「“不勉強”に緩む心」

「あの」

 ハムとたまごのサンドイッチを食べ終えたところで、恐る恐る口を開いた。

「はい?」

 とうに食事と飲み物を完食し、スマートフォンに集中していた美佳が、いかにも不機嫌そうな顔を持ち上げる。

「どうして私にコンタクトの申し込みを?」

 このような内容を尋ねるのは、本来ならばタブーに違いないことは承知していた。

 ただ、今回についてはすでに結果は見えており、これ以上気を遣う意味はない。左様なことを訊いたとてどうなるわけでもなく、むしろ余計に自尊心や(もとより少ない)自信をえぐられるだけかもしれないことは承知していた。それでも、何でも構わないのであと少しだけ、目の前の中高なかだかな女と会話がしたいという愚にもつかない欲求に突き動かされたのである。


「あーなんでかな……正直まったく申し込んだ記憶ないので、間違えたのかもしれないです」

「あ、そうなんですね」

 ともすれば激昂するのではと怯えていたため、彼女の声のトーンが意外にも落ち着いていたことに安堵を覚える。

「お手洗い行ってきます」

 言うが早いか、美佳は鞄を持ってさっさとトイレに向かった。

 白のブラウスに、ベージュのボックスプリーツミニスカートといういでたちの彼女の立ち姿は実に見栄えが良い。ミニスカートから覗ける長い両脚がおよそ三十分ぶりに眼下に広がったことで、動悸の速まるさまを感じた。


 美佳は、このまま戻ってこないのだろうと思った。

 会計はそもそも二人分支払う心づもりのため、その点は心配ない。特に相談所のルールが設けられているわけではないが、ファーストコンタクトのお茶代は毎回私が全額を負担してきた。美佳が私のどこを気に入らなかったか――外見も何もかもすべてかもしれない――はわからないが、少なくとももう金輪際私の顔なぞ見たくないであろうことは先ほどまでの彼女の態度から歴々としていた。


 美佳の離席から約十分。そろそろ引き上げようとしていたところに、美佳が戻ってきた。

「えっ?」

 思わず間延びした声がもれる。

「はい?」

 座る私の横に立ったまま、美佳が訝しげな顔をつくる。

「あっ、いや……なんでもないです。すみません」

 どうせ戻ってこないと思っていたと正直に言えるほど、私は豪胆な男ではない。

「ってか、お会計まだなんですか?」

 テーブルの上に残っている伝票に視線を移しながら、美佳は再び椅子に腰かけ半笑いで言った。

「すみません。これからしようと」

 そう答えると、彼女は軽く嘆息する。

「食べ終わったあとに女の子がお手洗い行くって出て行ったら、その間にお会計済ませろってサインですよ? デートとかしたことあります?」

 軽蔑の色が付帯された――と思われる――半笑いを受け、心臓が早鐘はやがねを打つ。

「ごめんなさい。デートの経験は一応あるのですが、そのサインは知りませんでした。不勉強で申し訳ありません」

 取り繕う余裕などなく、ありのままを述べて謝罪した。

「不勉強って……そんなの普通に生活してたら自然と知ると思いますけど」

 私の発した“不勉強”という言葉が妙に可笑しかったらしく、美佳は邪気のなさそうな表情で笑った。

「普通、ですか。私は色んな意味で普通ではありませんので」

 幼い頃から“マイノリティー”であった自分は、“普通”とは縁遠い人間であると思う。同時に、取り立てて個性のない“普通”に終始することだけはあってはならないという強靭な矜持があった。

「なにそれっ」

「お勉強はまあできる方なんですが、それ以外の諸々が難ありって感じです。ざっくり言うと」

 半ば開き直り、でも穏やかに微笑して答える。

 推薦で入学したとはいえ上智大学を卒業していることを踏まえると、学力的な問題がないことを主張しても不自然ではないはずだ。

「あぁ、なるほど。確かに、言われてみるとそれっぽいですね」

 このとき初めて、美佳が私に対して興味を持ったように見えた。

「じゃあ、先にロビー行ってるのでお会計お願いします」

 財布から野口英世を一名取り出し、伝票の上に置きながら言った。

「あっ、いいですよ。お支払いしますので」

 伝票の上の野口英世を美佳に差し出しながら、デイトにおいて自身の知り得る数少ないエチケットを行使せんとする。

「あ~いいですよ、今さら頑張らなくても。どうせもう会うこともないし」

 会ったその場で交際希望の有無を伝えるのはNGであると相談所の規約にもあったはずだが、ルールの逸脱はお互い様だ。

「では、ありがたく」

 託された野口英世を財布にしまい、樋口一葉を用いて支払いした。


「この後どっか行くんですかー?」

 アルカディア市ヶ谷のロビーを歩きながら、美佳が訊いた。

 ほとんど高さのないローファーを履いていながら身長差がまるでない彼女は、小股の切れ上がった女という表現が実にしっくりくる。 

「いや、特に決めてないですね。そちらは?」

「私はこれから銀座で友達と会います、大学時代の」

「へぇーいいですね。お買い物ですか?」

「まあそんなとこです」

 こういう自然なコミュニケーションが『スリーゼ』にいたときにもできたら、どれだけ幸福だっただろう。


「それじゃ、私こっちなので。さようならー」

 地下横断歩道の前で、美佳が別れの言葉を告げる。

「はい、今日はどうもありがとうございました」

 相手が言わずとも自発的に御礼の言葉を述べるのは、私が臆病な小心者だからというわけではない。

 大学時代に部活動で精を出した囲碁も茶道も、礼に始まり礼に終わるものだ。たとえいかに不本意な結果になろうとも、相見あいまみえた相手への御礼だけは欠かしてはならないということを、私はそれらから学んできた。


「お食事、美味しかったです」

 律儀に一礼する私を見て、微笑しながら美佳が言う。


 今日は、幸福な一日だ。

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不勉強に緩む心 サンダルウッド @sandalwood

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