第10話 嘘の返済
ちりん。
扉の向こうの鈴は、嘘じゃない。
そう思った瞬間、首が引かれた。
ちりん。
喉の皮が内側から縫われるみたいに、鈴が鳴る。ノアは息を吸い損ね、膝が揺れた。
「――嘘を返せ」
低い声。鈴が先に届く。
ホールの空気が固まる。酒と汗の匂いだけが残る。冒険者たちの視線が刺さる。嘘はない。だから痛い。
ノアの口が勝手に形を作った。
(黙れ)
その瞬間、指が口を塞いだ。
ミラの手。細くて冷たい。フードの影から、目だけが光る。
「言うな、兄ちゃん」
「……っ」
声が出ない。鈴が鳴った。ちりん。
バルドの声が重く落ちた。
「――いい。喋るな。口を閉じろ」
嘘のない命令。だから身体が従う。ノアは唇を噛んだ。血の味がした。
扉が、どん、と叩かれる。
どん。
どん。
鈴の音より重い。木が軋む。金具が悲鳴を上げる。
「嘘を返せ」
ちりん。
首元の鈴が応えるみたいに鳴った。黒い糸が、外套の内側でうごめく感触。喉へ向かって縫い目を作ろうとする。
(引っ張られてる)
縄じゃない。真実みたいな糸だ。
バルドが一歩前へ出て、ノアの襟を掴んだ。
「引かれるな。――踏ん張れ」
背中の革が軋む。ノアは壁に肩を当て、必死に踏ん張った。
ミラが舌打ちする。
「切れない?」
短刀の刃が、黒い糸に触れた。
ぎっ。
刃が滑った。糸は、刃の“正しさ”を拒むみたいに、しなって戻る。
「うわ、最悪」
ミラが顔をしかめる。嘘のない本音。
バルドがカウンターの方へ目配せした。
「セリア!」
「はい!」
セリアが駆けてくる。顔色は白いのに、声は澄んでいる。嘘がない。
彼女の腕に、黒い木箱。重そうで、両腕が震えていた。
「……芯です。支部の誓約石、芯の欠片」
箱の蓋が開く。
白い。冷たい。掌の倍はある石片。天秤の紋章。見ているだけで、喉が乾く。
嘘が喉で詰まる。あの感覚が、空気に満ちていく。
(……これが、ギルドの芯)
セリアが唾を飲み込む。
「ギルドマスター、ここに置けば――」
「置くな」
バルドは即答した。
「ここで芯を出せば、外の連中が“芯”を嗅ぐ。……呼ぶべきじゃないものまで呼ぶ」
嘘がないから、理由を聞けない。
バルドは扉を見る。
扉の隙間から、鈴が鳴る。
ちりん。
「――出る」
バルドが言った。
ノアの喉が鳴る。
「……出るって」
「ここで壊されるよりマシだ。ギルドは市場じゃない。だが、門でもない。――交渉はする」
交渉。嘘がない場所で。
セリアが息を呑む。
「でも、外で――」
「芯は出すな。粉を持て」
バルドは布袋を叩く。小瓶が鳴った。白い砂。誓約石の粉。
ミラが笑った。
「交渉って言っても、相手が鈴だよ」
「黙れ」
バルドの言葉は刃みたいだ。嘘がないから、笑えない。
バルドが扉へ手を伸ばした。
ノアの首元の鈴が、ちりん、と高く鳴った。
(来る)
扉が開く。
冷たい夜気が流れ込む。外の嘘の笛が、太鼓が、擦れた弦が、一斉に耳の奥を叩いた。
――痛い。
なのに、首元の鈴が同じ場所で鳴って、針が少しだけ丸くなる。
全部じゃない。少しだけだ。
(……?)
ノアは息を吸った。痛いけど、さっきより息が入る。
外に立っていたのは二人。
黒い外套。白い仮面。口元に縫い付けられた鈴。
息をするたび、ちりん、と鳴る。
嘘の音はしない。
代わりに、鈴が嘘そのものみたいに響く。
鈴守の一人が、ノアを指差した。
「嘘を返せ」
鈴が先に届く。言葉は後から追いかけてくる。
バルドが一歩前へ出る。扉の敷居の上。ギルドの内と外の境目。
「ここはギルドだ。回収をするなら、手続きを踏め」
鈴守が首を傾げた。
「手続き?」
「誓約」
バルドが短く言う。
鈴守の仮面が、わずかに揺れた気がした。
「誓約は、嘘を殺す」
「ここでは嘘は通貨じゃない。――それだけだ」
バルドは粉の瓶を軽く持ち上げた。見せつけるように。
鈴守の鈴が、ひとつだけひきつった。
ちりん。
(効くんだ)
効く。けれど、止まらない。鈴守は嘘じゃない“掟”で動いている。
もう一人が言った。
「掟を踏んだ。借りが出来た」
借り。
その言葉は、無音で刺さる真実だった。
ノアの首元の鈴が、ちりん、と鳴る。
(借り)
(だから、首輪)
バルドが言った。
「何を借りた」
鈴守は一拍置いた。
「市の嘘」
バルドの眉が動く。
「市の嘘?」
「誓約を撒いた。嘘の虫を黙らせた。――嘘を奪った」
奪った。
ノアの胃が縮む。
(奪ったのは、噂だ)
(母の名前を殺す噂だ)
でも、相手にとっては“都を回す嘘”。
鈴守が続ける。
「返せ。嘘を」
バルドは息を吐いた。
「返す方法は」
鈴守の口元の鈴が鳴る。
ちりん。
「嘘をひとつ置け」
ノアの背中に汗が走った。
(嘘を)
(ここで)
無理だ。
ギルドの敷居に誓約がある。ここで嘘を吐けば、舌が絡む。
ミラが横から前に出た。
「じゃあ、置くよ。嘘」
バルドが低く言う。
「……中で言うな」
「わかってる」
ミラは扉の外へ、半歩だけ出た。
夜気の中。誓約の圧が薄くなる。
ノアの耳が、嫌な予感で熱くなる。
ミラが鈴守を見上げる。
「じゃ、ひとつ」
ミラは一度だけ息を止めた。
フードの影のまま、笑わない顔で口を開く。
ノアは反射で耳を塞ぎそうになって、指を止めた。
(聞くしかない)
ミラが言った。
「私、ぜんぜん怖くない」
きぃん。
薄い笛。
嘘の音。
ノアの奥歯が軋んだ。耳の奥が熱い。吐き気が込み上げる――はずなのに。
ちりん。
首元の鈴が、嘘の笛を上から叩いた。
音が、笛じゃなく鈴に変わる。
(……吸われた?)
