第5話  嘘の初仕事

ギルドの宿舎の天井は、低い。

木目の節が、じっとこちらを見ているみたいで、ノアは目を逸らした。


――静かだ。


廊下の足音。

遠い笑い声。

どれも、普通の音。


嘘の笛も、嘘の太鼓もない。

耳の奥が熱くならない。


(……眠れる)


そう思って目を閉じた瞬間。


きぃん。


胸の奥で、針が一本だけ鳴った気がした。


(……嘘じゃない)


嘘の音ではない。

でも、無音のまま刺さる何か――“真実”の感触。


ノアは息を止めた。


壁の向こう。王都のどこか。

母の名前が、今も貼られている。


――見ないふりをすれば、楽になる。

でも、見ないふりをしたら、母は都で何度でも殺される。


ノアは布団の端を握り締めた。


『正しさは人を救うけど、同時に、あなたを殺すわ』


母の声が、頭の奥で反響する。


(……正しさじゃない)

(ただ、黙らせたいだけだ)


眠気が遅れてくる。

静けさは甘い。

ノアはその甘さに沈んだ。


---


「兄ちゃん、起きて。飯」


翌朝。

ミラが布団の上に座っていた。


「……飯?」


「うん。ギルドの飯」


ミラの目は完全に覚めている。

嘘のない目。


(この子、切り替えが早い)


ホールに降りると、簡素な朝食が並んでいた。

黒パン。薄いスープ。硬いチーズ。


豪華じゃない。

でも、口に入れると温い。


嘘の音がない食事は、味がわかる。

ノアはスープを飲みながら、自分の耳たぶを指でつまんだ。


(痛くない)


それだけで泣きそうになる。

泣くのは嫌だ。泣けば余計に目立つ。


「おかわりある?」


ミラが平然と聞いている。

しかもパンを二枚目に突入している。


「……朝から元気ですね」


ノアが言うと、ミラは口の端にパン屑をつけたまま笑った。


「元気じゃないと死ぬから」


嘘の音がない。

軽い言い方なのに、刃みたいに刺さる。


ノアはそれ以上言えなかった。


---


食器を返し終えた頃、バルドが現れた。


「行くぞ」


それだけ。

嘘のない命令。


セリアがカウンターの奥から道具箱を抱えて出てきた。

手袋。ヘラ。布袋。――小さなガラス瓶。


瓶の底に、白い砂が敷かれている。


「誓約石の粉です」


セリアが小さく言った。


「本来、持ち出しは禁止なんですが……ギルドマスターの許可が出ました。虚言蟲を持ち帰るなら、これが必要です」


バルドが短く頷く。


「瓶の中に入れろ。嘘の虫は、誓約石が嫌いだ」


ミラが瓶を揺らしてみる。


「虫、粉で弱るんだ」


「粉じゃなくて“誓約”だ」


バルドの言葉は硬い。

嘘がないから、反論できない。


ノアは道具箱の中の灰色の札に気づいた。

天秤の刻印。


「それは?」


「回収札だ。巡回兵に見せろ」


バルドはノアを見た。


「お前は今、王都守備隊に追われている。だが、ギルドの依頼で動くなら“理由”になる。……理由がない奴は、狩られる」


理由。

生き延びるための、紙切れ。


(俺は、理由で生きるしかない)


セリアが地図を広げた。

印がいくつか。


「今日の回収対象は四枚です。昨日の三枚に加えて、今朝一枚増えました」


増える。

その言い方が、やっぱり嫌だ。


---


ギルドの扉を押した瞬間、外の空気が刺さった。


冷たい。乾いている。

そして――うるさい。


きぃん。

ぼん。

ざり……。


嘘の笛、嘘の太鼓、嘘の擦れた弦。

街の雑音の“上”に、薄い膜みたいに乗っている。


ノアは反射で肩をすくめた。

首元の石片が、針を丸める。

それでも、痛い。


ミラは平然と前を歩く。


「兄ちゃん、顔、また『吐きます』」


「……吐きません」


「嘘ついた」


嘘の音はしない。

単なる指摘が、容赦なく刺さる。


---


最初の貼り紙は、ギルドから近い通り角だった。


――『追放された悪女リディア。王城暗殺事件の真犯人』


ぎぃ……。


壊れたオルゴールの音。

頭の中で鳴る。


ノアは目を細めた。


(……また)


