第7話 嘘の市

夕暮れの光が、ギルド支部長室の窓を薄橙に染めていた。


机の上には、白い石片。

黒い札。

そして――革紐に括り付けられた、もう少し大きい白い欠片。


ノアの指先は、その欠片の手前で止まったままだ。


触れれば、楽になる。

この都の嘘の針が、もっと丸くなる。


(餌だ)

(でも、餌を食わなきゃ――)


「手を引け」


バルドの声は低く、硬い。

嘘がない命令は、刃物みたいに逃げ場がない。


ノアは息を吐いて、指を引っ込めた。

掌が汗で湿っていた。


ミラが机の縁に頬杖をつく。


「兄ちゃん、欲しいんでしょ」


「……欲しい、です」


嘘をつけないから、言えた。

言えた瞬間、恥ずかしさが遅れてきた。


ミラは笑わない。


「じゃあ、持っていけば? 使うかどうかは、倒れそうになってから決めればいい」


それも、嘘がない。


ノアは革紐を取り、外套の内側にしまった。

首にはまだ、バルドがくれた欠片がある。


(“少しだけ”でいい)

(少しだけ――)


バルドが黒い札を指で弾いた。


「日が落ちたら行く。噂屋の“市”だ」


ノアの喉が鳴る。


「……リュシアンの言う、市ですか」


「他にどこの市が“嘘”の匂いをさせる」


バルドは短く息を吐き、ノアを見た。


「いいか。外では誓約が薄い。耳がうるさくなる。……だが、もっと厄介なのは耳じゃない」


ノアは首元の石片を握った。


バルドが言う。


「口だ。軽く開けるな。特に――」


一拍置いて。


「『黙れ』を言うな」


ノアの喉がきゅっと縮んだ。


(言わなきゃ、死ぬ時が来る)

(言えば、何かが死ぬ)


「合図があるまで言うな」


バルドは布袋を持ち上げた。

中から小瓶が鳴る。誓約石の粉。


「虚言蟲の仕入れ元を掴む。……回収依頼の続きだ。理由がいると言ったな」


理由。

都で生きるための紙切れ。


ミラが小さく言った。


「夜のお仕事」


「遊びじゃない」


「わかってる。……遊びじゃないから、嘘がいっぱい」


嘘のない言い方が、怖かった。


---


出発前。

一階のカウンターでセリアが待っていた。


「こちらを」


差し出されたのは、黒い外套だった。

フード付き。袖の内側に天秤の刺繍。


「ギルドの外套です。目立ちません」


ミラが刺繍を指でなぞる。


「目立たないって、刺繍で言い張るスタイル」


「規約です」


セリアは困った顔で、でも嘘のない声で答えた。


ノアはその“嘘のなさ”に、少しだけ救われた。

都の外へ出る前の、最後の静けさ。


セリアが小瓶をもう一つ押し付ける。


「誓約石の粉、追加です。……市の中は、噂が多いから」


「嘘が、商品になる場所だ」


バルドが補足する。


セリアは頷いた。


「はい。……ノアさん、無理はしないでください。昨日みたいに、“真実”まで」


ノアは頷いた。

嘘をつけない頷き。


---


裏口の扉を押した瞬間、夜の冷気が刺さった。


冷たい。

乾いている。


そして――うるさい。


きぃん。

ぼん。

ざり……。


嘘の笛、嘘の太鼓、嘘の擦れた弦。


首元の石片が針を丸めても、痛い。

痛いから、吐き気が続く。


ミラが横から覗き込む。


「兄ちゃん、顔」


「……吐きません」


「吐かない顔じゃない」


ノアはフードを深く被った。

暗いだけで、少しだけ楽だ。


バルドが先を歩く。

迷いなく、路地の影を縫う。


煤の匂いが濃くなった。

古い紙の匂いが混ざる。


甘い香の煙。


そして――嘘の音が変わった。


ちりん。


鈴の音みたいな軽い音。

刺さらない嘘。


(……甘い)


