第8話 嘘の鈴
鈴の音が、いくつも消えた。
地下の熱が、息を止めたみたいに固まる。
赤い灯は揺れているのに、揺れが鈍い。
ざり。ざり。
湿った弦を引きずるような足音が、輪になって近づいてくる。
フードの影。顔のない人形みたいな群れ。
ノアの喉の奥に、さっき言いかけた「だ」が、まだ引っかかっていた。
口を開けば、続きを言ってしまう。
襟を掴んでいるのはバルドだ。
逃げるな。喋るな。そう言われている気がした。
「さあ。証明してよ」
半面の仮面の男が、楽しそうに両手を広げた。
ちりん、と鈴みたいな嘘が鳴る。
「君が“黙れ”と言えば、真実は消える」
その言葉だけ、鈴が鳴らない。
無音の針が胸に刺さる。
(やめろ)
真実は反論しない。
だから、広がる。
バルドの指が強くなる。
「――言うな」
嘘のない命令が、喉を縛った。
ノアは歯を食いしばる。
唇の裏が切れて、血の味がした。
その時。
人の波の奥で、腐った和音が笑った。
ぎぃ……。
「いいね。その顔。……選べる顔になってきた」
優しい声。
耳の奥を削る、壊れたオルガン。
(リュシアン)
見たくないのに、見てしまう。
灯の向こう、壁にもたれかかる影。
輪郭だけが嘘みたいにぼやけている。
ミラがノアの前に半歩出た。
「ねえ。証明ってさ、料金いる?」
「市は親切だよ。見せてくれるなら、ただだ」
ちりん。
甘い嘘。
ミラは笑わない。
「ただで人を見世物にするの、悪趣味」
「趣味じゃない。仕事だ」
鈴がもう一度鳴った。
ざり、ざり。
輪が狭くなる。
一番近いフードの影が腕を伸ばしてきた。
ノアは反射で一歩下がり、首元の欠片に指が触れた。
外套の内側。少し大きい白い欠片――“甘い救い”。
(……楽だ)
楽だと思った瞬間が、怖い。
「来い」
バルドが短く言った。
袖の内側から小瓶を取り出す。
白い砂。誓約石の粉だ。
「本物ほど強くない。だが、吸い込ませれば――」
言い終えるより先に、バルドは瓶の口を開け、粉を空へ放った。
ふわり。
白い雪が舞う。
赤い灯に照らされて、夜に降る粉雪みたいに見えた。
――ちりん。
鈴が、ひとつだけ欠けた音を立てた。
甘い音じゃない。金属が裂けるみたいな尖った音。
フードの影たちが、同時に咳き込む。
「……っ、く……」
口は動くのに、声が出ない。
舌が絡む。
ギルドの“静けさ”が、薄くここに降った。
ざわ、と市の空気が揺れた。
「誓約……?」
誰かが言いかけて、言えなくなる。
嘘の鈴が、あちこちでひきつる。
仮面の男の目が、初めて細くなった。
「……おい。ここでそれは――」
言い切れない。
喉が詰まる。
(効いてる)
粉は嘘を殺す。
虫だけじゃない。喉の中の嘘も。
ざり、ざり。
輪の一人が無言で飛びかかってきた。
声が出ない分、動きが早い。
ミラが腰の短刀を抜いた。
刃が光った瞬間、ノアの耳の奥で別の音が鳴った。
ぎぃ。
紙が擦れる音。
インクが骨を擦る音。
(……人間じゃない)
フードの影の袖口から、黒い糸が伸びていた。
床を這い、柱を這い、仮面の男の足元へ繋がっている。
操り糸。
白い粉が糸に付着すると、糸がぴん、と跳ねた。
湿った弦が震える。
「っ――」
仮面の男が反射で手を引く。
糸が緩み、影がぐらりと崩れた。
フードの下。
見えたのは、人の顔じゃない。
紙を丸めたみたいな塊。
黒い染み。
その中心に、豆粒みたいな虫がいくつも蠢いていた。
虚言蟲。
(こいつらで、体を作ってる……)
吐き気が込み上げる。
ミラが舌打ちした。
「うわ。ほんとに虫」
「見るな!」
バルドの声が飛ぶ。
だが遅い。
紙の塊が、ぱき、と裂けた。
中から黒い豆粒が、雨みたいに飛び散る。
ぎぃ……ぎぃ……。
嘘のオルゴールが、いくつも鳴った。
壁に貼り付き、露店の紙束に潜り、床を這う。
市全体に嘘が撒かれる。
仮面の男が笑った。
「ほら。都は噂で回る」
ちりん。
甘い鈴。
その甘さが腹の底を撫でた。
気持ち悪いのに、目を離せない。
(母の名も、こうして増やしてる)
虫がミラの足元へ跳ねた。
黒い糸を伸ばし、外套の裾に絡みつく。
ミラが一歩退く。
「兄ちゃん、来てる!」
虫が今度はノアの手首へ跳ねた。
触れた瞬間、頭の中で紙が鳴った。
ぎぎっ。
吐き気が喉まで上がる。
(うるさい)
(黙れ)
舌が勝手に形を作る。
(嘘だけ)
(嘘だけだ)
ノアは息を吐いた。
「……嘘だけ、黙れ」
吐息みたいな声。
なのに、空気がすっと冷えた。
ぎぃ……という音が、途中で折れる。
飛び散った虫が、同時に固まった。
黒い豆粒が乾いたインクの塊になり、ぽとり、ぽとりと落ちる。
さっきまで鳴っていた嘘のオルゴールが、沈黙した。
――静かだ。
その静けさの中で、鈴が狂った。
ちりん、ちりん、ちりん。
甘い音が尖る。
笑い声が悲鳴に変わる。
「市に誓約を持ち込むな!」
誰かが叫んだ。
嘘の鈴が鳴らない。真実の怒鳴り声だ。
(まずい)
誓約の粉。
そして、嘘を黙らせる声。
この市にとって、どちらも毒だ。
赤い灯が一斉に揺れた。
布の向こうで、鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
鈴が近づいてくる。
同じ高さ。歩幅が揃っている。
「鈴守だ」
バルドが低く言った。
人の波が割れる。
現れたのは二人。
全身を黒い外套で覆い、顔は白い仮面。
口元に小さな鈴が、縫い付けられている。
息をするたびに、ちりん、と鳴った。
ノアの背筋が凍る。
(こいつら――嘘の音がしない?)
