこそ、こちらの“次の一手”がない。
「承知しました。ご夕食の時間など、何かございましたら……」
オレはそう言って引いた。
引きながら、オレは負けた気がした。
勝ち負けじゃないのに。
その夜、オレは眠りが浅かった。
桟橋に行けない理由を想像しても仕方ないのに、勝手に想像して、勝手に胸が重くなる。
——こういうところが、要領がいいくせに、どうしようもなく不器用だと思う。
*
翌朝。
オレは夜明け前から桟橋にいた。
非番の日だ。
チェックアウトの時間にフロントへ立つ必要はない。
だからこそ、朝の空気の中に紛れたくて、釣り道具を持ってここに来た。
空はまだ青黒く、水平線がかすかに白い。
波の音が近い。
海は同じなのに、朝は昨日の夕焼けとはまるで違う顔をしている。
糸を垂らす。
竿を握る手が、冷たい。
思考が薄まっていくのがわかる。
こういう時間だけは、オレにとって都合がいい。余計なことを考えずに済む。
——いや、考えてる。
考えてるのを、波が上書きしてくれているだけだ。
いまの自分は人の目には、どんなふうに映るのだろう……
反省交じりの思いが巡っていた
「また、悪い癖だな」
ふと、背後に足音がした。
振り返ると、桟橋の入口に人影があった。
昨日の女性だった。
まだ早い。
こんな時間に来る理由があるのか、と思った瞬間、彼女の口が動いた。
「……あなた」
声が、少しだけ震えた。
その「あなた」は、誰を呼んだのか。
オレを見ている。でも、オレの背後の空気を見ているようにも見える。
——夫を呼ぶ「あなた」なのか。
目の前の他人にかける「あなた」なのか。
曖昧さが、逆に痛かった。
人は、ときどき、言葉で自分を助ける。
でも、ときどき、言葉が自分を置き去りにする。
「……おはようございます」
オレは、ぎこちなく笑ってしまった。
女性は、小さく息を吐いて、視線を海へ移した。
「朝って、こんな色なのね」
「……ええ。きれいです」
会話は短い。
でも、ここで長い言葉はいらない気がした。
彼女はゆっくりと桟橋へ足を踏み入れ、オレの少し後ろの距離に立った。
——見守る距離。
同じ距離に立つだけで、空気が変わる。
人は、誰かを支える時、触れないことがある。
触れないほうが、支えになることがある。
竿先が小さく揺れた。
反射で合わせる。
ぐっと手応えが来て、魚が跳ねる。
小ぶりだけど、銀色が朝焼けを弾いた。
「……まあ」
女性が、思わず声を漏らした。
驚きと、少しの笑いが混じっている。
「釣れました」
「おいしそうね」
その一言が、妙に温かかった。
“おいしそう”なんて、ただの感想なのに。
それが「生きてる時間」の言葉みたいに聞こえた。
オレは魚を手早く締め、バケツに入れた。
桟橋の木の匂いと、海の匂いと、魚の匂いが混ざる。
「……良かったら、食べてみますか?」
言った瞬間、自分でも驚いた。
仕事じゃないのに。
でも、だからこそ言えた気がする。
女性が、少し目を見開いた。
「え……?」
「料理人はまだ来てないので、オレの手料理になりますが」
“オレ”が出た。
意識してない。
たぶん、ここはフロントじゃなく、いまは役割じゃないからだ。
ただの人間同士の距離だから。
女性は、迷うように唇を結んだあと、ゆっくりとうなずいた。
「……じゃあ、少しだけ」
*
ホテルに戻り、裏の簡易キッチンを借りた。
本格的なものじゃない。業務用の立派な設備とも違う。
でも、火がある。包丁がある。塩がある。
オレは魚を捌きながら、思った。
何をしてるんだろう、って。
こういうことをしていいのか、とか。
お客さんに出す料理じゃない、とか。
コンプライアンスがどう、とか。
——でも、今はやめた。
こういう“正しさ”で人を救えた試しがない。
焼き網の上で魚が音を立てる。
皮が弾け、香りが立つ。
朝の空気に、湯気が混ざる。
女性は椅子に座って、手を膝の上に置き、静かに待っていた。
その姿が、昨日フロントで見た姿より少し柔らかい。
「……あなた、新しい方ね」
彼女が、また言った。
「ええ、最近です」
「そう。前の方たちも、みんな親切でね」
“前の方たち”。
その言い方が、彼女の中の時間の層を感じさせた。
このホテルで積み上がってきた時間。
ここは彼女にとって、宿じゃなくて、記憶の場所だ。
魚が焼けた。
小さな皿に乗せて、箸を添えて差し出す。
「どうぞ」