ノアは息を吸った。
痛みが、ほんの少しだけ減っている。
鈴守の鈴が、ひとつ鳴った。
ちりん。
そして、ノアの首元の鈴が――一拍、遅れて鳴った。
ちりん。
黒い糸が、喉から少しだけ退いた。縫い目が緩む。
ミラが肩をすくめる。
「ほら。置いた」
バルドの目が細くなる。
「……お前」
ミラはバルドを見ない。
「言ったでしょ。後で説明するって」
嘘のない声だった。
鈴守が言う。
「利息だ」
利息。
その言葉も、真実だった。
「借りは残る。首輪は残る。――返す場所は市だ」
ノアの喉が鳴った。
「……いつまで」
言いかけた瞬間、鈴が鳴る。ちりん。
鈴守が答えた。
「明日の落日まで」
落日。
時間が決まる。
真実は、無音で刺さる。
鈴守はバルドを見た。
「ギルドが庇うなら、ギルドの借りになる」
バルドが笑わないまま言った。
「庇う。――だが、借りは俺が背負うものじゃない。本人が返す」
鈴守が首を傾げる。
「本人は、嘘が吐けない」
ぎくり、とノアの心臓が跳ねた。
(知ってる)
(こいつらは、知ってる)
鈴守は続ける。
「なら、連れていく」
ミラの短刀の柄が、きし、と鳴った。
バルドが粉の瓶を握り直す。
白い砂が揺れた。誓約の雪。
鈴守の鈴が、ひきつった。
ちりん。
「――掟は、取引も許す」
鈴守は低く言った。
「落日まで。返済があれば、回収はしない」
回収。
その言葉が、喉の裏を冷やす。
バルドは一拍置いて言った。
「いい。落日までだ」
鈴守は頷いた。
「嘘を返せ」
最後に、それだけを残して、二人は夜の闇へ溶けるように下がった。
扉が閉まる。
ギルドの匂いが戻る。麦酒。汗。革。皿の音。
嘘のない喧騒。
――なのに。
ちりん。
首元の鈴だけが残った。
ノアは外套の内側へ手を突っ込み、黒い糸の感触を確かめる。
まだいる。
緩んだだけだ。
ミラが、背中を向けたまま言った。
「ごめん。兄ちゃん」
ノアの喉が鳴る。
謝罪に、嘘はない。
だから余計に刺さる。
「……どうして」
ノアが言うと、鈴がちりん、と鳴った。
催促みたいに。
ミラは振り向いた。
フードの影の目が、真っ直ぐだった。
「嘘は、必要な時がある」
「……僕の耳は」
「知ってる」
ミラは即答した。
「だから、今までつかなかった。兄ちゃんの前では、つきたくなかった」
ノアは何も言えなかった。
(嘘がないだけで)
(この子の声は、救いだった)
その救いが、今、薄い笛になって残っている。
バルドが二人の間に割って入る。
「今は話すな。――落日まで時間は買った。だが、解決じゃない」
嘘のない現実。
「誓約室へ行く。芯を戻す。首輪を封じる準備をする」
「封じるって……」
ノアが言いかけると、バルドが睨んだ。
「喋るな。言葉を削れ」
嘘のない命令。だから、ノアは口を閉じた。
階段へ向かう。
ホールの冒険者たちが道を開ける。
視線に嘘はない。
ただ、警戒の真実が刺さる。
その刺し針の中で、ノアは気づいた。
(さっき)
(ミラの嘘)
(痛くなかった)
首元の鈴が、嘘の笛を鈴に変えた。
(……この首輪は)
(嘘を奪う)
(俺の耳からも)
静けさは、餌だ。
餌は、首輪だ。
誓約室の扉の前で、バルドが立ち止まった。
「ノア」
ノアは顔を上げる。
「お前が“黙れ”と言えば、借りは消えるかもしれない。――だが、それは真実を切る。都を切る。ギルドも切る」
バルドの声は硬い。
「落日まで、言うな。……言ったら、戻れなくなる」
ノアは頷いた。
嘘をつけない頷き。
その時。
首元の鈴が、ちりん、とひときわ高く鳴った。
そして、耳の奥で――
ぎぃ……。
壊れたオルガンの嘘が、誓約の静けさの中に滲んだ。
ノアの背筋が凍る。
(……ここに)
(もう、いる)
扉の影から、優しい声が笑った。
「いい取引だね。――利息だけで一日買えるなんて」
ぎぃ……。
リュシアンが、笑っていた。
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