第14話 嘘の納入
ちりん。
店の扉が閉じた。
その音より先に、首の下が鳴った。
返事みたいに、催促みたいに。
――ぎぃ……。
さっきまで廊下に滲んでいた、壊れたオルガンの残響。
追いかけようとした瞬間、鈴がかぶさって、輪郭が溶けた。
ちりん。
(……逃げた)
(いや、いる)
(分からない)
外は、もう夕方の色をしていた。
空の端が薄い朱で、石畳の影が長い。
きぃん。ぼん。ざり……。
王都の嘘が耳を殴る――はずなのに。
殴られた痛みが、丸い。
ちりん。
首元の鈴が、嘘の笛を叩き潰してしまうからだ。
(……静かだ)
静かなほど、怖い。
嘘が聞こえないなら、危険も近づくまで分からない。
ノアは外套の内側を押さえた。
革の下、黒い糸が皮膚に沿って脈を打っている気がする。
ミラが横で歩きながら、鼻を鳴らした。
「兄ちゃん、顔が『楽』って言ってる」
「……言ってません」
「嘘ついたら、首が喜ぶよ?」
ちりん。
鈴が軽く鳴って、喉の縫い目が一針だけ緩んだ気がした。
吐き気が遅れてくる。
(今のは……俺の否定の、どこが嘘だ)
バルドが、歩幅を崩さずに言った。
「喋るな。言葉を削れ」
嘘のない命令。
だからノアは、唇を噛んで黙った。
---
路地を二つ曲がったところで、バルドが立ち止まった。
壁に背を預け、懐から薄い冊子――『納入』の帳簿を開く。
紙の匂い。
古い糊。
インクの湿り。
ノアの耳は拾わない。
代わりに、首元がちりん、と鳴った。
紙に潜んだ嘘を、鈴が先に舐めている。
バルドが指で一行をなぞる。
「……落日前。納入先――銀の百合、第三詰所」
「詰所って、あの堅いとこ?」とミラ。
「堅いのは鎧じゃない。書類だ」とバルドが吐き捨てる。
ノアの胃が縮んだ。
今日、偽物の書類から虫が出た。
偽物が“正式”の顔をして、真実の皮を被る。
バルドは帳簿を閉じた。
「都の嘘の流れは、川と同じだ。上流がある」
「上流、って?」
ミラが聞く。
「納入だ。――嘘を運んでる。運んで、守備隊が使う」
嘘のない言葉が、無音で刺さった。
(母の名前の貼り紙も)
(守備隊の捜索の書類も)
(同じところで作られて、運ばれてる)
ノアは喉の奥が熱くなるのを感じた。
“黙れ”が、いつでも舌の先にいる。
バルドがノアを見る。
「言うな。『黙れ』を出すな」
「……」
頷く。
嘘をつけない頷き――のはずなのに、首元が小さく鳴った。
ちりん。
(首輪は、頷きの中の迷いまで食うのか)
---
川沿いの倉庫街は、冷たい紙の匂いがした。
濡れた木箱。煤。油。インク。
空が、さらに赤くなる。
落日が近い。
そこに、白い百合の紋章があった。
扉の金具に刻まれた小さな印。
見ただけで、胃が固まる。
「……ここ」とバルド。
ミラがフードの奥で笑う。
「守備隊、裏で商売してるんだ」
「黙れ」
嘘のない言葉。
ミラは肩をすくめた。
倉庫の前には、二人の騎士。
槍。鎧。硬い目。
嘘の音は分からない。
首元が鳴るたび、全部が同じ金属音になる。
ちりん、ちりん。
(耳を信じるな)
(首も信じるな)
ノアは息を浅くした。
---
「来たぞ」
バルドが囁く。
通りの端から、荷車が現れた。
布で覆われた木箱が二つ。
御者は市井の男。護衛は鎧の男が一人。
御者が笑いながら言う。
「ただの紙だよ。お偉いさんの“記録”」
ちりん。
鈴が鳴った。
喉がすっと軽くなる。
吐き気が一段だけ引く。
(……嘘だ)
(ただの紙じゃない)
護衛が低く返す。
「口を滑らせるな。――余計なことは書類に残る」
無音。
真実。
その真実が、皮膚の下を冷やした。
バルドが小瓶を取り出す。
白い砂。誓約石の粉。
「合図で撒く。……声を殺す」
「嘘を、じゃなく?」とミラ。
「今は区別してる余裕がない」
ノアの胸が詰まった。
(区別できないのは、俺だ)
---
荷車が倉庫の扉の前で止まった。
鍵の音。金具の音。
その一瞬。
バルドが粉を投げた。
ふわり。
白い雪が、夕陽の中で舞う。
綺麗に見えて、毒だ。
護衛が咳き込む。
御者が口を開けて――声が出ない。
舌が絡む。喉が詰まる。
嘘も真実も、形になれずに落ちる。
ミラが動いた。
影みたいに荷車の後ろへ回り込み、布を剥がす。
ノアも続こうとして、首元が鳴った。
ちりん。
(欲しい)
(食え)
(もっと静かにしろ)
黒い糸が、外套の内側でうごめく。
喉へ、箱へ、伸びたがっている。
ノアは歯を食いしばった。
(楽を欲しがるな)
(これは餌だ)
箱の蓋を少しだけ開ける。
――ぎぃ……。
耳じゃない。頭の奥で紙が擦れた。
インクが骨を擦る音。
虚言蟲の鳴き声。
中には、小瓶がぎっしり詰まっていた。
瓶の底に白い粉。上で黒い豆粒が蠢く。
虚言蟲。
嘘の在庫。
嘘の納入。
ノアの喉が鳴る。
(これを、返せば)
(首輪は外れる?)