女性は、箸を持つ手を少しだけ震わせた。
震えは弱さじゃない。
一口を選ぶ重さのほうに見えた。
彼女が、身をほぐして口に運ぶ。
——咀嚼が、止まった。
目が一瞬だけ、遠くを見る。
そして、笑った。泣きそうな笑いじゃない。
昔を、昔のまま取り出したような笑い。
「……これ」
声が、少しかすれた。
「前にね。あなた……じゃなかたった、夫が」
そこで言葉が一瞬、詰まる。
“あなた”が、また曖昧になる。
でも今度は、曖昧さが痛くない。
それはたぶん、彼女が自分で選んで曖昧にしたからだ。
「釣れた魚を、焼いてくれたの。ここで。……同じ匂い」
オレは、黙ってうなずいた。
下手に言葉を挟むと、壊れる気がした。
彼女はもう一口食べた。
今度は、ゆっくり咀嚼する。
「私ね」
彼女が言う。
「いつも誘われてたの。『やってみるか』って」
——ああ。
オレの頭に、夕焼けの桟橋がよみがえった。
見たことのないはずの光景なのに、妙に鮮明に。
「でも私、頑固に断って。『見てるだけでいい』って。毎回」
彼女は、小さく笑う。
「今思うと、もったいなかったわね」
オレは、少しだけ首を横に振った。
「……でも、見てるのが好きだったんですよね」
彼女は、箸を止めて、オレを見た。
「ええ。好きだった。——好きなの。たぶん、今も」
“今も”の言い方が、強かった。
前向きじゃない。
でも、否定でもない。
ただ、そこにある。
彼女は皿を見つめて、ぽつりと言った。
「……私も、釣りしてみようかしら」
心臓が、少しだけ跳ねた。
喜びじゃない。驚きだ。
こんな言葉が出るとは思わなかった。
「教えてくださる?」
その「くださる」は、丁寧なのに、距離が近かった。
頼る、というより、一緒に、という響きがあった。
オレは、少し迷った。
迷ったのは「できるか」じゃない。
できないと思っていた自分が、ここで頷いていいのか、って迷いだった。
昨日、オレは何もできなかった。
できる手立てがないと思って、引いた。
踏み込めなかった。
でも今は、ただ魚を焼いただけで、
この人の時間が少しだけ動いている。
——役に立つって、こういうことかもしれない。
誰かの人生を変えるとかじゃなくて。
今日の朝を、少しだけ違う朝にすること。
「……ええ。もちろん」
オレはそう言って、笑った。
仕事用の笑顔じゃない。
気を遣って作った笑顔でもない。
女性は、安心したように息を吐いた。
「じゃあ、また来てもいいかしら。朝の時間に」
「……どうぞ。オレがいる日も、いない日もありますけど
そうそう、チェックイン後の夕方も良く釣れる時間ですよ」
「いいの。釣れるかどうかじゃないものね」
その言い方が、まるで誰かの声みたいで。
誰か、が彼女の隣に座ったみたいで。
オレは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
朝焼けの光が、窓の外で完全な朝に変わっていく。
海は変わらずそこにある。
けれど、見え方は変わる。
オレは、釣り糸が静かに揺れるのを思い出した。
昨日、オレは何もできなかった。
でも今日、オレは魚を焼いて、隣にいただけだ。
それでも、誰かは救われる。
——そんなことで、いいのか。
いいのかもしれない。
*
その日、彼女は昼前にホテルを出ていった。
玄関先で立ち止まり、桟橋の方を一度だけ振り返る。
手を振るでもなく、笑うでもなく、ただ、見ていた。
オレはフロントに立っていなかった。
非番だから、という理由もある。
でもそれ以上に、見送らないほうがいい気がした。
それから数年のあいだ、
彼女は季節を変えて、何度もこのホテルに来た。
朝の桟橋で竿を持つ日もあれば、
夕方、海の色が変わるのを見て帰る日もあった。
釣れない日も、釣れる日も、
彼女は変わらず「見てる時間が好き」と言った。
オレがいる日も、いない日も、
彼女は自分のペースで、桟橋に立っていた。
ある年を境に、
彼女は来なくなった。
理由は、聞かなかった。
聞けなかった、のかもしれない。
桟橋は、今もそこにある。
人が来ても、来なくても。
オレは今も、朝早くに釣りをすることがある。
あのときの朝焼けと、
あのときの夕焼けを、
同じ海の上に重ねながら。
——海上ホテルは、今日も静かだ。
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