第3話


 自宅の扉を開けると、生暖かい空気が私を出迎えた。

 無言で靴を脱ぎ、寝室へと向かう。


 小さいが新築の一戸建て。

 建てた時は、未来への希望で溢れていた。


 でも今は――

 飾っていた夫婦の写真は全て片付けてしまっている。

 夫婦の寝室にいれたダブルベットで眠るのは私一人。

 

 先の見えない不妊治療を受ける中で少しずつ冷めていった夫婦関係。


 家に帰ってきたところで、夫が寝室で寝ることはほとんどない。

 排卵日の日だけ、頼み込んで寝室に来てもらうのだ。

 行為が終われば「疲れた」とだけ呟いて、夫はまたリビングに戻っていく。


 排卵日のたびに惨めになる夜を越え、生理がくるたびに死にたくなる。


 それでも、子供さえできれば何かが変わると思っていた。

 元々欲しかったというのは勿論、子供という存在が、冷え切った夫婦関係をやり直す架け橋になってくれるような気がしたから。


 だから、子供部屋にと決めた六畳間には意地でも荷物を置かなかった。

 一度ここを物置にしてしまえば、授かる未来は閉ざされるような気がして。


 でも、マナが来るとなれば話は別だ。


 小さな家に客間なんてものはない。

 夫婦の寝室にマナを寝かせるのは嫌だもの。

 子供部屋に泊めるしか――

 

 コートを片付ける前に、ポケットからネノコ様を取り出した。


 冬の屋外にいたはずなのに、掌に乗せたネノコ様は、まるで誰かがずっと握りしめていたかのように生温かい。

 先ほど触れた時よりも、心なしかピンク色の肌が赤みを増しているように見えた。


 私はそれを持って、空っぽの子供部屋へと向かう。

  カーテンの隙間から、西日だけが虚しく差し込む六畳間。


  ここにマナが来る。

  私があんなに欲しくて、願っても手に入らなかった「命の重み」を抱えて。


 「……ねえ、ネノコ様」


 無意識に、私はその大きな頭を指先でなぞっていた。


「あんなに身勝手で、自分のことしか考えていないのにさ。赤ちゃんは私じゃなくて、マナを選んだみたい」


 言葉にした途端、喉の奥からせり上がってきたのは、自分でも驚くほど黒く濁った感情だった。


「消えてしまえばいいのに」


 そう呟いた瞬間。

  ネノコ様からトクンという小さな振動が伝わってきた。


 驚き振り払ってしまったそれは、地面に音もなく落下する。


「何……今の」


 もう一度拾い上げ、息を止めて掌の中のネノコ様を凝視した。

 そっと指先でなぞっても、先ほど感じた脈拍のような振動は感じない。


「気のせいだったのかしら」


 胎児のような形のせいで、自分の心拍をそう錯覚してしまったのかも。

 私の思考を遮るように、一階のリビングから三時を示す時計の音が聞こえてきた。


「あ、こんなことしてる場合じゃない。準備しないと」


 ネノコ様を持ったまま、リビングに降りた私はキッチンにかけたままのエプロンをつけた。


「ここにいてね」


 エプロンのポケットの中にそっとネノコ様を下ろす。

 それが入った右のポケットは、やはり心なしか温かい気がした。


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