第2章 空白の始まり

 長野広斗の高校生活は静かに始まった。

 県立桜峰高校。一学年に六クラスある、ごく普通の進学校だ。入学式の日、体育館に並んだ新入生たちの顔を見回しても、特別な感情は湧かなかった。期待も不安も、ほとんどない。

ー--高校は、高校。 ー--それ以上でもそれ以下でもない。

 広斗にとって大切なのは、日常が乱れないことだった。


一年一組。

 担任が名前を読み上げる名簿を聞きながら広斗は淡々と席についていた。周囲では、小学校や中学校が同じだった生徒同士が、再開を喜ぶ声を上げている。

「久しぶり!」 「同じクラスだ!」


 そんなやり取りを、少し距離を置いて眺める。

 自分にはそういう相手はいない。

 いや、正確に言えばー-

 いたのかもしれないが、覚えていない。


 幼稚園や小学校低学年の記憶が、ほとんど残ってないことは、自覚していた。だが、それを深刻に考えたことはない。

 思い出せないなら、それまでだ。過去より今。今より、これから。

 そう割り切って生きてきた。


 高校生活は、予想通り平穏だった。

 授業を受け、ノートを取り、テスト前にはきちんと勉強する。成績は自然と上位に入り、先生からは、目を付けられることはなかった。

 昼休みは購買でパンを買い、席でスマートフォンを眺める。

 放課後は寄り道もせず家に帰る。

 ゲーム機の電源を入れ、画面の中のヒロインと会話を進める。好感度は数値で表示され、選択肢を謝ればロードすればいい。

 わかりやすくて安全だ。

 現実の人間関係に、わざわざ踏み込む理由はなかった


 そんな日々の中で、広斗は一人の女子生徒の存在をなんとなく認識するようになった。

 同じ学年、別のクラス。

 クラスの中心にいて、周囲に人が集まるタイプ。明るく、誰とでも話している姿を、廊下や中庭で何度か見かけた。

 名前は知らない。

 興味もない。

 ただー-

 視線を感じることが時々あった。

 ふと顔をあげると、その女子生徒と目が合い、すぐに逸らされる。

 気のせいだろう。

 そう思って、深く考えなかった。

 自分が誰かに特別な感情を向けられる理由など思いつかなかったからだ。


 その日の夜、珍しく夢を見た。

 オレンジ色に染まった空。小さな手。絡められた指先。

「ー-大きくなったら...だよ」

 

 言葉の意味は分からない。声の主もわからない。ただ、胸の奥が、妙に苦しくなった。


 この時の広斗はまだ知らない。

 この何もない高校生活が、実は誰かにとっては長い時間を耐えた末の最出発であることを。


 高校一年の春は、あっという間に過ぎていった。

 部活に入るでもなく、委員会に積極的にかかわるでもない。広斗は、相変わらず淡々と学校生活を送っていた。

 変わったことがあるとすればー-

 あの女子生徒と、言葉を交わすようになったことくらいだ。


 最初はただの挨拶だった。

「おはよう」

 廊下ですれ違った時に、そう声をかけられる。

 一瞬、誰に向けられた言葉なのかわからず、周囲を見てから自分だと気づく。


「....おはよう」

 ぎこちなく返すと彼女は安心したように微笑った。

 それを何度か繰り返す。

 それだけの関係。

 深くかかわる理由はやはりなかった。


♦ 

 放課後、昇降口で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。


「ねえ」

 振り返ると、あの女子生徒が立っていた。

 近くで見ると落ち着いた雰囲気の顔立ちをしている。派手ではないが、不思議と目を引く。

「長野くん、だよね」

「....そうだけど」

「私長浜美結」

 ようやく名前を知った。

 それだけのことなのに、胸の奥がわずかにざわつく。

 理由はわからない。

「よろしく」

「...ああ」


 それで終わるはずだった。

 だが、美結は少し迷った後、意を決したように続けた。


「ね、私たち...前に会ったこと、ないよね」

「?」

質問の意味が分からず、広斗は首をかしげる。


「無いと思うけど」

 即答だった。

 事実、おぼえていない。

 美結は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。

「...そっか。だよね」


 その笑顔が、なぜか胸が引っかかった。


 それからも、美結は時々話しかけてきた。天気の話。授業の話。他愛のない雑談。

 だが、必ず途中で何かを言いかけて、やめる。

 広斗はその理由を考えなかった。

 考えなくていいことには、踏み込まない。

 それが、これまでの生き方だったからだ。


 ゲームの仲でのヒロインが言っていたセリフを、ふと思い出す。


「変わらないままじゃ、何も始まらないよ」

 その言葉を、現実に当てはめるつもりはなかった。

 この時点での広斗にとって、高校生活は依然として平穏で、何かが始まっている実感なの、どこにもなかった。

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