第9話 月下の銀狼
蒼く光る月が銀色の疾風を照らす。最上級の絹よりも細やかな銀毛は、走りながらも月の雫を優しく絡めとっていた。
巨狼は目にも留まらぬ速さで突進するが、その足運びは恐ろしいほどに静寂だ。呆けている場合ではない。彼我の距離が一瞬で喰い尽くされてしまう。
「はっ!」
腹の底から声を出したはずなのに、気の抜けたような声が聞こえる。
私は右手に握る『災禍の種』を勢いよく投げつけた。巨狼の進路上を狙ったが、左に大きくずれている。だが、特に問題はない。
『災禍の種』が土に触れた瞬間、ドクン、と大地が脈打った。爆音とともに地面が弾け飛び、緑の槍が天を穿つ。
百年の歳月が数秒に圧縮され、若芽はたちまち幹となり、幹は塔のように太り、枝は鞭のように夜空を薙ぎ払う。黄金色の葉が光の粒子を撒き散らしていた。
「……少しはこの景色に見惚れてよ」
巨狼は側方へ跳躍して回避すると、着地の衝撃をそのまま次の跳躍へと変換した。息一つ乱していない。
しなやかな巨体は美しい弧を描いてユーマの頭上を飛び越え、防塁の上に立つ私の眼前へと迫りくる。
「アグネス!!」
「っ……上手くやる」
私はあえて防御をせずに、防塁を蹴って後方へと弾む。次の瞬間、硬い筋肉の壁が私を蹂躙する。
内臓がひしゃげる音と同時に、肺の中の空気が一瞬にして絞り出された。口の中に鉄の味が広がる。
地面に叩きつけられる直前、ルディが私の落下地点に現れる。背中から落ちた衝撃は、冷たいクッションによって和らげられた。
ズズン、と体が深く沈み込んだかと思うと、宙に放り投げられる。それを何度か繰り返して、私はようやくポーションを取り出すことができた。
「大丈夫だよ」
空になった瓶を打ち捨てながら、ルディに声をかける。ルディは淡く光りながら、心配そうに体をぷるぷると震わせている。
痛む体を鼓舞して立ち上がると、黄金色の瞳に泣きそうな顔をした少女の姿が映っていた。心臓が肋骨を内側から叩く音が聞こえてくる。
巨狼が顎を裂くように開いた瞬間、乾いた破裂音が鼓膜を叩いた。頭上が紅に染まり、熱風が私の髪を焦がした。
……ここまでも計画通り。
突然の爆撃に唖然としている巨狼の隣を、ルディを抱えたまま走り抜けた。私が距離をとった瞬間、背後で紅蓮の華が咲き乱れた。
トタン君たちが、『爆裂水晶』を投擲しているのだ。強い蜜の匂いに満たされたこの空間で、巨狼は花畑に身を隠すトタン君に気づくことができなかった。
幾度となく放たれる衝撃波が咲き誇る花々を根こそぎ薙ぎ払う。数千、数万の花弁が一斉に空へ舞い上がり、私も吹き飛ばされないよう必死だ。
灼熱の風に悶えていると、不意に暴力的な風が止んだ。目の前には広い背中があった。
「ユーマ」
ユーマの服は激しく音を立てて揺れているのに、私の服は優しく揺れるだけだった。
「……剣士が前に出るのは当然だ」
彼は素っ気なく呟くと、「お前は怪我人だろ」と言葉を続けた。私の口角が勝手に上がり、見られてもいないのに咳払いをして誤魔化した。
やがて『爆裂水晶』が底をつき、天地が逆転するような衝撃が止まった。もうもうと立ち込める土煙を切り裂くように、巨狼が姿を現した。
純白に近い銀の肢体は今や赤黒く染まり、一歩ごとに血だまりを作りながら歩を進めている。喉の奥から響く唸り声は大気を震わせる。
崩れ落ちる寸前の彫刻のように、その狼はボロボロだった。だが、それでもなお美しかった。
「来るぞ!」
傷だらけの巨躯が、静寂を纏って一条の光と化した。咄嗟に氷の槍を放つが、滑らかさを失った灰色の毛に砕かれる。
……どうやら、私は戦力外らしい。『爆裂水晶』を使い果たしたトタン君も同様だろう。
ユーマの足手まといにならないよう、遠くの花畑に向かって走り出す。差し迫る巨狼に向かって、ユーマが身体強化を施した右腕を強引に振るう。
ブォン!と空気が裂けるような轟音が響くが、巨狼は爪を大地に深く突き刺すことで強引に速度を殺した。
「ぐっ……」
ユーマが喉の奥でくぐもった声を漏らす。身体強化は高度な技なのだ。振り返ってユーマを見ると、額に浮かぶ脂汗が光を反射していた。
私は花畑に身を隠すと、底のない深淵のような魔力を無理やり引き出す。全身の血管が焼き切れるような熱さが襲う。
巨狼が縛り付けられたかのように動きを止め、私を見つめている。瞳孔は極限まで見開かれていた。
ドシュッ
再び身体強化を施したユーマが、苦悶の表情を浮かべながら巨狼の胴を切り裂く。剣閃が走ると同時に、鮮烈な赤が弾けた。
「ワォォォオオオオ゛オ゛オ゛ン」
空間が畏怖して震えるような、すべてを爆発させたような血の味のする咆哮が響く。
巨狼は目の前のユーマに向かって神速で右腕を振るう。ユーマは咄嗟に剣で受け止めたが、小石を蹴飛ばすような軽さで吹き飛ばされる。
「できた」
巨狼がユーマにとどめを刺そうとした瞬間、私は明瞭に言葉を述べた。もちろんブラフだ。私がこれほどの魔力を扱えるわけがない。
だが、その言葉が耳に届いたその刹那、巨狼は私に向かって驀進してくる。……やっぱり、言葉を理解している。
血を撒き散らしながら疾走する巨狼の前に、足元にいたルディが躍り出る。巨狼は行く手を遮るスライムなど歯牙にもかけず、ただ私だけを見据えている。
轢き殺すつもりだろう。巨狼が次の一歩でルディを踏み潰そうとした瞬間、青白い透明の壁が現れた。
鈍く重い衝撃音が鼓膜を打ち、叩きつけられた巨狼は腹ばいになってへたり込む
かつてユーマの全力の一撃を防いだように、ルディは体を薄く伸ばして巨狼の攻撃を受け止めたのだ。
役目は終わったと言わんばかりに壁の形を解くと、ぷるんと半透明の塊に戻って座り込む。どうやら痛みは感じていないらしい。
「痛くない?」
私が様子をうかがうと、ルディはポヨンと元気に跳ねてみせた。どうやら大丈夫そうだ。
『一度でも私を傷つけた攻撃に対し、高い耐性を得る』という能力。初めての実践だったけれど、ちゃんと発動したらしい。
……私を守りたいと思ってくれているのに、ルディが強くなるためには私が攻撃を喰らう必要があるなんて、皮肉な話だ。
「ガルルル……」
喉の奥から、今にも消え入りそうな唸り声が漏れた。巨狼は痙攣し、四肢を突っ張らせては力なく崩れ落ちる。
「……ユーマ」
私が名を呼ぶと、近づいてきたユーマがゆっくりと視線を合わせる。彼は無言で頷き、瀕死の巨狼の横に立った。ありったけの魔力を全身に纏うと、渾身の力で剣を振り下ろす。
肉を断つ音が響き、巨狼の首が転がる。後には赤い血煙だけが漂っていた。
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