第4話 嘘の貼り紙

冬の冷たい空気が、ギルドの匂いを切り裂いて入り込んだ。


麦酒の甘い酸味。汗と革。鉄と油。

そこへ外の埃と冷えが混ざる。


その隙間を縫って――声が刺さってきた。


「――悪女リディア! 王城を血で染めた女の“真実”だぞ!」


きぃん。


嘘の笛。

首元の石片が鈍らせても、針は残る。


ノアは足を止めた。


扉の脇の壁に、紙が貼られている。

無遠慮な大文字。汚れた指の跡。


そこに、母の名前が黒々と書かれていた。


ミラが小声で囁く。


「兄ちゃん。顔、また『吐きます』だよ」


ミラの声は軽い。

けれど、ノアの胃は軽くない。


(……読まなきゃいい)

(見なきゃいい)


そう思った瞬間、目が勝手に文字を追った。


――『追放された悪女リディア。王城暗殺事件の真犯人』


ぎぃ。


声じゃないのに、音が鳴る。

紙が鳴る。

インクが、骨を擦るみたいに。


ノアは息を止めた。


(嘘だ)


嘘の笛でも太鼓でもない。

壊れたオルゴールを掌で握り潰すみたいな、濁った高音。

耳じゃなくて、頭の中で鳴る。


次の行。


――『国王に毒を盛り、王都を裏から操った女』


きぃん。


嘘。嘘。嘘。

針が増える。


だけど――その下の、小さな一文だけが静かだった。


――『銀の百合の守備隊は、門前の騒乱の少年を捜索中』


(……これ、ほんとだ)


嘘はうるさい。

真実は、無音で刺さる。


ノアは首元の石片を握った。

冷たかったはずの欠片が、ほんの少しだけ温い。


「……剥がす?」


ミラが紙の端に指をかける。

爪を立て、ぐい、と引く。


びくともしない。


「接着、強っ。……これ、糊じゃないね」


「……糊じゃない?」


ミラが鼻を近づけた瞬間、ノアの頭がぐらりとした。

紙の奥で、ぎぃ……と音が鳴ったのだ。


二階で聞いた“客”の嘘ほどではない。けれど、似ている。


(嘘で出来たものがいる)


リュシアンの言葉が、喉の奥に残っている。


「ミラ、離れて――」


言いかけたときだった。


扉の外の喧噪が、一段大きくなる。

売り声。笑い声。靴音。

嘘の笛が何本も重なって、耳の奥が熱くなる。


(……うるさい)


ノアは、紙に手を伸ばした。

指先が紙の端に触れた瞬間、音が跳ねた。


ぎぎっ。


「兄ちゃん?」


ミラが不思議そうに見上げる。


ノアは、吐息みたいに言った。


「……嘘だけ、黙れ」


言ったのは紙に向けてだ。

――嘘に向けてだ。


次の瞬間。


黒い文字が、じわりと滲んだ。

インクが水に溶けるみたいに広がり、線が崩れる。


『真犯人』の文字が、まず消えた。

次に『毒』が薄くなり、穴が空いたみたいに白が覗いた。


嘘の音が、少しだけ静かになる。


「え……なにそれ」


ミラが目を丸くした。


周囲の冒険者が、ざわ、と椅子を鳴らす。

誰かが「おい……」と呟いた。


ノアは紙から手を離せなかった。

離したら、また音が戻る気がした。


だが――。


滲んだインクが、今度は逆に盛り上がった。

紙の下から、黒い染みが“浮いて”くる。


ぬるり。


指先に、湿った感触。


「……っ」


ノアが反射で手を引くより早く、ミラが動いた。

紙の端を剥がすのをやめ、指で黒い染みに触れ――摘まみ上げた。


「うわ。虫だ」


黒い、豆粒ほどの虫。

羽も脚も曖昧で、形が定まっていない。

それなのに、確かに“生きて”いる。


ぎぃ……ぎぃ……。


虫から、紙と同じ音が鳴っていた。

いや、紙の音の正体が、こいつだ。


ノアの視界が白くなる。


(これが……嘘で出来たもの――)


