第6話 嘘の取引

ぎぃ……。


ギルドの静けさに、腐った和音が混ざった。


麦酒の匂いも、笑い声も、いつも通りのはずなのに。

その音が鳴った瞬間だけ、空気がひやりと薄くなる。

誓約石の白い静けさの中に、黒いインクを垂らしたみたいに。


ノアは首元の石片を握った。

冷たいはずの欠片が、指の熱でぬるくなっている。


(来た)


バルドがカウンターの奥から出て、机板を指で一度叩いた。

それだけでホールが自然に黙るのが、怖い。

嘘がない命令は、刃物みたいだ。


「セリア。扉。全部だ」


「……はい」


セリアが頷き、奥で金具の音が鳴った。

表の扉、裏口、二階への扉。

閉める音が連なっていく。


ミラがフードの影で、楽しそうに言う。


「閉めても無駄だよ。あれ、鍵、嫌いじゃないし」


「黙れ」


バルドは短く言った。


ミラは肩をすくめた。


「嘘じゃないのに」


嘘じゃない。

だから、刺さる。


バルドがノアを見る。


「――来い。喋るな。余計なことを言うな」


余計なこと。

つまり――“黙れ”だ。


ノアは喉の奥がきゅっと縮むのを感じながら、頷いた。


---


二階へ上がる階段は、いつもより重かった。


一段ごとに、ぎぃ……が近づく。

嘘の和音が、壁の木目に染みているみたいに。


バルドの部屋の扉の前で、ノアは足を止めた。

扉の隙間から、あの音が漏れている。


(中にいる)


扉が、勝手に開いた。


ぎぃ。


紙とインクと古木の匂い。

机の上には――白い石片が置かれていた。

掌ほどの欠片。首にかけるものとは違う、“誓約”の芯に近い冷たさ。


窓際の椅子に、影。


「お帰り。初仕事、どうだった?」


柔らかい声。

――同時に、壊れたオルガンみたいな嘘。


ノアの胃が縮む。

誓約の石が机にあるのに、この音は鳴る。

この男の嘘は、誓約の外側にいる。


ミラが先に入って、椅子に腰を下ろした。


「見てたの? 趣味、悪いね」


「観察だよ」


影――リュシアンが笑う。

笑顔の形だけは綺麗で、音だけが汚い。


バルドは入ってすぐ、扉を閉め、鍵を回した。


意味があるのか、わからない。

でも、やらないよりはマシだと思いたかった。


バルドは椅子に座らず、机の向こうに立ったまま言う。


「用件を言え。……二度と来るなと言った」


「言ったね。だから、用件を言う」


リュシアンの視線が、ノアへ滑った。


「君の子が――今日、真実を黙らせた」


ノアの背中に汗が走った。


(知ってる)

(でも、言葉にされると、逃げられない)


バルドの声が硬い。


「誰が漏らした」


「漏らした? ……君は俺を“人間の噂屋”と同じにしないでほしいな」


嘘の音が、ぬるりと鳴った。

自分を飾る嘘。

でも、“噂屋じゃない”の部分は、妙に静かだった。


(噂屋じゃない)

(じゃあ、何だ)


リュシアンは椅子に座ったまま、淡々と言う。


「君は知ったはずだ。『黙れ』の重さを。――“嘘だけ”を外した瞬間、何が消えるか」


ノアの喉が詰まる。


あの一文。

銀の百合が自分を捜索している、という真実。

消えた瞬間、世界が軽くなって――次に来たのは、冷え。


(真実は、無音で刺さる)

(だから、抜けた時、気持ちいい)


気持ちいい、なんて思った自分が、嫌だった。


ミラが頬杖をつく。


「で? また“静けさ”を餌にするの?」


「君は直球だね」


リュシアンが笑う。

嘘の音が笑いに混ざる。


バルドが机の上の誓約石片に指を置き、石を少しだけノア側へ寄せた。

空気が重くなる。

嘘が喉で詰まる、あの感覚。


「目的は。――契約か」


「契約だ」


リュシアンが言い切るまでに、ほんの一拍だけ引っかかった。

誓約の重さ。

嘘の音が、少しだけ濁る。


それでも、彼は続けた。


「君の異能は珍しい。《神聴》。嘘が音になる。そして、君はそれを黙らせられる。……今は、真実までな」


その言葉に嘘はない。

だから怖い。


「都は君を狩る。守備隊は、もう“書類”を用意している」


無音の針が刺さる。


(書類)