甘い嘘ほど、喉の奥に残る。


ミラが小声で言う。


「ここ、嘘が上手いね」


「上手いんじゃない。売ってる」


バルドの声は硬い。


---


行き止まりの壁の前で、バルドが止まった。


煉瓦。落書き。苔。

入口なんてない。


バルドは黒い札を壁に押し当てた。


ごり、と鈍い音。


煉瓦が沈み、隙間が開く。

暗い階段が口を開けた。


三人が降りようとした瞬間、階段の上段に影が立った。


背が高い男。

顔は布で半分隠れている。

手には棒。棒の先に小さな鈴。


ちりん。


男の声は低い。


「通行証は?」


バルドが黒い札を見せる。


男は一瞬だけ頷き――次に言った。


「それは札だ。通行証は別だ」


ミラが眉を上げる。


「別?」


鈴が鳴った。


ちりん。


「嘘をひとつ」


ノアの心臓が跳ねた。


(嘘を、置いていけ)


誓約石が嘘を縛る場所がギルド。

嘘が鍵になる場所が、市。


逆だ。

反対だ。


男は淡々と言う。


「ここは嘘の市だ。入るなら、嘘を置いていけ。――本当の名でも、素性でも、何でもいい」


ノアの喉がきゅっと縮んだ。


(無理だ)

(嘘をついた瞬間、耳が俺を殴る)


バルドが低く言う。


「……そんな決まりは聞いていない」


「知らないなら帰れ」


嘘のない声音だった。


空気が詰まる。

鈴の音だけが軽い。


ミラが、ため息をひとつ吐いた。


「面倒」


そして男を見上げ、平然と口を開いた。


「私は――噂屋の娘です」


その瞬間。


ノアの耳の奥で、初めて“ミラの嘘”が鳴った。


きぃん。


薄い笛。

門番の嘘に似た、細い針。


ノアの視界が一瞬、白くなる。


(……嘘)

(ミラが)


ミラは表情を変えない。

ただ、こちらを見ずに言った。


「兄ちゃん。行くよ。ここで立ってたら、目立つ」


男が鈴を止めた。


「通れ」


嘘が、門になる。

嘘が、鍵になる。


ノアの足が固まった。

でも、バルドの背が先に進む。


ノアは唇を噛み、ミラの背中を追った。


ミラの嘘の笛が、耳の奥に残って離れない。


(この都で、嘘の音がしない人間なんて――)


いないのか。

それとも、嘘をつかないだけなのか。


---


地下の広間は、熱かった。


人の熱。

灯の熱。

嘘の熱。


赤い灯が布越しに揺れている。

露店みたいな台が並び、紙束、瓶、金属札、骨の欠片――

何に使うのか分からないものが山積みだった。


囁きが波になる。

笑い声が泡になる。


その泡に、嘘の鈴が混ざって降ってくる。


ちりん、ちりん、ちりん。


(吐きそう)


首元の石片が針を丸める。

でも、鈴は丸まらない。

刺さらないから、余計に厄介だ。


ノアは外套の内側に手を入れた。

ポケットの白い欠片に触れる。


冷たい。


(餌だ)

(でも、ここで倒れたら終わりだ)


ノアは歯を食いしばって、欠片を首にかけ替えた。


瞬間。

嘘の鈴が、一段だけ遠のいた。


完全な静けさじゃない。

でも、息が深く入る。


(……楽だ)


楽だと思った自分が嫌だった。


ミラが囁く。


「顔、戻った」


ノアは返せなかった。

ミラの嘘の笛が、まだ耳の奥で鳴っている。


---


市の奥へ進むほど、売り物が露骨になっていく。


瓶の中でうごめく黒い豆粒。

白い粉の上で、ぎぃ……と鳴く。


虚言蟲。


(売ってる)


ミラが鼻を鳴らす。


「昨日のやつの親戚、多すぎ」


「仕入れだ」


バルドの声は硬い。


「見るな。触るな。買うな」


嘘のない命令。


ノアの目は、勝手に一つの台に吸い寄せられた。


白い紙。

黒い文字。


『追放された悪女リディア。王城暗殺事件の真犯人』


ぎぃ……。


紙が鳴った。

インクが骨を擦る音。


ノアの喉が鳴る。


(また)