ミラが手袋をはめる。


「昨日みたいに、兄ちゃんが溶かして、私が剥がす」


「……はい」


ノアは紙に指先を触れた。

触れた瞬間、音が跳ねる。


ぎぎっ。


「……嘘だけ、黙れ」


吐息みたいに言うと、文字がじわりと滲んだ。


『真犯人』が消える。

『毒』が薄くなる。


嘘の音が、少しだけ遠のく。


紙の下から、黒い豆粒がぬるりと浮いた。


虚言蟲。


ミラが「出た」と呟き、ヘラで掬うようにして瓶へ落とす。

白い粉の上で豆粒は一度だけ跳ね――すぐに動きが鈍った。


「弱ってる。……効いてる」


ミラが瓶を覗き込む。


ノアは自分の喉に手を当てた。


(俺の言葉じゃなくても、黙る)


誓約石が、嘘を黙らせる。

ギルドが静かな理由。


それが救いなのに、どこか悔しい。


---


二枚目へ向かう途中、街の噂が耳に刺さる。


「悪女リディアが戻ってくるらしい」


笛。


「守備隊が少年を探してるってよ」


――無音。


ノアの足が止まった。


(……無音だ)


真実だ。

真実は音にならないのに、刺さる。


ミラが振り返る。


「どうしたの」


ノアは喉を鳴らした。


「……いま、誰かが言った」


「守備隊のやつ?」


「……たぶん、本当だ」


ミラは肩をすくめる。


「本当なら、なおさら気をつけないとね」


嘘がない。

当たり前の言葉が、怖い。


---


二枚目の貼り紙は、門へ続く大通りの壁だった。


人の流れが多い。

嘘も多い。


ノアの耳が軋む。


(……きつい)


首元の石片があるのに、吐き気が上がる。


壁の紙。


――『国王に毒を盛り、王都を裏から操った女』


ぎぃ……。


嘘のオルゴール。


ノアは指を当てる。


「……嘘だけ、黙れ」


文字が滲む。

嘘が薄くなる。


――だが。


紙の一番下に、小さな一文が残った。


『銀の百合の守備隊は、門前の騒乱の少年を捜索中』


無音。

真実。


ミラが顔をしかめる。


「それ、消えないね」


「……嘘じゃないから」


ノアは答えながら、喉が乾くのを感じた。


(消えない)

(残る)

(残るから、追われる)


通りの向こうで鎧の音がした。


銀の百合。


ノアの心臓が跳ねる。


(……来る)


ミラが小声で言う。


「兄ちゃん、札出す?」


「……出しても、見られたら」


言いかけて止まる。


見られたら。

顔を覚えられているかもしれない。


ノアは、紙の残った一文を見た。

無音で刺さる真実。


(これがなければ)

(俺のこと、書かれてなければ)


喉の奥が熱くなる。

嫌な熱。


(……消したい)


母の声が浮かんだ。


『正しさは人を救うけど、同時に、あなたを殺すわ』


(正しさじゃない)

(生きたいだけだ)


ノアの口が、勝手に動いた。


「……黙れ」


“嘘だけ”を付けなかった。


次の瞬間。


無音の針が、すっと抜けた。


紙の一文が、じわりと薄くなり――消えた。


ノアの世界が、一瞬だけ軽くなる。

嘘の笛も太鼓も鳴っているのに、真実の刺し針だけが消えたから。


――そして、遅れて。


背中が冷えた。


(……消えた)

(真実を、消した)


