第8話|観測者の誤差

松本綾香は、廊下の端に立っていた。


正確には、

立っている“つもり”だった。


人の流れに干渉せず、

視界の隅に溶け込む位置。

誰の動線も邪魔しない距離。


観測者として、

最適な配置。


――のはずだった。


綾香は、端末を確認する。

数値は、昨日と変わらない。


波形は安定。

揺らぎは想定範囲内。

異常値は、検出されていない。


それでも。


無意識に、

視線が上がっていた。


氷室二郎が、

廊下を歩いてくる。


歩調は一定。

姿勢は崩れていない。

呼吸も乱れていない。


数値上は、

完全に正常。


――なのに。


距離が、測れない。


近いのか。

遠いのか。


“ここ”にいるのか、

“別の位相”にいるのか。


判断できない。


綾香は、

端末を伏せた。


氷室二郎が、

こちらに気づく。


一瞬だけ、

視線が交わる。


その瞬間、

記録が一つ欠けた。


時間。

距離。

判断。


どれも、

正しく揃わない。


綾香は、

何も言わなかった。


言葉を出せば、

観測ではなくなる。


二郎が通り過ぎる。

足音が、遠ざかる。


追いかけたい、

という衝動が、

数値にならないまま残った。


綾香は、

その感覚に名前を付けなかった。


端末に、

短く入力する。


《対象:継続観測》

《備考:測定誤差あり》


それだけ。


顔を上げると、

廊下の向こうで、

十六夜ほむらが立ち止まっていた。


視線が、

二郎の背中に向いている。


一瞬。

ほんの一瞬だけ。


彼女の“気”が、揺れた。


綾香は、

それを記録できなかった。


端末を閉じ、

静かに歩き出す。


距離を、詰めながら。

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