台の向こうにいるのは、半面の仮面をつけた男だった。

笑っているのに、目が笑っていない。


「いらっしゃい。噂、買う?」


声は軽い。

嘘の鈴が、ちりん、と鳴る。


バルドが仮面の男を見下ろした。


「虚言蟲を撒いてるのは誰だ」


男は肩をすくめる。


「さあ? 俺は売ってるだけ」


ちりん。

鈴が二つ。


(嘘だ)


男の視線が、ノアへ滑った。


「……ああ、なるほど」


男が楽しそうに言った。


「神聴の子、来たんだ」


無音の針が、胸に刺さった。


(……真実)


嘘が混じっていない。

知っている。

確信している。


バルドの手が布袋へ伸びかけて止まった。

粉を出したところで、口は縛れない。


男はさらに言葉を重ねる。


「聞こえる? 嘘の音」


嘘の鈴が鳴る。

挑発の嘘。


「……それだけじゃないよね」


次の言葉だけ、鈴が鳴らなかった。


無音。

真実。


「君、真実も黙らせられる」


ノアの胃が縮んだ。


(言うな)

(それを言うな)


真実は反論しない。

だから広がる。

広がった瞬間、狩りが始まる。


ノアの口が、勝手に形を作りかける。


(……黙れ)

(黙れと言えば、この真実は――)


バルドの声が刺さる。


『軽く口を開けるな』


ノアは唇を噛んだ。

血の味がした。


ミラが、台の紙を指で弾いた。


「それ、兄ちゃんの母ちゃんの名前で金取るの、趣味悪いね」


男が笑う。


「趣味じゃない。仕事だよ。都は噂で回る」


ちりん。

鈴が鳴る。


「都は噂で回る」――そこは嘘じゃない。

言い方が嘘なだけだ。


男は紙束の奥から瓶を取り出した。

黒い豆粒が、ぎぃ、と鳴く。


「欲しい? これがあれば、噂は増える。真実は減る」


嘘の鈴が甘く鳴った。

甘い嘘は、痛い。


バルドが一歩前へ出る。


「――値段の話はするな」


男の笑みが広がった。


「市で値段の話をするなって? 変なの」


バルドの目が細くなる。


「お前は変じゃないのか」


嘘のない言葉。


男は肩をすくめ――視線を周囲へ投げた。


その瞬間、市の空気が変わった。


笑い声が遠のく。

囁きが細くなる。


代わりに、足音が増えた。


ざり。

ざり。


湿った弦の音。


ノアは振り返った。


人の波の隙間から、フードの影がいくつも近づいてくる。

顔が見えない。


――ぎぃ。


壊れたオルガンの残響が、一つ。


(……来た)


嘘の市に、腐った嘘が混ざる。


ミラが小さく笑う。


「歓迎されてる」


バルドが低く言った。


「逃げ道を作れ。……ノア、喋るな」


喋るな。

でも、喋らなきゃ終わる。


囲まれていく。

逃げ道が細くなる。


仮面の男が、楽しそうに言った。


「さあ。証明してよ」


嘘の鈴が鳴る。

甘い嘘。


「君が“黙れ”と言えば、真実は消える」


無音の針が刺さる。

それが真実だと、自分が知っているから。


ノアの唇が震えた。


「……」


声が喉の奥で引っかかった。


(言うな)

(言ったら、もう戻れない)


それでも舌が形を作る。


「……だ――」


バルドの手がノアの襟を掴んだ。


「――言うな」


嘘のない命令。


その瞬間。


人の波の奥で、壊れたオルガンがひときわ大きく鳴った。


ぎぃ……ぎぃ……。


誰かが笑った。

優しい声で。


「いいね。その顔。……選べる顔になってきた」


ノアの心臓が、嫌な音を立てた。


(リュシアン)


嘘の市の灯が揺れる。


鈴の音と、腐った和音が重なって――

夜が、さらに深くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る