(正しい形で殺しに来る)


バルドが鼻で笑った。


「随分と詳しいな」


「俺は“都”に詳しい」


そこに嘘が混じる。

都の味方でも、敵でもない言い方。

都そのものみたいに。


リュシアンは懐から黒い札を取り出し、机の上を滑らせた。

薄い金属。天秤の刻印。

以前置かれたものと同じ――なのに、触れたくない。


さらにもう一つ。

小さな革紐。白い石片が括りつけられている。


ノアの視線が吸い寄せられた。


(……誓約石)

(もう少し静かになる)


リュシアンが穏やかに言う。


「それを渡す。君の首の欠片より、少しだけ効く。嘘の針が、もっと丸くなる」


嘘の音が、甘く鳴った。

甘い嘘は、痛い。

痛いのに、欲しくなる。


(欲しい)


ノアは自分の指が動きそうになるのを、必死に止めた。


リュシアンが続ける。


「代わりに、今夜ついて来い。噂屋の“市”が開く。虚言蟲を撒いている手を掴む。……そして、君は選ぶ」


「選ぶ?」


ミラが眉を上げた。


リュシアンの目が細くなる。


「黙らせる相手を。嘘だけか。真実までか」


ノアの耳の奥が熱くなる。


(やめろ)

(それは、俺の中の一番汚い部分を撫でる言い方だ)


バルドが一歩前へ出た。


「ノアを連れて行くなら、誓約で縛れ。ここで誓え。――『こいつを道具にしない』と」


リュシアンが口を開く。


「俺は――」


言葉が止まった。

喉が詰まる。

誓約石片が、嘘の逃げ道を塞いでいる。


リュシアンは笑って息を吐いた。


「君は意地が悪い。誓えないことを知っていて、言わせる」


嘘の音が短く鳴った。

“知っていて”が嘘だ。

バルドは知っている。だからこそ、言わせている。


バルドの目が細くなる。


「誓えないなら、帰れ」


「帰るよ」


リュシアンはゆっくり立ち上がった。

歩くたびに、部屋の隅が汚れていくみたいに嘘が増える。


そして、優しい声で言った。


「一つだけ忠告だ。――君はもう、軽く口を開けない方がいい」


嘘の音が、わずかに薄い。

珍しい。

本気の忠告なのかもしれない。


「“黙れ”は、刃だ。嘘だけなら剣。真実までなら――」


リュシアンは一拍置いて、笑った。


「都そのものを切れる。だから、都は君を欲しがる」


扉の方へ向かいながら、彼は振り返った。


「ノア。リディアの名は餌だ。……君を釣るための」


ノアの喉が鳴った。


(母の名を、餌に)


リュシアンは最後に、柔らかく言った。


「静けさが欲しいなら、来い。欲しくないなら――明日、守備隊が来る前に逃げろ」


扉が閉まる。


ぎぃ……。


残響だけが、部屋に残った。


---


ノアは机の上の革紐を見た。


白い石片。

甘い救い。


触れれば、少しだけ楽になる。

少しだけ――生きやすくなる。


バルドが手を伸ばしかけて止めた。

ノアに視線を刺す。


「触るな、と言いたい。……だが、お前の首だ。お前が決めろ」


ミラが机の縁に頬杖をついた。


「兄ちゃん。行くの?」


ノアは答えられなかった。

嘘をつけないから。


行かない、と言えば――それは嘘になる気がした。

行く、と言えば――それも嘘になる気がした。


(俺は、まだ決めてない)

(でも、決めないまま、母の名は貼られる)


窓の外で、きぃん、と嘘の笛が鳴った。


母の名前を呼ぶ声だった。


ノアは首元の石片を握りしめた。

冷たいはずの欠片が、また温い。


バルドが低く言う。


「今夜、俺も行く。……勝手に死なれると、ギルドの面子が悪い」


ミラが笑った。


「素直じゃないね、マスター」


「黙れ」


嘘のない言葉。


ノアの胸が少しだけ楽になる。

それが怖い。


机の上の黒い札が、ほんの小さく鳴った気がした。


ぎぃ……。


――来い、と。


ノアは革紐へ手を伸ばした。


指先が触れる直前で、止めた。


(静けさは、餌だ)

(でも、餌を食わなきゃ、生きられない)

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