次の瞬間、黒い糸が箱の縁へ伸びた。
ぬるり、と瓶の口元を撫でる。
ちりん。
鈴が高く鳴った。
瓶の中の豆粒が、ぴく、と跳ねる。
鳴き声が途中で折れて、鈴の余韻に溶けた。
黒い豆粒は、乾いたインクの塊みたいにガラスに貼りついて動かなくなる。
嘘が、食われた。
喉の縫い目が、二針ほど緩む。
息が、深く入る。
(……勝手に)
(俺の首が)
吐き気が、喜びに似た形で薄れる。
それが、いちばん気持ち悪かった。
ミラが小声で言う。
「兄ちゃん、今、笑った?」
「……笑ってない」
「じゃあ、泣きそう?」
答えられない。
答えたら、また鈴が鳴る。
---
護衛が、粉の雪の中で必死に声を出そうとしていた。
唇が動く。舌が絡む。
それでも、目だけは鋭い。
彼は剣を抜いた。
きん、と乾いた音。
ミラが舌打ちする。
「うわ、真面目。粉、効かない種類?」
「真面目じゃない。真実だ」とバルド。
バルドがノアの腕を掴んだ。
「持て。全部は無理だ。瓶を――多いほどいい」
「……はい」
ノアは瓶を二つ、外套の内側の布袋へ入れた。
黒い糸が嬉しそうに震える。
ちりん、ちりん。
(やめろ)
(喜ぶな)
護衛が叫んだ――ように見えた。
声は出ない。
だが、扉の内側から別の足音がした。
ざり。
ざり。
鎧が増える音。
「来る!」とミラ。
バルドが粉をもう一掴み、床へ叩きつけた。
白が跳ねる。
「走るぞ」
嘘のない命令。
ノアの足が勝手に動く。
---
倉庫街を駆けた。
夕陽が、路地の先を赤く塞いでいる。
影が伸びる。息が白い。
背後で鎧の音が追ってくる。
じゃり、じゃり。
粉で声が出ないはずなのに、足音は止まらない。
目で追われている。真実の追跡だ。
角を曲がった瞬間、前に一人立っていた。
別の騎士。槍を構える。
「止ま――」
言いかけて、喉が詰まった。
粉が残っている。
(今だ)
ノアの口に、“黙れ”が跳ねた。
言えば、槍も足も止まるかもしれない。
でも――嘘だけじゃない。
真実まで切る刃になる。
ノアは、別の言葉を選んだ。
喉が勝手に動いた。
「……後ろだ。倉庫が燃えてる」
ちりん。
鈴が高く鳴った。
嘘が、喉から鈴へ変わる。
息が、また深く入る。
首の縫い目が、ほどける。
騎士の目が一瞬だけ揺れた。
無音。
(疑ってる)
(でも、確かめに行く)
騎士は槍を引き、背後を振り返った。
その隙に、バルドが騎士の脇を押し抜ける。
ミラが、短刀の鞘で膝裏を小さく叩いた。
騎士がよろける。
ノアは走った。
走りながら、自分が吐いた嘘の味を舌の裏で噛んだ。
(俺は、嘘で道を開いた)
(痛くない)
(楽だ)
その楽が、怖い。
---
路地へ滑り込んだところで、バルドが止まった。
息を整える間もなく、ノアの首元を指で叩く。
「今の嘘、二度と使うな。癖になる」
ノアは返事ができなかった。
首元が鳴るからじゃない。
喉の奥で、自分の言葉がまだ鳴っていた。
『燃えてる』
燃えていないものを、燃えてると言った。
(嘘は簡単だ)
(真実は、刺さるのに)
ミラが外套の内側の布袋を見た。
「瓶、取ったね。……足りる?」
バルドが帳簿を一度だけ叩く。
「足りるかは、市が決める」
市。
鈴守。
掟の場所。
ノアの胃が縮む。
---
煉瓦の壁。
落書き。
苔。
見覚えのある行き止まりに戻ってきた。
あの階段の入口。
空はもう、朱と紫の境目。
落日が、近い。
階段の上段に、あの棒の男が立っていた。
棒の先の鈴が、ちりん、と鳴る。
「返済だ。嘘を返せ」
バルドが黒い札を見せた。
「返しに来た。――嘘の納入だ」
ノアは布袋の中の瓶の重さを感じた。
嘘の在庫。
嘘の束。
母の名が印刷される前の嘘。
男は鼻で笑った。
ちりん。
「それは“嘘”じゃない。――商品だ」
無音の針が刺さった。
(商品)
(嘘が、商品)
(俺の首も、商品)
棒の男が、ノアの首元を見る。
「首輪、鳴ってるな」
ちりん。
首元が返事をした。
黒い糸が、喉の下で締まる。
「借りは、借りた声で返せ」
ノアの喉がきゅっと縮んだ。
(声)
(嘘を、吐けって)
ミラが半歩前に出ようとして、バルドに止められた。
「今日は、お前の嘘じゃ足りない」とバルド。
棒の男が鈴を鳴らす。
ちりん。
「落日までだ。――急げ」
夕陽が、壁の上で沈みかけていた。
朱が薄くなる。
時間が削れる。
ノアの唇が震えた。
(吐けば、楽になる)
(吐けば、首がほどける)
(でも――)
脳裏に、紙の一文が浮かぶ。
『リディアは真犯人だ』
喉の下の鈴が、ひときわ甘く鳴った。
ちりん。
まるで、その嘘を待っているみたいに。
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