第11話 嘘の利息

ちりん。


誓約室の扉の前で、首元が鳴った。


耳じゃない。喉の下、外套の内側。皮膚のすぐ近くで、鈴が呼吸に合わせて小さく揺れている。


そして――


ぎぃ……。


誓約の静けさのはずの廊下に、壊れたオルガンみたいな“嘘”が滲んだ。


「いい取引だね。――利息だけで一日買えるなんて」


扉の影から、リュシアンが現れた。

声は柔らかい。笑い方も丁寧だ。


なのに、耳の奥が削られる。


(ここにいるだけで、汚れる)


バルドが一歩前へ出る。背の高い影が、リュシアンを覆い隠す。


「……ここはギルドだ。勝手に入るな」


「勝手に入ったつもりはないよ」


ぎぃ……が、薄く鳴った。

“つもり”の部分だけ、濁りがある。


ノアがその濁りを掴もうとした瞬間――首元が鳴った。


ちりん。


鈴が、嘘の和音の上にかぶさる。

音の輪郭が、鈴の中へ引きずり込まれるみたいに崩れた。


(……え?)


ノアは息を止めた。

今、嘘の位置が――分からない。


背後で、小さな足音が止まる。


「ギルドマスター……!」


セリアだった。両腕に黒い木箱を抱えている。

芯の欠片が入った箱だ。重さに肩が震えているのに、声は澄んでいる。嘘がない。


バルドは振り向かずに言う。


「来るなと言ったはずだ」


「……すみません。でも、今は――」


セリアの視線が、ノアの首元に落ちる。

鈴が、ちりん、と鳴った。


「誓約室なら、芯を出せます。ホールで出せば“呼ぶ”と……」


「分かっている」


バルドは短く答え、扉を押した。


---


誓約室の空気は、冷たい。

石と鉄と、蝋の匂い。

吸い込むだけで舌が乾く、喉が重くなる匂いだった。


部屋の中央には白い石の台座がある。天秤の紋章。

近づくだけで、嘘が喉で詰まる感覚が増す。


(……ここなら)


ノアは反射で期待した。

嘘の笛も太鼓も、ここでは薄くなる。いつもそうだった。


――なのに。


ちりん。


首元の鈴だけが、誓約の内側でも平然と鳴った。

誓約が嘘を殺しても、鈴は嘘じゃない顔をして残る。


リュシアンは、当然のように室内へ入ってきた。

台座から半歩、いや一歩。距離を測っているみたいに、慎重に立つ。


「安心して。ここで契約を迫るつもりはない」


ぎぃ……。


(嘘だ)


ノアがそう思った瞬間――また鈴が鳴った。


ちりん。


ぎぃ……が、途中で折れて、鈴の余韻に変わる。

嘘が“鈴”に化ける。耳が、判別できない。


ノアの背筋が冷えた。


(俺の耳が……)

(俺の耳が役に立たない)


ミラが、フードの影からノアを見上げる。


「……兄ちゃん、今の、聞こえた?」


「……聞こえた。けど」


ノアは喉を鳴らした。言葉が出にくい。誓約室の圧だ。


「嘘が、鈴になった」


バルドの目が細くなる。


「首輪が食ったか」


リュシアンは楽しそうに頷いた。


「そう。首輪は“嘘”を食う。利息としてね」


「利息だと?」


バルドの声が、さらに低くなる。


「借りは残る。首輪も残る。――利息だけで一日買えたのは、君たちが置いた嘘が良かったからだ」


ミラの肩が、ほんの一瞬だけ跳ねた。


ノアも思い出す。扉の外。夜気。鈴守の前。

ミラの声。


『私、ぜんぜん怖くない』


きぃん、という薄い笛が鳴るはずだったのに、鈴が叩き潰した。

痛みが減って、糸が退いた。


あれは――利息だった。


「……あの欠片」


バルドが言った。ノアの外套の内側を顎で示す。


「お前が渡した誓約石だな。最初から鈴守の糸を食わせる気だった」


リュシアンは否定しない。

否定しないまま、言葉を選ぶ。


「“食わせる”は言い方が悪いね。……君は欲しかったんだろう? 少しだけ効く欠片。少しだけ楽になる静けさ」


その言葉には、嘘の音がない。

真実は無音で刺さる。


ノアは外套の襟を掴み、欠片の縁を指先でなぞった。

黒い染み。黒い糸。ぬるり、と生き物みたいに動く。


(餌だ)

(静けさは餌だ)


「目的を言え」


バルドが机代わりの小棚に粉の瓶を置く。白い砂がさらりと鳴る。

誓約石の粉。嘘を殺す雪。


リュシアンはノアを見る。


「返済には“嘘”が要る。君は嘘が吐けない」


ノアの喉がきゅっと縮んだ。


(それを言うな)

(それを言われたら、逃げ場がない)


リュシアンが続ける。


「でも、今は――嘘が吐ける」


ノアは反射で首を振りかけた。

その瞬間、首元が鳴る。


ちりん。


喉が引かれる。縫い目が、締まる。


「君が嘘を吐けば、鈴が吸う。耳は痛まない。……痛みが減るってことは、君にとって“ご褒美”だ」


ちりん。


甘い音が、喉の裏を撫でた。

気持ち悪いのに、身体が少しだけ楽になるのが分かる。


(やめろ)

(それは、俺が一番欲しいやつだ)


バルドの手が、ノアの襟を掴んだ。


「ノア。聞くな。……耳を信じるな」


「え……?」


「首輪は嘘を鈴にする。鈴になった嘘は、聞き分けられない。――お前の耳が鈍る」


嘘が聞こえない。

静けさ。

望んだはずのもの。


なのに、胸が冷える。


(静かになったら)

(俺は、殺される)


ミラが、唇を噛んだ。


「……ごめん。私が嘘を置いたせいで」


「違う」


ノアは首を振った。

違わない。けど、違うと言いたい。


ミラの声は、この都で初めての“救い”だった。

嘘の音がしない声。濁りのない音。


その救いが、薄い笛になって残っているのが――痛い。


ノアは息を吸った。


「……ミラ。怖かったんですか」


ミラは笑わなかった。

フードの影の目が、真っ直ぐ揺れた。


「怖いよ。ずっと」


嘘の音がない。

真実が、無音で刺さる。


「でも、怖いって言ったら、兄ちゃんが止まると思った。だから嘘をついた」


ノアは返せなかった。

止まるかもしれない。止まったら回収される。


バルドが咳払いして、空気を切る。


「話は後だ」


嘘のない現実が、短く落ちる。


「落日まで時間は買った。だが、解決じゃない。返済は市でしかできない。――首輪も市でしか外れない」


リュシアンが頷く。


「そう。最初から決まってる。返す場所も、返す形も」


バルドが睨む。


「返す嘘がない」


「あるよ」


リュシアンは軽く言った。軽いのに、重い。


「都中に溢れてる。嘘は歩いてる。――首輪は食う。食わせれば、糸は緩む」


ノアは思った。


(嘘を集める)

(誰かの嘘を食わせる)

(それで、生き延びる)


母の声が、頭の奥で反響する。


『正しさは人を救うけど、同時に、あなたを殺すわ』


正しさじゃない。

でも――生きたい。


バルドが言い切った。


「やるなら、相手を選べ」


ノアの目を、まっすぐ見る。


「噂屋だ。守備隊だ。嘘で飯を食ってる奴らから、嘘を取れ。――誓約で縛るな。『黙れ』は言うな」


ミラが小さく呟く。


「嘘泥棒……」


「返済だ」


バルドは即答した。


リュシアンが、満足そうに笑った。

笑い声は綺麗で、鈴だけが鳴る。


ちりん。


その音が、腹の底を撫でる。

静けさが、餌みたいに甘い。


バルドが背を向け、扉へ歩き出す。


「行くぞ。……落日までに“嘘”を用意する」


ノアも歩き出そうとして、足が止まった。

耳が、何も拾わない。代わりに、首元だけが鳴る。


ちりん。


リュシアンが、最後に言った。


「ノア。明日までに返せる嘘が用意できなかったら――君は回収される」


無音。真実。


次に、同じ優しさで続けた。


「でも大丈夫。君はもう、嘘が吐ける」


ちりん。


鈴だけが鳴った。


ノアの耳は、何も言わなかった。


(……どっちだ)

(今のは、嘘か、真実か)


答えが分からないまま、鈴の余韻が喉を縫う。

静けさが、少しだけ気持ちよくて――その気持ちよさが、いちばん怖かった。

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