第2話|日常

朝の氷室家は、静かすぎる。


目を覚ましてから家を出るまで、

誰とも言葉を交わさずに済んでしまうくらいには――本来なら。


階段を下りる途中で、

かすかに食器の触れ合う音がした。


「おはようございます、ジロウ」


ダイニングに入ると、

リアがいつも通りそこにいた。


銀色の髪を後ろでまとめ、

動きに無駄がない。

この屋敷で、生活感と呼べるものを持っているのは、

たぶんこの人だけだ。


「おはよう」


それだけのやり取りで、

空気がほんの少し柔らぐ。


テーブルの上には、

出来立ての朝食が並んでいた。


「今朝は、少し早めに出られるご予定でしたよね」


「うん。特に用はないけど」


「では、量はいつも通りで」


聞かれているようで、

もう決まっている。


「……今日も、変わりありませんでしたか?」


一瞬だけ、

言葉の意味を考える。


体調のことか、

それとも――別の何かか。


「大丈夫。いつも通り」


「そうですか」


それ以上、彼女は踏み込まない。


「行ってきます」


「はい。お気をつけて」


玄関まで見送られることはない。

けれど、背中に視線を感じる。


扉を開けて外に出ると、

空気が少しだけ軽くなった。


門を出て振り返ると、

屋敷は相変わらず、

何も語らないままそこにある。


ただ一つ違うのは、

中に、誰かがいるという確かさだった。


――今日も、普通の一日だ。


少なくとも、

学校に着くまでは。



屋敷を出て少し歩くと、

空気が一気に日常へ切り替わる。


通学路。

同じ制服、同じ時間帯。


「やっほ、二郎君」


声は、やっぱり背後からだった。


振り向く前から、

誰か分かっていた気がする。


「おはよう、橘」


橘鏡花。

同じ学年の、顔見知り。

それくらいの距離感のはずだ。


「今日も早いね」


「橘もだろ」


「うん、たまたま」


並んで歩きながら、

取り留めのない話を少しだけする。


天気のこと。

小テストの噂。


「眠そうだけど、大丈夫?」


「まあな」


「そっか。

 困ったことあったら言ってね。

 手伝うよ。力、貸すし」


冗談みたいな口調。

でも、その言葉だけは耳に残る。


校舎が見えてきたところで、

橘は歩みを緩めた。


「じゃ、また後で」


返事をしようとした時には、

会話はもう終わっていた。



校舎に入って、

靴を履き替えたところだった。


「……ジロウ」


呼ばれ方で、

誰か分かってしまう。


振り向くと、

少し離れた廊下に立っていた。


十六夜ほむら先輩。

一つ上の学年で、

昔、よく遊んでいた……らしい人。


「おはようございます、ほむら先輩」


「相変わらず、他人行儀だな」


足音が近づくにつれて、

空気が少しだけ重くなる。


「無理はするな」


不意に、声が低くなる。


「体調、悪くはないです」


「そうか」


それ以上は踏み込まない。


すれ違いざま、

「じゃあな、後輩」とだけ言って歩いていく。


背中を見送りながら、

胸の奥が、少しだけざわついた。



教室に入る前、

吹き抜けを通りかかった。


何気なく下を見た、その時。


――視線が、ぶつかった。


一階の踊り場。

別の学年の制服。


その中に、

一人だけこちらを見ている女子がいた。


松本綾香。


距離がある。

声も届かない。


それでも、分かる。


見ている。

間違いなく、俺を。


感情を感じない視線だった。


俺の方が先に、

目を逸らした。


もう一度見下ろすと、

そこには、もう誰もいなかった。


今朝の言葉が、

ふと頭をよぎる。


「……今日も、変わりありませんでしたか?」


変わりがあるとすれば――

きっと、これだ。


理由の分からない視線。


俺は何もしていない。

それなのに、

見られている。

 

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