第6話 夏の終わり、名前のない感情
夏は、思っていたよりも静かに始まった。
期末試験が終わり、答案が返却され、生徒会室の窓から見える空がいつの間にか濃い青に変わった頃、長野広斗は自分の生活に「余白」が増えていることに気づいた。
勉強、ゲーム、帰宅。 その単調なループの中に、生徒会の仕事と、長浜美結という存在が入り込んできている。
それが当たり前になりつつあることを、広斗自身はまだ危険だと思っていなかった。
◇
「次は、夏休み中の活動計画ね」
生徒会室で、美結がホワイトボードに文字を書き込む。
手際がよく、迷いがない。 誰もが自然と彼女の言葉を待ち、従っていた。
広斗は、その様子を一歩引いた位置から眺めている。
――やっぱり、すごいな。
尊敬に近い感情はある。 だが、それ以上でも以下でもないはずだった。
「長野くん、ここはどう思う?」
不意に振られて、広斗は一瞬考える。
「……実行委員の負担が大きい。分担を細かくした方がいい」
「うん、同意」
即座に肯定される。 それが、なぜか少しだけ嬉しかった。
美結は、広斗の意見を軽く扱わない。 それが彼にとって心地よかった。
◇
夏休みに入ってから、生徒会の活動は週に数回あった。
午前中に集まり、昼過ぎに解散する。 作業の合間に、雑談が挟まる。
その雑談の中心に、いつも美結がいた。
「ねえ長野くん、ゲームってさ、どこが一番楽しいの?」
「……成長が見えるところ」
「数値?」
「結果が分かる」
美結は少し考えてから、微笑った。
「じゃあ現実は、分かりにくいから苦手なんだ」
「……否定はしない」
図星だった。
美結はそれ以上踏み込まず、話題を変える。 その距離感が、妙にありがたかった。
◇
八月中旬。
「夏祭り、行かない?」
その誘いは、生徒会室の片付けが終わったあとだった。
「……生徒会で?」
「ううん、個人的に」
一瞬、言葉に詰まる。
断る理由を探すより先に、理由のない沈黙が落ちた。
「無理ならいいよ」
「……行く」
気づいたら、そう答えていた。
◇
浴衣姿の美結は、普段よりも少しだけ遠い存在に見えた。
「似合ってる?」
「……うん」
それ以上、言葉が出ない。
夜店の光、人混み、太鼓の音。 どれも現実感が薄く、ゲームのイベント画面みたいだった。
だが――
金魚すくいで失敗したときの美結の悔しそうな顔。 射的で当てたときの、無邪気な笑顔。
それらは、数値化できない。
胸の奥が、ざわついた。
◇
帰り道、川沿いを歩く。
「ねえ、長野くん」
「なに?」
「昔のこと、思い出したりしない?」
足が、止まる。
「……しない」
即答だった。
美結は、少しだけ視線を落とした。
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
だが、その背中が、なぜか寂しそうに見えた。
◇
その夜、広斗はゲームを起動した。
イベントシーンで、ヒロインが言う。
『変わらないと、守れないものもあるよ』
なぜか、美結の声で再生された。
「……現実と、混ざるなよ」
そう呟きながらも、コントローラーを持つ手は止まっていた。
◇
夏休みが終わる頃。
広斗は、はっきりと自覚していた。
長浜美結の存在が、日常に組み込まれている。
それが失われることを、想像してしまう自分がいる。
まだ名前のつかない感情。 だが確実に、芽吹いていた。
幼馴染は遅すぎる恋をする @ichigo1110
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