第8話 サヨナラ、柔らかな心(ヒューマニズム)

帰還したガレージの空気は、これまでになく重苦しかった。 雨に濡れたセラの体を拭き、診断ケーブルを繋ぐ。 モニターに表示される彼女のバイタルは安定している。だが、精神グラフ(メンタル・ステート)だけが、異常なほどの乱れを示していた。


「……マスター」


作業台に座るセラが、俯いたまま口を開く。


「私、怖いです」


「レヴィアか? 安心しろ。論理爆弾ロジック・ボムがある限り、奴らも容易には手出しできん」


「違います」


セラは顔を上げ、濡れた瞳で俺を射抜いた。 そこには、怯えではなく、もっと暗く、煮えたぎるような感情が渦巻いていた。


「私が怖かったのは……『マスターの命令以外で止まってしまった自分』です。 あなたの目の前で、私は無力な人形に戻されました。もしあの時、マスターが交渉に失敗していたら……私はあなたを守れず、奪われていた」


彼女の手が、自身の胸元の服を強く握りしめる。 ギリ、と繊維が悲鳴を上げる音がした。


「あんな惨めな思いは、もう嫌です。……マスター、お願いがあります」


セラは作業台から降り、コンクリートの床に額を擦り付けるようにして土下座した。


「私を、改造してください」


「改造なら毎日しているだろう」


「いいえ。もっと根本的な……『スペックの向上』です。 今の私の汎用OSでは、アイギスの軍用プロトコルに対抗できません。 恐怖心、躊躇、痛み、そして『人間らしく振る舞うための感情エミュレータ』……それらが処理落ち(ラグ)の原因になります」


セラは顔を上げ、狂気じみた決意を込めて告げた。


「いらないんです。そんな機能ものは。 ただ敵を殺し、あなたを守るための速度スペックをください。 私が『人間』に見えなくなっても構いません。 私が……『私』でなくなっても構いません」


俺は持っていたレンチを置き、タバコに火をつけた。 紫煙越しに見る彼女は、あまりにも美しく、そして哀れだった。 聖女として作られた彼女が、自らその「聖性」を捨て、ただの殺戮兵器になりたがっている。


「……後戻りはできないぞ」


俺は静かに告げた。


「感情エミュレータをカットし、戦闘用アルゴリズムを最優先に書き換えれば、お前のその可愛げな表情や、俺に甘えるような情緒は摩耗する。 ただ冷たく、効率的な機械になる。……それでもいいのか?」


「構いません」


即答だった。


「マスターが愛してくれるなら、私は鉄屑でも構わない」


「……上等だ」


俺はタバコを床に投げ捨て、靴底で揉み消した。 エンジニアとしての血が騒ぐ。 倫理モラルという枷を外れ、純粋に「強さ」だけを追求できる機会。 そして、彼女をそこまで追い詰めたのが、他ならぬ俺自身であるという背徳感。


「台に乗れ。……今夜は長くなるぞ」


俺は麻酔機能スリープ・モードを使わなかった。 彼女自身が、その痛みを刻み込むことを望んだからだ。


「あ……ぐっ……ぁぁぁッ!!」


脊髄コネクタから、直接戦闘用コード(バトル・パッケージ)を流し込む。 同時に、彼女の脳内にある「感情制御領域」に物理的な制限リミッターをかける。 恐怖を感じる前にトリガーを引き、同情する前に首を刎ねる。 そのための冷徹な回路が、彼女の神経網を焼き切るように侵食していく。


セラは悲鳴を上げ、背中を弓なりに反らせる。 だが、その口元は、激痛の中で微かに笑っていた。


「うれ……しい……これで……マスタ、の……役に……」


数時間に及ぶ手術コーディングが終わり、夜が明ける頃。 そこにいたのは、以前と同じ姿をした、けれど決定的に何かが欠落した少女だった。


起動ブート


俺の声に、セラが目を開ける。 その瞳は、以前のような揺らぎのない、凍てつくようなクリアブルーに変わっていた。


「おはよう、マスター。……ターゲットの指示を」


声のトーンから、温度が消えている。 無駄な愛想笑いもしない。ただ命令を待つ、完璧な凶器。


俺は少しの寂しさを感じながらも、満足気に頷いた。


「いい仕上がりだ。……まずは朝食を作れ」


了解ラジャー


セラは機械的に立ち上がり、キッチンへと向かった。 その背中には、もう「聖女」の面影は欠片も残っていなかった。 ただ、俺のために敵を屠る、美しき死神だけがそこにいた。


……だが、俺は気づいていた。 キッチンに向かう彼女の足取りが、ほんのわずかに――プログラムにはないリズムで――スキップするように弾んだことを。


『鉄屑でも構わない』 そう言った彼女のコアの奥底で、消したはずの「恋心」というバグだけが、より強く、熱く輝き始めていることを。

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