ミラが目を丸くする。


「え……今の、兄ちゃんが?」


ノアは返事ができない。

喉が詰まる。


リュシアンの声が、耳の奥で蘇る。


『黙らせるのは嘘だけにしておけ。……さもないと、君は“真実”まで黙らせる』


(……やった)

(今、やった)


鎧の音が近づく。

巡回の兵が通り過ぎるだけだった。

それでも、ノアは動けなかった。


ミラがノアの手首を掴む。


「兄ちゃん、行くよ。ここにいたら――」


ノアは頷くしかなかった。


二人は壁から離れ、路地へ逃げるように入った。


嘘の音が遠のく。

代わりに、心臓の音がうるさい。


どくん、どくん。


(俺の心臓が、一番うるさい)


---


三枚目、四枚目は、無心で回収した。


嘘を薄める。

虫を瓶に入れる。

布袋に紙を突っ込む。


作業は単純だ。

なのに、手が震える。


(真実を消した)


その事実が、指先に残る。


---


ギルドへ戻る扉の前で、ノアは足を止めた。

扉の向こうは静けさ。嘘が減る場所。


――それなのに。


(ここに入ったら、言わなきゃいけない)


嘘をつけない。

嘘をつけば、自分の耳が自分を殴る。


ミラが横から覗き込む。


「兄ちゃん、顔、真っ白」


「……大丈夫です」


「嘘ついた」


ノアは笑えなかった。


---


ギルドのカウンターで、セリアが回収物を受け取った。

布袋を覗き、眉を寄せる。


「……一枚、変ですね」


ノアの喉が鳴る。


(気づいた)


セリアは紙を広げた。

嘘の行が抜けて白くなっている。

――そして、本来残るはずの“捜索中”の一文もない。


「この一文、消えてます。……ここ、真実だったはずです」


セリアの声に嘘はない。

困惑も、本当だ。


バルドがすぐに現れ、紙を奪うように見る。

目が細くなった。


「……お前がやったか」


逃げ場がない。


「……僕が、言いました」


「何て言った」


ノアは息を吸った。

静かな空気が肺に入るのに、苦しい。


「……『黙れ』って」


バルドの顔が固まった。


「“嘘だけ”じゃないのか」


ノアは首を振った。


バルドは短く舌打ちした。

苛立ちじゃない。警戒の音。


「――リュシアンの忠告を、もう踏んだな」


ノアの背筋が凍る。


バルドは低い声で言った。


「いいか、ノア。お前の異能は“嘘を殺す”だけじゃない。……お前が望めば、真実も殺せる」


ノアの唇が震えた。


望んだ。

生きたくて、望んだ。


言えない。


バルドは続けた。


「真実を黙らせるのは、嘘より簡単だ。……真実は反論しないからな」


嘘がない言葉。

だから逃げられない。


「二度と、軽い気持ちで言うな」


バルドの視線が、ノアの喉を刺した。


「お前が真実を消すなら、都はお前を“道具”じゃなく“災厄”として扱う」


災厄。


ノアは膝が笑うのを感じた。


ミラが、ぽつりと言う。


「兄ちゃん。今の、怖かった?」


ノアは答えられない。

嘘をつけないから。


バルドが瓶を覗き込み、黒い豆粒を見た。


「虚言蟲は調べる。……だが、今日一番の収穫は虫じゃない」


彼はノアを見た。


「お前自身だ」


その瞬間、ノアの耳の奥で――ぎぃ……と音がした。


壊れたオルガン。

ギルドの中にはないはずの嘘。


(……誰かが、いる)


ノアの背筋が凍る。


バルドも、微かに顔を上げた。


「……チッ」


ミラがフードの奥で笑う。


「来てるね。あの“客”」


ノアは首元の石片を握りしめた。


冷たいはずなのに、温い。


(俺はもう、嘘だけじゃなく――真実まで黙らせられる)


その事実が、石より冷たかった。

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