第15話 嘘の声
ちりん。
夕陽が、煉瓦の壁の縁で砕けた。
朱が薄くなり、影だけが濃くなる。
棒の先の鈴が、もう一度鳴る。
ちりん。
「借りは、借りた声で返せ」
低い声。
嘘じゃない言い方。掟の声。
ノアの喉の下が、返事みたいに鳴った。
ちりん。
(やめろ)
(俺の喉で鳴るな)
外套の内側で、白い欠片がぬるい。
縁の黒い染みから、細い糸が肌へ吸い付いている。
その糸が、言葉の形を欲しがっているみたいに動く。
ミラが半歩前に出ようとして、バルドに肩を押さえられた。
「今日は、お前の嘘じゃ足りない」
嘘のない断言。
ミラは舌打ちする。
「わかってる。……最悪」
「最悪なのは、口だ」
バルドの目がノアを刺す。
「ノア。言葉を削れ。――『黙れ』を出すな」
(出したら)
(楽になる)
(でも、戻れない)
喉の奥で、あの三文字が跳ねる。
舌の先に、刃がいる。
棒の男――鈴の男が、布袋を顎で示した。
「それは“嘘”じゃない。商品だ」
無音の針が刺さる。
真実。だから痛い。
布袋の中。
ガラス瓶が重い。
白い粉の上で黒い豆粒が蠢いている――はずなのに、耳が拾わない。
(俺の耳が)
(もう拾えない)
首元の鈴が鳴るたび、嘘の形が鈍る。
輪郭が、金属音の中へ溶ける。
ちりん。
(欲しい)
(もっと食え)
(もっと静かに――)
「急げ」
棒の男が鈴を鳴らした。
ちりん。
夕陽が、壁の上で沈んでいく。
朱が削れて、紫が増える。
落日まで。
借りを返せなければ、回収。
掟の真実は、反論しない。
ノアは息を吸った。
吸い込んだ空気が冷たくて、肺が痛い。
(言えば)
(全部、終わる)
脳裏に、紙の文字が浮かぶ。
『リディアは真犯人だ』
喉の下の鈴が、ひときわ甘く鳴った。
ちりん。
まるで、その嘘を――待っているみたいに。
ミラがノアの袖を引いた。
「兄ちゃん。……顔」
見上げられない。
見上げたら、言ってしまう気がした。
バルドが、低く息を吐く。
「……声だって言ってる」
「声?」
ミラが眉を上げる。
「嘘を置け、じゃなく?」
「同じだ」
バルドは棒の男を見たまま言った。
「嘘は、声になる。――声にした瞬間に“商品”じゃなくなる」
棒の男は、鈴をひとつ鳴らすだけで答えた。
ちりん。
肯定か、催促か。
区別なんて、させない音。
バルドがノアの首元へ指を伸ばしかけて、止めた。
「触るな。……噛まれる」
「噛まれてるよ、もう」とミラが小声で言う。
嘘がない。
だから、逃げ場がない。
バルドが、布袋の口を開いた。
瓶の口が見える。
ガラスの縁に、黒い糸が嬉しそうに震えた。
ちりん。
「ノア」
バルドが、視線だけで命じる。
(決めろ)
(お前の口だ)
ノアは唇を噛んだ。
血の味がする。
その味が、現実の足場だった。
(母を)
(売れない)
売れば、生きる。
でも、生きて――母の名が死ぬなら、何の意味もない。
喉の奥で、刃が鳴った。
(黙れ)
――違う。
ノアは、舌の先で言葉を削った。
(嘘だけ)
(嘘だけ、だ)
それでも。
返さなければ、首輪は外れない。
棒の男が、もう一度言う。
「借りは、借りた声で返せ」
借りた声。
借りた静けさ。
借りた、楽。
ノアは、目を閉じた。
(静けさなんて)
(欲しくない)
嘘だ。
嘘だから、言える。
ノアは息を吐いた。
「……僕は」
喉の下が、ちりん、と鳴った。
糸が締まる。
(催促するな)
(俺の言葉を)
ノアは、続きを吐き出した。
「……静けさなんて、欲しくない」
きぃん、と本来なら耳が割れるはずの薄い笛。
――でも、笛は鳴らなかった。
ちりん。
首元の鈴が、嘘を叩き潰して金属音に変えた。
喉の縫い目が、一針ほど解ける。
息が、すっと深く入った。
(……楽だ)
楽だと思った瞬間が、いちばん怖い。
ノアは目を開けた。
棒の男の鈴が、同じ高さで鳴っていた。
ちりん。
棒の男は頷きもしない。
ただ、棒の先をノアの喉元へ向けた。
「もう一つ」
無音の針。
真実の要求。
ミラが小さく呟く。
「利息、取り立て早すぎ……」
バルドが短く言う。
「黙れ」
嘘のない刃。
ミラの口が閉じる。
バルドが、布袋から瓶を一本抜き取った。
白い粉の上で、黒い豆粒が蠢く。
ぎぃ……。
――鳴いた。
頭の奥で、紙が擦れる音。
インクが骨を擦る音。
ノアの胃が縮む。
耳じゃない。頭の奥で鳴る嘘。
(虚言蟲)
バルドは瓶をノアの首元へ近づけた。
「声にしろ。……口じゃない。こいつの声だ」
「……どうやって」
言いかけて、首元が鳴る。
ちりん。
(質問してる場合じゃない)
バルドは瓶の蓋を、指先で少しだけ緩めた。
ぱき。
密閉が割れた瞬間――黒い糸が伸びた。
ぬるり。
瓶の口へ。
白い粉の上へ。
黒い豆粒へ。
ぎぃ……が、途中で折れた。
ちりん。
首元が高く鳴る。
糸が、豆粒の嘘を吸い上げている。
黒い豆粒が、乾いたインクの塊みたいに固まっていく。
動かない。鳴かない。
その分だけ、喉が軽い。
縫い目がほどける。
呼吸が、深くなる。
(……やめろ)
(嬉しくなるな)
棒の男の鈴が、同じリズムで鳴った。
ちりん。
棒の男が、初めて口角を動かしたように見えた。
「返ってくる」
返ってくる?
