第12話 嘘の仕入れ

ちりん。


首の下で、小さな鈴が鳴った。


耳じゃない。

喉のすぐ下。外套の内側。

皮膚の近くで、嘘が金属になって揺れている。


ノアは目を開けた。


ギルド宿舎の天井。

木目の節。

昨日までと同じはずなのに、世界の音だけが違う。


――静かだ。


廊下の足音。

遠い笑い声。

それだけ。


きぃん、も。

ぼん、も。

ざり……も、ない。


(……耳が、壊れた?)


ちりん。


答えるみたいに首元が鳴る。

外套を指で押し下げると、白い欠片の縁に黒い染みが見えた。

そこから細い糸が、肌へ吸い付いている。


首輪。

借り。

利息。

餌。


ノアは喉を撫でた。

縫い目みたいな冷たさが指に引っかかる。


(落日まで)

(嘘を返す)


――返す、って何だ。

嘘は吐いたら終わるものだと思っていた。

耳が痛いからじゃない。

吐いた瞬間に、世界が汚れるからだ。


でも今は。


ちりん。


吐いても痛くない。

汚れが鈴に変わる。


それが、いちばん気持ち悪い。


---


「兄ちゃん、起きてる?」


扉の隙間から、ミラの声が入ってきた。


「起きてます」


言った瞬間、首元が鳴りそうで身構える。

――鳴らない。


ミラは嘘をついていない。

だから、安心した……と思った自分が嫌だった。


ミラが部屋に入ってくる。

パンを二枚、片手に持っている。

いつも通りの顔。


「朝。バルドが呼んでる」


「……落日まで、ですよね」


「うん。落日まで」


ミラはパンをかじりながら、ノアの首元をちらりと見た。


「それ、まだ鳴る?」


「……鳴ります」


ちりん。


答えの代わりみたいに鳴った。

ミラが眉を寄せる。


「うわ。返事する首輪、嫌」


「……僕もです」


「嘘ついた?」


「……」


言い返せない。


嫌だ。

でも――同時に、楽だ。


外の嘘の洪水を、全部鈴に変えてくれるなら。

喉を縫われても、耳が守られるなら。


(楽だと思うな)


ノアは自分に言い聞かせた。


---


一階のカウンター前。

セリアが白い小瓶を二つ並べて待っていた。


誓約石の粉。

雪みたいな白。


「追加です。……市の外でも、粉は効きます。ただし」


セリアは目を伏せて言う。


「鈴守には、完全には効きません」


「分かってる」


バルドが短く答えた。


嘘のない声。

その“硬さ”が、今は救いだった。


バルドはノアを見る。


「行くぞ。今日は“嘘”を仕入れる」


「……仕入れる」


「盗むじゃない。買うでもない」


バルドは外套の裾を指で弾いた。


「“食わせる”。首輪にだ」


ちりん。


首元が、嬉しそうに鳴った気がして、ノアは吐き気を堪えた。


バルドが続ける。


「耳を当てるな。聞き分けようとするな。――鈴が邪魔をする」


「……はい」


「そして」


バルドの目が細くなる。


「軽い嘘を自分で吐くな。首輪は利息を欲しがる。お前が吐けば吐くほど、首は楽になる。……楽は、餌だ」


ノアは頷いた。

嘘をつけない頷き。


ミラが小さく言う。


「でもさ、兄ちゃん。楽にならないと死ぬ時もあるよ」


嘘がない。

だから、刺さる。


---


ギルドの裏口を出た瞬間、王都の空気が刺さった。


冷たい。

乾いている。


そして――うるさい。


きぃん。

ぼん。

ざり……。


嘘の笛、嘘の太鼓、嘘の擦れた弦。


(来た)


ノアは反射で肩をすくめた。

首元の欠片を握りしめる――より早く。


ちりん。


鈴が鳴った。


きぃん、が。

ぼん、が。

ざり……が。


鈴の薄い金属音の向こうで、ぼやけた。


耳が痛いはずなのに、痛みが一段だけ丸くなる。


(……楽だ)


喉の奥が、甘くなる。

息が、深く入る。


ノアは歯を食いしばった。


(楽だと思うな)

(これは、借りだ)


ミラが横から覗き込む。


「顔、戻った」


「戻ってません」


「戻ってる。さっきより吐きそうじゃない」


ノアは否定できなかった。


---


紙の匂いが濃くなっていく。

古いインク、濡れた糊、煤。


通りの壁には、貼り紙。

噂の切れ端。

誰かの人生の切り抜き。


ぎぃ……。


紙が、頭の中で鳴った。

虚言蟲の音。


(ここだ)


バルドが、露店のひとつの前で止まった。

小さな台の上に、紙束。

薄い冊子。『真実』と題字が踊っている。


売り子の男は笑って言った。


「お客さん、良い噂あるよ。銀の百合が――」


ちりん。


鈴が鳴った。


男の言葉に混じっていた笛が、途中で折れる。

折れて、鈴の余韻に吸い込まれる。


ノアは息を呑んだ。


(今、食った)

(俺の首が、こいつの嘘を)


売り子の男は気づかない顔で続ける。


「――少年の捜索、“書類”が回ったらしい。隊長が本気だってさ」


無音。


真実。


ノアの胃が縮んだ。

鈴は鳴らない。


(……本当の方が、刺さる)


バルドが売り子を見下ろす。


「虚言蟲を扱ってるか」


売り子の笑みが固まった。


「何の話だい? 虫? 俺は紙しか――」


ちりん。


また鳴った。


ノアの首の糸が、わずかに緩む感触がした。

縫い目が一針ほどほどけたみたいに。


(……利息)

(嘘を食った分だけ、緩む)