虫はミラの指の間で、ぐにゃりと形を変えようとした。

逃げる。

壁の隙間へ、床へ、人の靴へ。


「逃がさないよ」


ミラは笑っていない声で言い、指をきゅっと締めた。


――でも、次の瞬間。


ミラの指の間から、黒い糸みたいなものが伸びた。

床を這い、扉の隙間へ向かう。


「わ、キモ……!」


ミラが思わず手を緩める。


(出るな)


ノアは咄嗟に、虫に向けて言った。


「黙れ」


たった一言。

今度は、余計な言い回しを挟まなかった。


虫の動きが止まった。


ぎぃ……という音が、途中で折れた。


黒い豆粒は、乾いたインクの塊みたいに固まり、ミラの指からぽとりと落ちる。

床に落ちたそれは、もう何も鳴らさない。


――静かだ。


ノアは膝が笑うのを感じながら、息を吐いた。


「……今の、兄ちゃんがやったの?」


「……わかりません」


嘘をつけない答え。

だけど、今回は自分で“狙った”気もした。


紙を見る。


嘘の行は、ところどころ白く抜けている。

文字が消えた穴の周りには、墨の滲みだけが残った。


――それでも、静かな一文だけは残っていた。


『銀の百合の守備隊は、門前の騒乱の少年を捜索中』


(消えない)

(嘘じゃないからだ)


背筋が冷える。


「お客様、そこは……!」


受付のセリアがカウンターから出てきた。

慌てているのに、声は綺麗だ。嘘がない。


彼女は壁の紙と、床の黒い塊を見て、表情を固くする。


「……また、ですか」


「また?」


ミラが首を傾げる。


セリアは小さく頷いた。


「今日だけで三枚目です。貼っても貼っても……勝手に」


“勝手に”の言い方に、嫌な現実が滲む。

人が貼っているのに、“勝手に”増えるみたいに聞こえる。


ノアの耳が、紙の残骸の奥を探る。

さっきまで鳴っていた音は止んでいる。


だが、壁の裏、扉の外――どこかで同じ和音がうごめいている気がした。


「セリア。何を騒いでいる」


二階から降りてくる重い足音。

バルドだった。

表情は疲れているのに、目は鋭い。


彼は壁の紙を一瞥し、床の黒い塊を見て、舌打ちした。


「……虚言蟲か」


ノアの喉が鳴る。


「きょ……?」


「嘘を餌にして、嘘をばら撒く虫だ。紙に仕込んで、噂を“増やす”」


バルドは紙の残りを指で弾いた。

指先に黒い汚れがつき、すぐに拭う。


「誰がそんなものを……」


ノアの問いは、自分でも震えていた。


バルドは嘘のない声で言う。


「都には“噂屋”がいる。金で名を殺す連中だ。……最近は虫まで使う」


ミラが床の塊をつつこうとして、バルドに睨まれて引っ込めた。


「さっきの客、言ってたやつ?」


「違う。だが繋がっていてもおかしくない」


バルドはノアを見る。

視線が、首元の石片と、指先の震えを拾う。


「お前が黙らせたな」


「……たぶん」


「――“たぶん”で動くな」


叱るみたいな言い方なのに、嘘がないから逃げ場がない。


バルドは続けた。


「だが、よく止めた。放っておけば、紙一枚が十枚になる。噂が噂を呼ぶ。……そして、誰かが死ぬ」


ノアは唇を噛んだ。

母の名が、また都で殺されていく。


バルドはカウンターの上から一枚の紙を取り、ノアに放った。

小さな依頼書。灰色の印。


「ギルドの雑務依頼だ。『虚言蟲付きの貼り紙回収』。報酬は安い。だが――理由にはなる」


理由。

冒険者として動くための、理由。


ノアは依頼書を受け取った。

紙は乾いているのに、指先が冷える。


「……僕がやれば、また来る」


「来るだろうな」


バルドは即答した。


「だから、味方を選べと言った」


ミラが横から依頼書を覗き込み、にやりとする。


「初仕事だね、兄ちゃん」


ノアは返事ができなかった。


耳の奥で、さっき消えたはずの和音が、遠くで鳴った気がしたからだ。


ぎぃ……。


扉の外。

人の波の中。


まるで――誰かが、こちらの反応を確かめているみたいに。

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