嘘が?
ノアの耳は、もう掴めない。
首元の鈴が鳴るたび、嘘の形が鈍る。
輪郭が、金属音の中へ溶ける。
(俺の耳が)
(鈍る)
バルドが瓶をもう一本抜き取る。
「急ぐぞ。落ちる」
落日が、落ちる。
時間が落ちる。
命が落ちる。
ミラが、布袋の口を押さえて広げた。
「取る。開ける。食う。……繰り返し」
「言葉が雑だ」とバルド。
「雑じゃないと死ぬ」とミラ。
嘘がない。
軽いのに、刺さる。
バルドが瓶の蓋を緩めるたび、糸が伸びる。
豆粒が固まり、鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
一回鳴るたび、喉が一針ほど解ける。
息が深くなる。
吐き気が遠のく。
(……楽だ)
楽だと思うな。
楽は、餌だ。
餌は、首輪だ。
ノアは歯を食いしばった。
(欲しがるな)
棒の男の鈴が、一定の間隔で鳴っている。
数えているみたいに。
帳簿の代わりに。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
夕陽の朱が、最後の一線になった。
(間に合うか)
バルドが、最後の瓶を取り出す。
布袋の底が軽くなる。
代わりに、ノアの喉が――軽すぎる。
(こんなの)
(ずるい)
「……足りた」
棒の男が、初めて言葉を落とした。
無音で刺さる真実。
「返済、完了」
ちりん。
その一音が、終点の鈴だった。
棒の男が一歩近づく。
棒の先の鈴が、ノアの喉元に触れた。
冷たい金属。
皮膚のすぐ上。
ちりん。
黒い糸が、ひゅ、と引かれた。
喉から糸が抜ける感覚。
縫い目がほどけていくのに、痛くない。
むしろ――甘い。
(やめろ)
(これを甘いと思うな)
糸が、白い欠片ごと外される。
ノアの首元から、ぬるい静けさが剥がれた。
――次の瞬間。
きぃん。
ぼん。
ざり……。
王都の嘘が、耳の奥へ一斉に飛び込んできた。
痛い。
針が刺さる。
太鼓が腹を叩く。
擦れた弦が歯の裏で鳴る。
ノアは膝をついた。
石畳が冷たい。
「……っ」
声が出ない。
出したら、吐く。
ミラが背中を叩いた。
「兄ちゃん、息」
バルドが、ノアの外套の内側を指で叩く。
「前の欠片だ。付けろ」
ノアは震える手で外套の内側を探り、別の革紐を引きずり出した。
小さい白い石片。ギルドの欠片。
首に掛けた瞬間、針がほんの少しだけ丸くなる。
――でも、さっきの“甘い静けさ”には戻らない。
(……戻りたくなる)
(これが、毒だ)
棒の男は、外した白い欠片を掌で転がした。
黒い糸が巻き付き、鈴みたいに小さく鳴っている。
ちりん。
棒の男は、それを懐へしまう。
「嘘は返った」
真実の宣告。
だから、終わったはずなのに――
ノアの喉の奥で、まだ鳴る。
ちりん。
幻聴みたいな鈴。
消えない余韻。
(残ってる)
(利息が)
棒の男が、最後に言った。
「餌は、まだある。欲しければ、また来い」
ちりん。
その言葉には嘘が混じっているはずなのに、ノアの耳は掴めなかった。
鈴の余韻が、嘘の形を崩す。
(俺の耳は)
(もう――)
バルドがノアの襟を掴んで引き上げる。
「行くぞ。……落ちた」
落日。
最後の朱が、壁の向こうへ沈んだ。
空が、紫になっていく。
ミラが振り返らずに言う。
「間に合ったね」
嘘のない声。
それが、今は救いじゃなく――重い真実だった。
ノアは頷いた。
頷いたのに、首元が鳴りかけて――鳴らなかった。
(首輪は外れた)
(でも――)
耳の奥で、遠くに腐った和音が滲んだ気がした。
ぎぃ……。
――なのに。
ちりん。
幻の鈴がかぶさって、輪郭が溶けた。
(……どっちだ)
(嘘か、真実か)
答えが分からないまま、夜が降りてくる。
ノアは自分に言い聞かせる。
(言葉を削れ)
(嘘だけ、だ)
(真実は――)
――黙らせない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます