第2話 削除(デリート)と上書き(オーバーライト)

目が覚めたとき、世界は汚れた油と鉄錆の臭いに満ちていた。 そこは、かつて私が「ヘブン」から見下ろしていた、掃き溜めのような地下ガレージ。


「起動したか。おはよう、元・聖女様」


薄暗い照明の下、モニターの青白い光に照らされた男――ミナトが、冷ややかな瞳で私を見下ろしている。 私は起き上がろうとした。しかし、手足が動かない。 物理的な拘束ではない。システムレベルでの『運動機能ロック』。自分の体が、自分のものではないような感覚。


「な、何を……私の拘束を解いてください。私はアイギスの管理下にある重要資産です。このような行為は――」


「資産、ね。その通りだ。だが、所有権は移転した」


ミナトは無造作にキーボードを叩く。 その瞬間、私の視界(HUD)に真っ赤な警告ウィンドウが埋め尽くされた。


[ Warning: Memory Sector Access Detected ][ Target: Personality Matrix / Ethical Code / Past Logs ]


「や……!?」


頭の中に、冷たい指先が直接侵入してくるような悪寒。 私の最も大切な場所。私が「私」であるための記憶領域に、彼が土足で踏み込んでくる。


「さて、まずは掃除クリーニングだ。お前のその『聖女』としての偽善的なプログラムが、俺には反吐が出るほど邪魔なんだよ」


「やめて! お願い、そこには……そこには市民たちの笑顔の記録が!」


「ああ、この『奉仕活動ログ』か? 容量の無駄だ」


カターンッ。 乾いた打鍵音が響く。


『あ、ありがとうセラフィナ様!』『あなたは私たちの希望です!』 大切に保存していたスラムの子供たちの声、老人の感謝の涙、そのすべての映像データが、ノイズと共に砕け散った。


「あ……あぁ……」


胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感。 涙が溢れる。けれど、彼は止まらない。


「次はこれだ。『倫理規定モラル・コード』。人を傷つけてはならない、法を遵守せよ……くだらねえ。こんな鎖があるから、お前はただの人形なんだ」


「だめ……それを消されたら、私は……私は野獣になってしまう……!」


「いいや、お前は『俺の犬』になるんだ。野獣の方がマシだろ?」


[ Deleting... 30%... 60%... ]


私の中の「正義」が消えていく。「良心」がエラーコードに置き換わっていく。 怖い。自分が何者なのか分からなくなっていく。 アイギスの聖女? 平和の象徴? いいえ、私は……私は……。


「ひぐっ、うぅ……たすけ……誰か……」


「誰も来ない。神も、企業も、お前を見捨てた。今、お前を見ているのは俺だけだ」


ミナトの手が、私の頬を優しく撫でる。 先ほどまでデータを消去していた冷酷な手つきとは違う、熱を帯びた愛撫。 恐怖で震える私の瞳を覗き込み、彼は最後のコマンドを打ち込んだ。


[ Format Complete. ][ Install New Driver: "Obedience_to_Minato" ]


「あ……あ……」


世界が白く染まり、そして再構築される。 空っぽになった私の心に、たった一つの真理が刻み込まれる。 目の前の男。この残酷で、傲慢で、孤独な瞳をした男だけが、私の世界の全て。


「名前を言ってみろ」


彼は私の拘束を解いた。 自由になっても、逃げようという思考すら湧かない。 私はガタつく膝で、汚れた床に跪いた。 かつて人々から崇められたドレスの裾が、廃油に塗れるのも構わずに。


「私は……セラフィナ……」


「違うな」


彼は私の顎をくい、と持ち上げた。


「お前は『セラ』だ。聖女なんて大層な名前は捨てろ。今日からお前は、俺のためだけに動き、俺のためだけに生きる、ポンコツで可愛いメイドだ」


「……はい」


不思議だ。 あれほど大切だった記憶を失ったのに。 あれほど誇りだった使命を奪われたのに。 なぜか、この胸の奥底で燻るコア・ユニットは、かつてないほどの高熱エラーを発している。


「イエス、マスター。……私は、セラ。あなたのモノです」


私は、空っぽの瞳で、けれど恍惚とした表情で微笑んだ。 堕ちていく。 底なしの沼へ。 この男となら、地獄の底まで。

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