バルドが紙束を指先で弾く。


「紙しかない? ……なら、この糊の匂いは何だ」


売り子の目が泳ぐ。


「糊は……普通の、だよ」


ちりん。


三度目の鈴。

今度は高く、軽かった。薄い嘘。


売り子は観念したみたいに肩を落とす。


「……裏だよ。裏路地の古書店。そこに行けば」


無音。


真実。


(……嘘と真実を混ぜてる)


ノアの耳は、もう区別できない。

嘘の笛が鳴っても、首元の鈴が叩き潰す。


バルドは売り子に銀貨を一枚投げた。


「口止め料だ。――嘘で儲けてるなら、嘘で払え」


売り子は銀貨を掴み、黙った。


ノアの首元が、ちりん、と小さく鳴った。

まるで「もっと」と言うみたいに。


---


裏路地に入った瞬間、鎧の音が近づいた。


じゃり。

じゃり。


銀の百合。


ノアの背筋が凍った。

反射で「黙れ」が喉の奥まで上がる。

――出しかけたところで。


バルドが腕を引いた。


「下を見るな。歩け」


嘘のない命令。

だから身体が動く。


角を曲がった先に、二人の騎士。

白い紋章。硬い目。


「待て。ギルドの外套だな」


騎士の声は平坦だった。

嘘の音が……分からない。

鈴が邪魔をする。


バルドが回収札を見せた。


「ギルドの雑務依頼だ。貼り紙回収」


「少年の捜索をしている。顔を見せろ」


騎士の視線が、ノアに刺さる。

無音の針。

真実の警戒。


ノアは、顔を上げるのが遅れた。


(見られたら終わる)

(でも、嘘は吐けない――)


違う。

今は吐ける。


首元の鈴が、ちりん、と鳴った。


(……吐ける)

(痛くない)


喉が勝手に動いた。


「……僕は、探している少年じゃありません」


ちりん。


鈴が高く鳴った。


耳が痛くならない。

代わりに、喉の縫い目が一針ゆるむ。

息が、少しだけ楽になる。


(……今のが)

(俺の嘘)


ノアは、自分が吐いた嘘を飲み込めなかった。

飲み込めないのに、痛くない。


騎士はノアの顔を一度見て、眉を動かした。


「……行け。だが、怪しい動きをしたら拘束する」


「承知した」


バルドの返事に嘘はない。


三人は、歩幅を崩さず通り過ぎた。

角を曲がった瞬間、ノアの膝が笑った。


ミラが小声で言う。


「兄ちゃん、今の……」


「……言うな」


バルドが短く切った。


嘘のない刃。

ノアは口を閉じた。


(俺は、嘘で助かった)

(首輪が、俺の嘘を食った)


吐き気が遅れてくる。

でも、首元は少し楽で――その“楽”がいちばん怖い。


---


古書店は、表向きはただの埃の匂いだった。


扉を押すと、店の鈴が鳴る。


ちりん。


――首元の鈴と、区別がつかない。


ノアの背筋が冷えた。


(どれが俺の鈴だ)

(どれが店の鈴だ)

(どれが嘘だ)


棚の影から、男が顔を出した。

インクの染みた指。

半分だけの仮面。


市で見た顔。


「いらっしゃい。……おや」


男の声には、嘘の鈴が混ざる。

ちりん、ちりん、と軽い。


「神聴の子だ」


無音。


真実。


ノアの喉が詰まる。

バルドが前へ出る。


「虚言蟲を撒いてるのは誰だ」


男は肩をすくめた。


「俺は売ってるだけ。……昨日も言ったよね?」


ちりん。


嘘。


なのに、どこが嘘か分からない。

鈴が全部同じ音で鳴る。


男の視線が、ノアの首元へ落ちる。


「……ああ。首輪、付いたんだ」


無音。


真実。


ノアは外套の襟を掴んだ。

黒い糸が、くすぐるように動く。


男が、楽しそうに言う。


「仕入れに来たんだろ? 嘘。――落日までに必要なんだ」


無音。


真実が、並べられる。

逃げ場がない。


ミラが、短刀の柄に指を置く。


「ねえ。あんた、親切だね。嫌」


男は笑う。


「親切じゃない。商売だ」


ちりん。


嘘。


男が棚の奥から一枚の紙を取り出した。


母の名。

リディア。

黒々と。


ぎぃ……。


紙が鳴る。

頭の中が軋む。


男が囁いた。


「これ、まだ増えるよ。今日も増える。明日も増える」


無音。


真実。


(やめろ)


男の指が、紙の端を叩く。


「止めたい?」


ちりん。


甘い嘘。


「止めたいなら、簡単だ。君が一つ、大きい嘘を吐けばいい」


ノアの喉が熱くなる。


(嘘を吐けば)

(鈴が吸う)

(痛くない)

(首が楽になる)


男が、まるで“真実”みたいに言った。


「――リディアは真犯人だ」


ちりん。


首元が、高く鳴った。


喉の縫い目が、きゅっと締まる。

催促。

餌。


ノアの視界が白くなる。


(言ったら)

(母は都で、また殺される)

(でも言わなきゃ)

(俺が、回収される)


バルドの声が、刃みたいに落ちた。


「――ノア。見るな。聞くな。口を閉じろ」


嘘のない命令。


ノアは唇を噛んだ。

血の味がした。


男の笑いが、店の埃に混ざる。


ちりん。


「選べる顔だね。……落日までに、答えを持ってきな」


棚の影が、さらに濃くなった。


外で、鎧の音がした。


じゃり。


銀の百合。


ノアの首元の鈴が――


ちりん、と一拍だけ高く鳴った。


(……来る)


扉の外の足音が、まっすぐこの店へ向かってくる。


嘘の都が、静かに牙を剥いた。

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