第16話 嘘の鞘
きぃん。
ギルドの裏口が閉まっても、王都の嘘の笛は耳の奥に残った。
針が抜けないまま、皮膚の内側を掻く。
首に掛け直した小さい白い欠片――ギルドの欠片が、針をほんの少しだけ丸める。
それでも、痛い。
痛いのは、正しいはずだ。
嘘があるから痛い。
痛いから、生きている。
――なのに。
(……足りない)
そう思った瞬間が、一番怖かった。
さっきまで喉の下にあった甘い静けさ。
息が勝手に深くなる静けさ。
苦しくない世界。
(欲しい)
欲しいと思った自分に、ノアは吐き気がした。
ノアは外套の襟を握りしめ、指先を痛くさせた。
痛い方が、まだ現実だ。
---
ホールの匂いが戻る。
麦酒。汗。革。皿の音。
笑い声。
椅子の軋み。
嘘のない喧騒――のはずなのに、耳は勝手に拾う。
「昨日の依頼さ、俺が十匹仕留めたって言ったら――」
きぃん。
薄い笛。
誓約の中でも、息みたいな嘘は零れる。
それとも、俺の耳が鈍ったのか。
ノアは視線を落とした。
見れば音が増える。増えれば、吐き気が増える。
(戻った)
(戻ったのに――戻れてない)
首輪は外れた。
でも、耳の奥に“ちりん”が残っている気がする。
ちりん。
今のは店の鈴か。
幻の鈴か。
――掟の鈴か。
区別がつかない一瞬が、増えている。
バルドが歩幅を崩さずに言った。
「誓約室だ」
嘘のない命令。
だから身体が動く。
動きながら、ノアは自分の喉の奥を確かめた。
(“黙れ”は)
(まだいる)
舌の先に、刃が眠っている。
---
誓約室は冷たい。
石と鉄と蝋の匂いが、肺を重くする。
部屋の中央の台座。
天秤の紋章。
嘘が喉で詰まる圧が、肌の内側から押してくる。
セリアが、黒い木箱を抱えて待っていた。
芯の箱だ。肩がまだ震えている。
「……お帰りなさい」
声に嘘はない。
だから、少しだけ救われる。
バルドは頷いて、小棚に帳簿を置いた。
『納入』と小さく書かれた冊子。
次に、布袋からガラス瓶を二本。
白い粉の上で、黒い豆粒――虚言蟲。
ぎぃ……。
頭の奥で紙が擦れる音がした。
インクが骨を擦る音。
虫の嘘の声。
ノアの胃が縮む。
同時に、喉が一瞬だけ軽くなる気がして――嫌悪が遅れてきた。
(まだ、欲しがってる)
(身体が)
セリアの視線がノアの首元へ落ちる。
鈴はない。糸もない。
それでも彼女は、眉を寄せた。
「……首輪、外れたんですね」
「借りは返した」
バルドの声は短い。
「だが、終わりじゃない。明日、銀の百合が来る」
無音の針。
真実の言い方。
ノアは帳簿に目を落とし、すぐに逸らした。
見れば音が増える。
「……明日、ですか」
言葉を削ったつもりでも、喉がきゅっと鳴る。
痛い。
痛いのに――甘さが蘇る。
バルドが続けた。
「書類だ。今度は“本物”を持ってくる」
(本物)
真実の顔をした紙。
嘘が潜っていなくても、命令は真実として刺さる。
セリアが唇を噛んだ。
「ギルドとして、拒否は……」
「できる。だが、限度がある」
嘘がない。
だから、希望が薄い形で見える。
バルドは粉の瓶を机に置いた。
さらり、と白い雪が鳴る。
「明日、門前にこれを撒け。――“読み上げ”は誓約室でさせる」
セリアが目を見開く。
「守備隊に、誓約室へ?」
「ここで嘘は喋れない。虫が潜っていれば出る。……“本物”なら、本物として残る」
真実を残す。
嘘を落とす。
そのやり方しか、もうない。
---
バルドはノアを見る。
視線が、逃げ場を潰す。
「ノア。耳の具合は」
ノアは答えようとして、言葉を選び損ねた。
(“大丈夫”は嘘だ)
(“駄目”も嘘だ)
結局、削った。
「……鈴が、残ってます」
セリアが小さく息を呑む。
バルドの眉だけが動いた。
「残響だ。利息だ」
「利息……」
「首輪は外れた。だが、首輪が食った分は戻らない」
嘘がない。
だから、喉の奥が冷えた。
バルドが机を指で叩いた。
「お前の刃は“口”だ。だが刃は、抜けば何かを切る」
ノアは唾を飲んだ。