違う。
嘘が上手いんじゃない。
嘘そのものが、鈴になっている。
鈴守の一人が首を傾げた。
「嘘を返せ」
言葉は低いのに、鈴だけが先に届く。
もう一人が、仮面の男を見た。
「売り手。掟を破った」
仮面の男が肩をすくめる。
「客が持ち込んだんだ。俺は――」
言い切れない。
粉が喉に残っている。
鈴守が手を上げた。
指先に黒い糸が集まる。
さっきの操り糸より太い。
人を縫える太さだ。
ミラが小さく呟いた。
「……あれ、嫌」
「走るぞ」
バルドがノアの腕を掴んだ。
嘘のない命令。
だから、身体が動いた。
三人は露店の間を駆けた。
人が避ける。悲鳴が弾ける。
鈴が追いかけてくる。
ちりん、ちりん、ちりん。
背中に糸が飛ぶ。
空気が裂ける音。
バルドが外套の裾を翻し、粉をもう一掴み、後ろへ撒いた。
白い雪が舞う。
鈴が一瞬ひきつった。
糸が途中で止まる。
――だが、切れない。
(鈴守の嘘は、誓約の外にいる?)
ミラが角を曲がった。
「こっち!」
布の裏。露店の背中。
人の匂いが濃い。
出口が見えた。
煉瓦の壁。あの階段。
――なのに、壁が閉じかけている。
煉瓦が、じり、と戻り始めていた。
「閉まる!」
ミラが叫ぶ。
階段の上段にいた、鈴の男が鈴を鳴らした。
ちりん。
「封鎖だ。通りたいなら、嘘をひとつ置いていけ」
(また、嘘を……)
ノアは唾を飲み込む。
嘘をついた瞬間、耳が自分を殴る。
ミラが肩をすくめた。
「はいはい。じゃあ、もう一個」
鈴の男を見上げて言う。
「私、兄ちゃんの妹です」
きぃん。
薄い笛。
二つ目の嘘。
ノアの胃が縮んだ。
ミラはノアを見ない。
見ないまま、口元だけで言った。
「後で説明する。今は走れ」
鈴の男が鈴を止めた。
「通れ」
煉瓦が開く。
暗い階段が口を開ける。
バルドが黒い札を壁に押し当てた。
沈んだ煉瓦が、最後まで開いた。
三人は階段を駆け上がる。
背後で鈴が狂う。
ちりん、ちりん、ちりん。
鈴守の足音が、階段を叩いた。
(追ってくる)
上。
夜の冷気。
地上に飛び出した瞬間、王都の嘘が耳を殴った。
きぃん。
ぼん。
ざり……。
笛と太鼓と擦れた弦。
――その中に混じった。
ちりん。
小さな鈴。
近い。
耳じゃない。
首元だ。
ノアは反射で外套の内側に手を突っ込んだ。
白い欠片。
さっき掛け替えた方。
指先に、ぬるりとした感触。
(……なに)
欠片の縁。
黒い染みがじわりと広がっている。
そこから、細い黒い糸がほんの少しだけ覗いていた。
ぎぃ……。
微かな、壊れたオルガンの残響。
ノアの背筋が凍った。
(餌だ)
(静けさは、餌だ)
背後で、優しい声が笑う。
「おかえり。――やっぱり噂屋は君を好きだね」
ぎぃ……。
リュシアンの嘘が、夜の路地に滲んだ。
ノアは振り返れなかった。
首元の鈴が、ちりん、と鳴ったからだ。
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