第9話 嘘の首輪
ちりん。
首元で、鈴が鳴った。
耳じゃない。
喉の下、外套の内側。
皮膚のすぐ近くで、嘘が鈴の形をして揺れている。
ノアは振り返れなかった。
振り返ったら――言ってしまう気がした。
「黙れ」と。
背後から、優しい声が落ちてくる。
「おかえり。――やっぱり噂屋は君を好きだね」
ぎぃ……。
壊れたオルガンの嘘が、夜の路地に滲んだ。
誓約石の欠片を首に掛けているのに、薄くならない。
むしろ、輪郭がはっきりする。
(リュシアン)
ミラが、ノアの前に半歩出た。
短刀の柄に指を置く。
「好きって言葉、便利だね。相手が嫌がってても言える」
「君は手厳しい」
「嘘じゃないし」
ミラの声に嘘はない。
軽いのに、逃げ場がない。
バルドが、空気を切るみたいに一歩前へ出た。
「用件を言え。……ここは市じゃない」
「市じゃなくても、都は同じさ。嘘が歩いてる」
リュシアンの笑いに、ぎぃ……が混ざる。
ちりん。
鈴が鳴るたび、ノアの喉がきゅっと縮む。
声を出す場所が、縫われているみたいに。
ノアは外套の内側へ手を突っ込み、白い欠片を掴んだ。
リュシアンが渡した“少しだけ効く”誓約石。
冷たいはずなのに、ぬるい。
指先に、湿った黒が絡む。
黒い染み。
黒い糸。
糸は欠片の縁から、するり、と這い出していた。
細く、しつこく、喉へ向かって縫い目を作ろうとするみたいに。
ちりん。
(首輪だ)
バルドの目が細くなった。
「……付いたな。鈴守の糸」
ミラが顔をしかめる。
「やだ、それ。名前からして嫌」
リュシアンが穏やかに言った。
「市に誓約を持ち込んだ。粉まで撒いた。嘘の虫も黙らせた。――掟を踏んだんだよ」
言葉に嘘はない。
だから、胃が縮む。
「掟を破った客には、首輪が付く。目印。追跡。回収」
「回収って……」
ノアが言いかけると、鈴がひとつ鳴った。
言葉を選ぶだけで、催促されている気がする。
リュシアンが、ノアの手元を見て笑った。
「返すんだ。嘘を」
(嘘を返せ)
市の入口で言われた。
出口でも言われた。
嘘が鍵で、嘘が通貨で、嘘が掟。
(俺には無理だ)
(嘘をついた瞬間、耳が俺を殴る)
バルドがノアの手首を掴んだ。
「触るな。……噛まれる」
「噛む?」
「誓約を食う。喉も食う」
短く、嘘のない断言。
ノアは息を止めた。
(誓約を食う)
(だから、誓約石に付いた)
(だから、鈴が鳴る)
路地の奥で、ざり、と足音がした。
湿った弦を引きずる音。
市で聞いた足音。
近い。
ミラが囁く。
「……来る」
バルドが歯を噛んだ。
「ここで外す。ギルドに持ち込めば、ギルドまで引っ張る」
ノアの背筋が冷える。
(セリアが)
(誓約石が)
(ギルドの静けさが、汚れる)
バルドは布袋から小瓶を取り出した。
白い砂――誓約石の粉。
瓶の口を開け、ノアの首元へそっと振りかける。
ふわり。
冬の粉雪みたいに、白が舞った。
ちりん。
鈴が、一拍だけひきつった。
バルドはナイフを抜き、黒い糸へ刃を当てた。
ぎ、と刃が滑る。
切れない。
糸が、刃の“真実”を拒んでいるみたいだった。
バルドが、低く吐き捨てる。
「……チッ」
そして、ノアを見る。
「ノア。黙らせろ。――“嘘だけ”でいい。余計なものに触れるな」
余計なもの。
真実。
ノアは唾を飲み込んだ。
(嘘だけ)
(嘘だけ黙らせれば――)
ノアは息を吐いた。
「……嘘だけ、黙れ」
吐息みたいな声。
空気が、すっと冷える。
――なのに。
ちりん。
鈴が、普通に鳴った。
ノアの視界が白くなる。
(止まらない)
(嘘じゃない?)
バルドの眉が動く。
「……掟だ」
リュシアンが、楽しそうに頷いた。
「そう。これは“嘘”じゃなくて“借り”だ。鈴守の真実」
真実。
無音で刺さる言葉。
ノアの喉の奥が熱くなる。
(じゃあ、外すには――)
(“嘘だけ”じゃ足りない)
(“黙れ”が必要だ)
“嘘だけ”を外せば、真実が消える。
あの日、貼り紙の一文が消えたみたいに。
一瞬、世界が軽くなる。
その軽さが、気持ちよくて。
その気持ちよさが、怖い。
ノアの口が、勝手に形を作りかけた。
「……」
バルドの指が、襟を掴んで締める。
「――言うな」
嘘のない命令。
だから、喉が閉じた。
路地の奥の足音が、また近づく。
ざり。
ミラがノアの腕を引いた。
「兄ちゃん。今は走る。説明は後で」
ノアはミラを見た。
(後で)
(後でって、いつだ)
薄い笛が、胸の奥で一瞬だけ鳴った気がした。
――ミラの嘘の残り香。
でも、今は掴めない。
バルドが言い切る。
「戻るぞ。誓約室で封じる。……追わせるなら、ギルドの中の方がマシだ」
三人は走った。
嘘の笛が刺さる。
嘘の太鼓が腹を叩く。
嘘の擦れた弦が歯の裏で鳴る。
その上に、鈴が混ざる。
ちりん。
ちりん。
首元が、引きずられているみたいだった。
---
ギルドの裏口が開いた。
扉の向こう。
麦酒の匂い。革の匂い。皿の音。
嘘のない喧騒。
嘘の笛が、すっと遠のく。
太鼓も、弦も。
――なのに。
ちりん。
鈴だけが残った。
ノアの背筋が凍る。
(誓約の中でも鳴る)
(これ、誓約の外側にいる)
バルドが低く言った。
「セリアを呼べ。……芯を出す」
「はい!」
近くにいた職員が駆ける。
冒険者たちがこちらを見る。
視線に嘘はない。
ただ、警戒の真実が刺さる。
ノアは首元の鈴を握りしめた。
握ったところで、音は止まらない。
(言えば楽になる)
(言ったら戻れない)
階段の方へ向かおうとした、その瞬間。
表の扉が、外から叩かれた。
どん。
どん。
どん。
鎧の音じゃない。
――鈴の音だ。
ちりん。
ホールの空気が、一段冷えた。
バルドが扉の方を睨み、吐き捨てる。
「……来やがったか」
扉の向こうから、低い声が落ちた。
鈴が先に届く。
ちりん。
「嘘を返せ」
ノアの喉が鳴った。
返せ。
嘘を。
借りを。
静けさを。
そして――もし言えば、真実を。
ノアの口が、勝手に形を作った。
(黙れ)
(……)
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