「切るのは――嘘だけだ」
バルドが言い切る。
「そのための鞘が『嘘だけ』だ。限定を外すな。外したら、真実まで落ちる」
あの“軽さ”が脳裏を掠めた。
気持ちよかった軽さ。
全部の針が抜ける軽さ。
(楽)
(……戻りたくなる)
バルドが低く言う。
「言え。誓いを、声にしろ」
誓約室の圧が、喉を重くする。
でも、嘘はつけない場所だ。
ノアは息を吸った。
痛い。
痛いのが、ありがたい。
「……嘘だけを、黙らせます」
きぃん。
薄い笛が鳴りかけて――鳴らなかった。
誓約が殺したのか。
それとも、俺の言葉が本当だったのか。
ノアは続けた。
「真実は……黙らせません」
無音。
自分の言葉が、針みたいに刺さった。
刺さったまま、抜けない。
バルドは頷いた。
「よし。――忘れるな。忘れたら、お前は楽を追う」
楽。
静けさ。
餌。
ノアは頷いた。
頷いた瞬間、耳の奥で“ちりん”が鳴った気がして、肩が跳ねた。
---
扉が、控えめに叩かれた。
こん、こん。
ホールの乱暴な音じゃない。
それでも、ノアの背筋が固まる。
セリアが扉を開けて、ミラが顔を出した。
フードを外している。目が眠そうだ。
「兄ちゃん、生きてる?」
「生きてる」
「よかった。夕飯、残り」
紙包みの匂いは、焼いたパンと塩。
単純な匂いで、胃が少し落ち着いた。
ミラはノアの耳を覗き込む。
「鈴、まだ聞こえる?」
「……分かりません」
「分かんないのが一番嫌だよね」
嘘がない。
軽いのに、刺さる。
ミラがバルドをちらりと見た。
「明日、来るの?」
「来る」
「書類?」
「書類」
言葉だけが増えていく。
増えるほど、息が浅くなる。
ミラはパンを机に置き、ノアにだけ小声で言った。
「……さっきの嘘、すごかったよ」
ノアは答えられなかった。
答えたら、首が喜ぶ気がした。
ミラが口元だけで続ける。
「『静けさなんて欲しくない』」
ノアの喉が熱くなる。
(嘘だ)
(半分は)
でも、あそこであれを吐かなきゃ、母を売っていた。
ミラは肩をすくめた。
「兄ちゃんの嘘、嫌い。……でも、助かった」
嘘がない。
だから、礼より重い。
バルドが会話を切る。
「食え。寝るな。――今夜、動く」
「今夜?」とミラが目を細める。
「首輪は終わった。書類は終わってない」
バルドは帳簿を開き、一行を指で叩いた。
「第三詰所。納入。……紙も虫も、そこを通る」
ノアの胃が縮む。
封蝋。紋章。黒い染み。
(また、来る)
バルドが言う。
「明日来るなら、明日より先に掴む。納入の現場を押さえる。――証拠を増やす」
セリアが息を呑んだ。
「……守備隊を、誓約室へ縛るための」
「そうだ」
嘘のない肯定。
ノアはパンを握りしめた。
手が震える。
(俺の役目は)
(“黙れ”じゃない)
(……“嘘だけ”だ)
---
外から、鎧の擦れる音が近づいた。
じゃり。
じゃり。
それだけで、胃が固くなる。
真実の追跡の音。
セリアが扉の隙間から外を見て、顔色を変えた。
「ギルドマスター……伝令です」
「何だ」
「銀の百合が……門の前に。人数が多いです」
無音。
真実の報告。
だから、空気が一段冷えた。
バルドが粉の瓶を握り直す。
「――来たか」
嘘のない呟き。
ノアの喉の奥で、刃が鳴った。
(言えば、楽になる)
(言うな)
(……嘘だけ)
ノアは息を吸って、言葉を削った。
「……嘘だけ、です」
自分に言い聞かせる声。
それでも、耳の奥で“ちりん”が鳴った気がした。
どっちだ。
嘘か、真実か。
答えのないまま、門の金具が鳴り、足音がギルドの中へ入ってきた。
扉の向こうから、硬い声が落ちた。
「ギルドマスター。王都守備隊だ。――協力を求める」
きぃん、と鳴るはずの笛が、鳴らない。
誓約の中だからか。
鈴の残響のせいか。
ノアの耳は答えを出せない。
代わりに、幻の鈴だけが鳴った気がした。
ちりん。
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